グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)、ある救済の風景。…交響曲第3番、壊滅の中からの再生。
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)、ある救済の風景。
…交響曲第3番、壊滅の中からの再生。
交響曲第3番は《愉しい》名曲なのか。
Gustav Mahler
(1860-1911)
ところで、交響曲第三番を考えてみよう。
この、一般的には牧歌的で、愉しいメルヘン交響曲と呼ばれるこの音楽を、である。
いずれにしても、これは驚くほど巨大な交響曲である。全6楽章構成、そして、本来は7楽章構成だったという。
現行の6楽章構成によるだけで、テンポの遅い80年代のバーンスタインや、ロリン・マゼールの演奏では、まるまる120分くらいかかる。
本来の第7楽章、《角笛》歌曲の《天上の生活》は、後の交響曲第四番の最終楽章に回されることになる。
第三番は、1895年から翌年にかけて、作曲された。
Gustav Mahler
Symphony No. 3 in D minor(1893-96; revised 1906)
Part 1
I. Kräftig. Entschieden
Part 2
II. Tempo di Menuetto. Grazioso
III. Comodo. Scherzando. Ohne Hast
IV. "O Mensch! Gib Acht!"
V. "Es sungen drei Engel"
VI. Langsam. Ruhevoll. Empfunden
現行の形は、
第一部
I. Kräftig. Entschieden(力強く、決然と。オーケストラのみ)
30分以上かけた、天地創造の物語的なもの。すくなくとも、そんな風に聴こえる。
第二部
II. Tempo di Menuetto. Grazioso(メヌエットのテンポで。オーケストラのみ)
指揮上のマーラーの愛弟子ワルターは、これをナイーブ過ぎるといって、赤面しながら聞いたという。
III. Comodo. Scherzando. Ohne Hast(コモド・スケルツァンド。オーケストラのみ)
IV. "O Mensch! Gib Acht!"(《人間よ、心せよ。》ニイチェのツァラトゥストラ末尾からの引用に作曲。アルト独唱)
O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
,,Ich schlief, ich schlief -
Aus tiefem Traum bin ich erwacht: -
Die Welt ist tief,
Und tiefer als der Tag gedacht!
Tief ist ihr Weh -
Lust - tiefer noch als Herzeleid!
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit -
- will tiefe, tiefe Ewigkeit!”
おお、人間よ!心せよ!
深い真夜中は何を語るのか?
私は眠っていた。私は眠っていた…
深い夢から私は目覚めた。
世界は深い。
昼が考えていた以上に深い!
世界の嘆きは深い…
だが歓びは嘆きよりも深い!
嘆きは語る…「消え去れ!」と。
しかし、歓びはすべて永遠を求める…
深い深い永遠を求めるのだ!
V. "Es sungen drei Engel"(《天使たちが語る》アルト独唱、女声合唱、少年合唱。《角笛》より。)
(Bimm bamm!...)
ビン!バン!
Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
Mit Freuden es selig in dem Himmel klang;
Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
Daß Petrus sei von Sünden frei.
3人の天使が美しい歌をうたい、
その声は幸福に満ちて天上に響き渡り、
天使たちは愉しげに歓喜して、叫んだ。
「ペテロの罪は晴れました!」と。
Und als der Herr Jesus zu Tische saß,
Mit seinen zwölf Jüngern das Abendmahl aß.
Da sprach der Herr Jesus; „Was stehst du denn hier?
Wenn ich dich anseh', so weinest du mir!“
主イエスは食卓にお着きになり、
12人の弟子たちと共に晩餐をおとりになったが、
主イエスは言われた「お前はどうしてここにいるのか?
私がお前を見つめていると、お前は私のために泣いている!」
„Und sollt' ich nicht weinen, du gütiger Gott?
Ich hab' übertreten die zehn Gebot;
Ich gehe und weine ja bitterlich,
Ach komm und erbarme dich über mich!“
「心広き神よ!私は泣いてはいけないのでしょうか?
私は十戒を踏みにじってしまったのです。
私は去り、激しく泣きたいのです、
どうか来て、私をお憐れみください!」
„Hast du denn übertreten die zehn Gebot,
So fall auf die Knie und bete zu Gott,
Liebe nur Gott in alle Zeit,
So wirst du erlangen die himmlische Freud'!“
「お前が十戒を破ったというなら、
跪(ひざまず)いて神に祈りなさい、
いつも、ひたすら神を愛しなさい、
そうすればお前も天国の喜びを得よう!」
Die himmlische Freud' ist eine selige Stadt;
Die himmlische Freud', die kein Ende mehr hat.
Die himmlische Freude war Petro Bereit't
Durch Jesum und allen zur Seligkeit.
天国の喜びは幸福の街である。
天国の喜びは、終わることがない
天国の喜びがイエスを通して、
ペテロにも、すべての人にも幸福への道として与えられた。
VI. Langsam. Ruhevoll. Empfunden(緩やかに、安らいで、エモーショナルに。オーケストラのみ)
第一楽章の次に長い。30分くらいかかる。
マーラーの自己解説に寄れば、内容は以下のようなもの。
第一部
序奏 「牧神(パン)が目覚める」
第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」
第二部
第2楽章 「野原の花々が私に語ること」
第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」
第4楽章 「夜が私に語ること」
第5楽章 「天使たちが私に語ること」
第6楽章 「愛が私に語ること」
第3番から派生した第4番は、1990年に完成させている。
Gustav Mahler
Symphony No. 4
1.Bedächtig. Nicht eilen.
2.In gemächlicher Bewegung. Ohne Hast.
3.Ruhevoll.
4.Sehr behaglich.
第四楽章に、第3番から流用された《角笛》の《天上の生活》が組み込まれている。
Das himmlische Leben
(aus Des Knaben Wunderhorn)
Wir genießen die himmlischen Freuden,
Drum tun wir das Irdische meiden.
Kein weltlich Getümmel
Hört man nicht im Himmel!
Lebt alles in sanftester Ruh.
Wir führen ein englisches Leben,
Sind dennoch ganz lustig daneben.
Wir tanzen und springen,
Wir hüpfen und singen,
Sankt Peter im Himmel sieht zu.
我らは天上の喜びを味わい
それゆえに我らは地上の出来事を避けるのだ。
どんなにこの世の喧噪があろうとも
天上では少しも聞こえないのだ!
すべては最上の柔和な安息の中にいる。
我らは天使のような生活をして
それはまた喜びに満ち、愉快なものだ。
我らは踊り、そして、飛び跳ねる。
我らは跳ね回り、そして、歌う。
それを天のペテロ様が見ていらっしゃる。
Johannes das Lämmlein auslasset,
Der Metzger Herodes drauf passet,
Wir führen ein geduldig's,
Unschuldig's, geduldig's,
Ein liebliches Lämmlein zu Tod!
Sankt Lukas, der Ochsen tät schlachten
Ohn' einig's Bedenken und Achten,
Der Wein kost' kein' Heller
Im himmlischen Keller,
Die Englein, die backen das Brot.
ヨハネは仔羊を小屋から放して、
屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な
一匹のかわいらしい仔羊を
死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛を
ためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、
ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。
Gut Kräuter von allerhand Arten,
Die wachsen im himmlischen Garten,
Gut Spargel, Fisolen
Und was wir nur wollen!
Ganze Schüsseln voll sind uns bereit!
Gut Äpfel, gut Birn und gut Trauben,
Die Gärtner, die alles erlauben.
Willst Rehbock, willst Hasen,
Auf offenen Straßen
Sie laufen herbei!
Sollt' ein Festtag etwa kommen,
Alle Fische gleich mit Freuden angeschwommen!
Dort läuft schon Sankt Peter
Mit Netz und mit Köder
Zum himmlischen Weiher hinein,
Sankt Martha die Köchin muß sein.
すべての種類の良質な野菜が
天上の農園にはある。
それは良質のアスパラガスや隠元豆や
そして、その他欲しいものは我らが思うがままに
鉢皿一杯に盛られている!
良質な林檎や梨や葡萄も
この農園の庭師は何でも与えてくれる。
牡鹿や兎や
みんなそこの辺りを
楽しそうに走り回り
獣肉の断食日がやって来たら
あらゆる魚が喜んでやって来る!
ペテロ様が網と餌とを持って
天上の生け簀(す)へと
いそいそといらっしゃる。
マルタ様が料理人におなりになるのだ。
Kein Musik ist ja nicht auf Erden.
Die unsrer verglichen kann werden,
Elftausend Jungfrauen
Zu tanzen sich trauen!
Sankt Ursula selbst dazu lacht!
Kein Musik ist ja nicht auf Erden,
Die unsrer verglichen kann werden.
Cäcilia mit ihren Verwandten,
Sind treffliche Hofmusikanten.
Die englischen Stimmen
Ermuntern die Sinnen,
Daß alles für Freuden erwacht.
地上には天上の音楽と比較できるものは
何もなくて
1万1千人もの乙女たちが
恐れも知らずに踊りまわり、
ウルズラ様さえ微笑んでいらっしゃる
地上には天上の音楽と比較できるものは
何もなくて
チェチリアとその親族たちが
すばらしい音楽隊になる!
天使たちの歌声が
気持ちをほぐし、朗(ほが)らかにさせ
すべてが喜びのために目覚めているのだ。
交響曲第4番当初の構成はどんなものだったのか?
あてにならないが、こんなメモが残されてはいる。
1.「永遠の現在としての世界」ト長調(→第4番の第1楽章)
2.「この世の生活」変ホ長調(→『少年の魔法の角笛』による歌曲)
3.「カリタス」ロ長調(アダージョ)(→第4番の第3楽章)
4.「朝の鐘」ヘ長調(→第3番の第5楽章)
5.「苦悩のない世界」ニ長調(スケルツォ)(→第5番の第3楽章?)
6.「天上の生活」ト長調(→第4番の第4楽章、『少年の魔法の角笛』による歌曲)
いずれにしても、マーラーの中で、(ひょっとしたら次の第五番をも含めて、)かなりぐちゃぐちゃに一つのものとして、それらは作曲されていた、と言うことになる。
現実的に演奏可能な枠の中におさめなおさなければならないので、手を変え、品を変え、構成をやり直していたには違いない。
一般的には、連続性ではなくて、その断絶によって語られがちな、交響曲第5番の構想をも含めて。
考えようによっては、《巨人》と《復活》が連続しているように、第3&4番と第5番は、連続しているのかも知れない。
実際、始まり方は同じだ。
同じように、金管のファンファーレから始まる。
前者と後者の違いは、目覚めのファンファーレであるか、葬送のファンファーレであるかの違いに過ぎない。
ところで、仮に、第四番の《天上の生活》が、第三番の第七楽章だったとしたら、こうなる。
第一部
序奏 「牧神(パン)が目覚める」~第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」
第二部
第2楽章 「野原の花々が私に語ること」
第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」
第4楽章 「夜が私に語ること」(ニイチェ)
第5楽章 「天使たちが私に語ること」(角笛)
第6楽章 「愛が私に語ること」
第7楽章 「天上の生活」(角笛)
結局は、そうならなかったのだし、それはそうなのだが、ここで注目しておくべきなのは、《天上の生活が》第二部に組み込まれる形になってしまうことである。
ごくごく単純に言って、第一楽章はマーラー最大規模の長大な音楽であって、そこではまさに、カオスそのものから世界が形成され、目覚めていくような、そんな、前2曲…《巨人》と《復活》の、あくまで人称性をもった、ある意味において主観的な音楽からは、あまりにも遠い地平で音楽はなっている。
《巨人》《復活》が個人、あくまでも個人の悲劇と復活を追いかけるなら、ここでは、そんなものは、いわば《世界-内-存在》に過ぎないところの《世界》そのものの眼差しのうちに、音楽を展開しようとしている。
そこには、いかなる意味でも人称性はありえない。
そして、この楽章は結構、不可解な音楽なのである。
聴きなれると、そんなもので終ってしまうのだが、8本もホルンを重ねた壮大な(とはいえ、)ファンファーレで音楽がこじ開けられた次の瞬間に、音楽は失墜して、すべてが破壊された廃墟の混沌が姿を現してしまうのだ。
これは、どういうことなのか。
これがまさに、世界の目覚め、世界の創造の物語であるとするならば、覚醒の前には破壊が先行しなければならないことになる。
すでに創造されているものが破壊されるのではなくて、破壊されたものが、破壊されたものとして覚醒し、その固有の創造をなしていくのだ、と言うべきなのだろうか?
この音楽が持つ不可解さをた易く捨象したところに、この交響曲が愉しいメルヘン音楽であるという享受の仕方が発生する。
ただし、それはやはり、思考停止に過ぎない気がする。
いずれにしても、メルヘン交響曲としてはかなりいびつなことになってしまうニイチェの唐突な引用(作曲当時の、もっとも危険でもっとも奇妙でもっともいかがわしい思想家である。)も、そのような《ねじれ》を内包した思考に基づく交響曲だとするならば、素直に必然性を持って、聴き得ることになる。
ニイチェの、例えば《永劫回帰》もまた、そのような不可解な《ねじれ》を含んだ概念である。
ニイチェの《永劫回帰》において、結局は何も反覆されない。《それ》がまさに《それ》であって《それ》以外でありえないこと、その特異性の徹底化こそが《永劫回帰》なのだから、時間の中において、結局はなにも反覆されず、なにも救済されないのだ。故に、無限に《それ》は《それ》自体を無際限に《それ》自体として《それ》自らのうちに反覆し続けなければならない。救済の物語や、ある超越者の存在を仮定した自己証明などありえない、すべての枯渇した、干からびきった世界観が、拡がることになる。故に、ツァラトゥストラは、まず、吐き気を催し、恐怖するのである。
ところで、第一楽章再現部、序奏部の再現と主部の行進曲の再現をつなぐあたり(リンクの27分くらい)に、いきなり第9番アダージョの《救済のテーマ》が、鳴る。
《復活》の《原光》にもでてきた、あれである。
交響曲第9番を聴いた耳からするとかなり唐突に聞こえるが、この展開は、《原光》におけるそれと同じように、実は唐突でもなんでもなく、トロンボーンの、いわば破壊と混沌のテーマ…第二主題の、その死滅し果てたような展開の先に、自然にメロディ展開の結句として現れるので、この曲だけを聴いている分には、むしろまったく気付かない。あくまで、自然な展開だ。
つまり、ここでも《救済》は存在のカオスそのものから発生する、と言うことになる。そしてここにおいては、《原光》が先行存在する以上、あきらかにそこからの引用ないし思考上の発展である、と言うことになる。
にもかかわらず、私は救済され得る、と、そう言っているのだ。
そして、ここにおいて、まさに《救済》は《破壊、混沌、廃墟》の内的可能性それ自体として、見いだされているということになる。つまり、それらは、単に不可分的な可能性であるに他ならない。《救済》が《破壊、混沌、廃墟》にそもそも内包されているに過ぎなく、逆もまた然りであるならば、それらはむしろその意味をさえ枯渇させ、むしろ存在の無際限な生成の現実だけが、視野の前に拡がる事になる。ニイチェの、何ものをも反覆させないにも拘らず、すべてのものは反覆しなければない《永劫回帰》と同じように。
いずれにしても、私は、マーラーの曲を、ほぼ番号順に聞いていったので、第9番を聞いたのは比較的に後だった。だから、はじめて聴いたときには、もちろんなんとも想わなかったが、飽きるほど第9番を聞いたあとで、久しぶりに第3番を聞いたときに、変なブラックホールに落ち込んで、時間がゆがんでしまったような感覚に襲われた。
もちろん、マーラーは番号順に交響曲を書いたのであって、後の第9番の《救済のテーマ》自体が、第2番の《復活》の、そして第3番の《破壊、混沌、廃墟のテーマ》の援用にすぎなかったというだけなのだが、第3番においても、そのテーマは、結局は音楽を《救済》して仕舞うのである。
展開部、音楽が展開の果てに破綻してしまうように混乱状態に陥っていくのを、消化不良のまま途中やめにして、いきなりファンファーレが鳴り響く。すべてを断ち切って、再現部に突入する。全部振り出しに戻すのである。
やがて力を失った《破壊のテーマ》が再現され、もはやとぎれがちに、消滅していこうとするそのぎりぎりの展開の末に、つぶやかれた最後の結句、この《救済のテーマ》、正確に言えば、《最後の結句》が、やがては行進曲を覚醒させて、そのままコーダに突入して音楽は華々しく終る。つまり、音楽自体が、いきなりありえない展開をして勝手に終結してしまうのである。
論理的な言葉にしてしまえば、ハイデッガーやらなにやらの、決して論理的に明晰とはいえない論法に陥ってしまうかも知れない、そんな認識に近いものが、音楽として聞いている分には、非常にリアルに聴取される、そんな、風景が、広がる。ニイチェが、《永劫回帰》、とただ、詩的につぶやいた瞬間と同じように。
そんな、いわばマーラーによって音楽的に、あくまでも音楽的に語られた《存在論》が、第一部だといってよい。
そして、第二部においては、その世界における者たちの、人称性をともった歌が、それぞれに展開していく、ということになる。
花、動物、夜の人間、そして…天使、愛、更には天上世界までもが、である。
これは、どういうことなのだろう?
つまり、神は世界の外に《超越》してはいない、と言うことになる。そして、愛さえも、である。
マーラーにおいて、存在はすべてに先行する。その破壊も創造も、復活も救済も、である。そして、神や愛さえも、世界には先行しないというのだ。それらは階層的な優越者ではあっても、いわば《世界-内-存在》にすぎず、いかなる形でも、存在に超越したりはしない、ということだ。
もちろん、キリスト教の《神》も、ユダヤ教の《神》も人格神であって、ちゃんと物を言う《神》なのだが、(そして、《宗教》の《神》とはそもそもそう言うものなのだが、)造物主としての超越性をうばれてある、《世界-内-存在》としての、それらの中の最優越者にしぎない支配者としての、《神》の提示と言うのは、かなり異端的な発想だったのではないか。《神》とは、単なる王様に過ぎない。生物種が違うだけである。犬にとっての主人は人間であるというに過ぎない。
いずれにしても、そんな世界観を提示しながら、第三番の、もう一つのクライマックスは、第6楽章に現れる。あの、オーケストラのみによる、弦楽主体のラングサムである。
この楽章は、聴けば、その主題のモティーフが、第一楽章におけるあの《破壊と救済の結句》から来ていることがわかる。そして、明らかに、この響きは、やがては《アダージェット》に変奏されている。
作曲家の手癖と言うにはあまりにも明確な、音型や響きの類似がいたるところに張り巡らされ、そして、同じ響きは第9楽章の《アダージョ》にも引き継がれる。
つまりは、《原光》を起点として、《第3番》で認識上の飛躍を遂げたああとに、《美しさ故に愛するなら》=《アダージェット》から《第9番アダージョ》へ、という系譜が、一気に出来上がってしまうことになる。
つまり、決別の《第9番》の《最期のアダージョ》は、《大地の歌》から来たのではなく、ましてやブルックナーの引用でさえなく、そもそもその《大地の歌》そのものも含めて、《第3番》の廃墟から、《アダージェット》を経由してきたのだ、と言うことだ。
では、その《アダージェット》を含む交響曲第5番とは、一体、何を語る交響曲なのか?
マーラーの見る風景は、一体どのようなものなのか?
2018.07.23
Seno-Le Ma