心の扉が開かれる
TAO 自分さがしの旅@ilchi_tao
自分に誠意を尽くした人は、心に平和と愛が芽生えるのが感じられ、身体に活力が溢れる。人に誠意を尽くせば、必然的に人間関係はよくなる。まず相手のために誠意を尽くせば、誰でも信頼が生まれ、心の扉が開かれるからだ。誠実、これは自分への愛、そして人への愛を育てる公式だ。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
呼吸道は呼吸を使った瞑想の道です。
瞑想は思想、民族・宗教、宗派の違いによって様々な言葉が飛び交っています。
メディテーション(Meditation) ヴィパッサナ(Vipassana)
マインドフルネス(Mindfulness) ディヤーナ(Dhyāna)
ジャーナ(Jhāna) 禅( Zen)
ズィクル(dikr) 心斎・坐忘(Xin-zhai Zuo-wang)
沈黙の祈り(silent meditation)
「マインドフルネス」は脳を活性化させ、ストレスをたまりにくくし、仕事のパフォーマンスを上げるなどの明確な利益を得られると盛んに宣伝しています。
宗教的な瞑想は効果が薄いと言わんばかりです。
地域一番店を目指すには他の瞑想と差別化しなくていけませんからマーケティングの考えから行けば当然です。
欲望を煽らない仏教の禅僧の説明によると「禅」は短絡的な利益を求めるのではなく実践すること自体が目的なのでマインドフルネスとは本質的な考え方が全く異なるのだそうです。
功利主義的な考え方のもとで得られた幸福感は長続きしないそうです。
世俗のマインドフルネスと宗教的な瞑想は目的が違うとお互いに主張しています。
そうは言っても手法は「いまここに注意を向ける」なので手法自体は同じなのです。
手法が同様なのはマインドフルネスが薬を使っても痛みが取れない患者の為に医者が瞑想から宗教色を取り去って指導したことから始まったからです。
どの瞑想料理も見た目の色合い、味付けや調理法、消化時間が違うだけで食べて消化してしまえば「幸福である(覚醒)」ことでは同じなのです。
マインドはランク付けが好きなので自分のところの料理と他の料理を区別したがります。
メディテーション(瞑想)とメディスン(薬)は同じ語源から来ています。
どちらも真ん中という意味のメディという言葉がついています。
栄養が足りない時は栄養をとり 栄養が過剰なときは少食、絶食、断食をして
肉体が疲れているときは体の休息を、エネルギーが不足している時は経絡に気を通して
エネルギーが過剰なときは使い切り、頭が疲れているときは思考の休息を、
嫌な事をして疲れていたら好きな事をするとバランスが取れます。
バランスが取れている健康な人に薬は必要ありません。
健康な人に余計な薬を与えるとバランスが傾いてしまいます。
薬は症状によって処方箋が異なり薬を間違えると症状が悪化し場合には死に至ることもあります。
このように薬は使い方を誤ると毒になりますが適切に使えば健康に導くこともできます。
瞑想法も同じ様に探求者にあった瞑想法を使用しないと、マインドに強く囚われてしまってかえって、苦しみだけが続いてしまうのです。
瞑想法には沢山の種類があります。
体を動かす瞑想と体を動かさない瞑想 目を開ける瞑想と目を閉じる瞑想
声を出す瞑想と声を出さない瞑想
努力して集中する瞑想と努力することなくあるがままでいる瞑想
いったい、どちらが正しい瞑想なのか迷う人がいると思います。
正しいとは思考が作り出す相対的な概念にすぎません。
瞑想法は探求者の状態に関係しているので使用によっては、どの瞑想も正しくて間違っていることになります。
瞑想法は「する」ことにかかわり「ある」ことでは瞑想法は不要なのです。
私と言った時にマインドの私と本当の私の二つの私があります。
ただし、マインドの私は本当の私ではないので二つの私に分かれますが 本当の私はマインドの私を含んで境界線がないので二つに分かれてはいません。
いまここから離れたどこかに本当の私があるわけではありません。
マインドは過去の記憶で出来ています。マインドは今ここにいられません。
マインドはすぐに今ここから立ち去ろうとします。
マインドの私は世界を分離して見ているので、最終的にマインドの私と本当の私は統合されなければならないのです。
Facebook立岩 司さん投稿記事
ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。
小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから。
この世にある喜びという喜びは 他の幸せを願う気持ちからやって来る
この世にある苦しみという苦しみは 己の幸せを願う気持ちからやって来る
<チベットの生と死の書>
ソギャル・リンポチェ・著 講談社 2004年9月8刷
● カルマ
転生の背後にある真理、転生をうながす力、それがカルマと呼ばれるものである。西洋ではカルマは運命や宿命と誤解されることが多いが、宇宙を支配する絶対に誤ることのない因果律と考えるのが正しい。カルマという言葉は本来「行為」を意味するものであり、行為のなかにひそむ力であると同時に、行為がもたらす結果でもある。
平易な言葉でいうと、カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。
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それをブッダはこう言い表す。
悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。
小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。
小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから。
・・・・・・・
わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。
普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。
そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。
その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。
わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。
来世になることもある。
そして、その原因をひとつに特定することはできない。
なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。
そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。
ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。
パドマサンバヴァはさらに言う。
「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。
ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
● 善き心
つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。
ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
これは決して忘れてはならない重要なことである。
そう、それは動機にかかっているのだ。
良い動機、悪い動機、それがわたしたちの行為の結果を決定するのである。
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シャーンティデーヴァは言った。
この世にある喜びという喜びは
他の幸せを願う気持ちからやって来る
この世にある苦しみという苦しみは
己の幸せを願う気持ちからやって来る
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カルマの法則は不可避であり不過謬である。
そのため、わたしたちが他者を傷つけるとき、わたしたちは自分自身を傷つけているのであり、他者に幸福をもたらすとき、自分自身の未来に幸福をもたらしているのである。
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ダライ・ラマは言う。
あなたが――怒りといったような――自己本位な動機をおさえ、他人に対するいっそうの思いやりやあわれみを育てようとするとき、それは最終的には他のどのような手段がもたらすよりもはるかに多くの利益を、あなた自身にもたらすことになるのです。
そこで、わたしは時々、賢い利己主義者はこの方法を実践すべきだと言ってみます。愚かな利己主義者はつねに自分のことを考えています。
しかし、その結果は望ましいものではない。
賢い利己主義者は他人のことを考え、できるだけ人を助けます。
そしてその結果、彼ら自身もまた利益を受けるのです。
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生まれ変わりの事実からひとつの本質的な意味を引き出すとすれば、それは、思いやりを育てなさい、ということになる。
生きとし生けるものがいつまでも幸福でいることを願う思いやりを、その幸福を守り育ててゆくべく行動する思いやりを、やさしさを、実践しなさい、ということなのである。
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ダライ・ラマは言う。
寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。
私たちの脳が、私たちの心が寺院なのです。
やさしさが、わたしの哲学なのです。
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つまり、カルマは宿命論的なものでも予定説的なものでもないのである。
カルマとは、わたしたちの創造し変化する能力をいう。
それは創造的なものなのだ。
なぜなら、なぜ、いかに、行動するかを決めるのはわたしたちなのだから。
わたしたちが未来を変えるのだ。
未来はわたしたちの手のなかにある。
わたしたちの心の手のなかに。
チベットでは、「悪行にもひとつ良いことがある。それはあがなえるということだ」という。
そう、つねに希望はあるのだ。
人殺しや極悪な犯罪常習者であっても、変わることができ、彼らを犯罪に導く条件づけを乗りこえることができるのである。
何であれ今起こっていることは過去のカルマの反映なのだ。
そのことを知っていれば、本当に知っていれば、苦しみや困難に見舞われても、それを失敗や破局と見ることはなくなる。
あるいは苦難を何かの罰であると思ったりすることもなくなる。
自分を責めたり、自己嫌悪におちいることもなくなる。
くぐり抜けてゆかねばならない苦痛を、過去のカルマの完成、過去のカルマの結実と見るようになるのである。
チベットでは、苦しみは「過去のカルマをきれいに掃きだすほうき」だという。ひとつのカルマが完了したことをむしろ喜ぶべきなのだ。
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「幸運」すなわち良いカルマの結実は、上手に利用しないとまたたくまに過ぎ去ってしまうかもしれないし、「不運」すなわち悪いカルマの結実は、実は成長のためのまたとないチャンスなのかもしれないということを、わたしたちは知るべきなのだ。
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カルマの働きを見るのは難しいだろうか。
ただ少しばかり自分の人生を振り返ってみるだけで、何らかの行為の結果がはっきりと見えてくるのではないだろうか。
腹を立てたり人を傷つけたことが、結局は自分にはね返ってこなかっただろうか。そこであなたは苦く暗い思い出と自己嫌悪の影をいだいてたたずまなかっただろうか。その思い出と影がカルマなのだ。
習慣も、恐れもまた、カルマによるものだ。過去のみずからの行為の、言葉の、思いの結実なのだ。
自分の行為を子細に見て、真に行為に気づいていると、やがて行為のなかで繰り返されている一定のパターンがあることに気がつくだろう。
わたしたちが悪しき行為を行なっているとき、それは苦痛と苦難に向かっているのであり、わたしたちが善き行為を行なっているとき、それは最終的には幸福をもたらすのである。
● 責任
臨死体験の報告が、実に的確な驚くべき真理の証となっているのに触れて、わたしは非常に深い印象を受けてきた。
多くの臨死体験に共通した要素のひとつであり、さまざまな考察を呼んできたものに「全生涯のパノラマ的回顧」がある。
この体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出すだけでなく、みずからの行為がもたらしたあらゆる結果をも見るようなのだ。
事実彼らは、自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情――それがどんなに不快であれ、衝撃的であれ――をつぶさに体験するのである。
・・・・そのため師たちは言う。
今のこの生で自己にできるかぎりの責任を負わなければ、苦しみは先々の生にわたって続いてゆく。
それも数限りない生にわたって続いてゆくことになる、と。
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だが、カルマの法則に従い、わたしたちのなかに慈しみとあわれみの善き心を目覚めさせてゆけば、心の流れを浄め、心の本質についての智恵を徐々に目覚めさせてゆけば、わたしたちは真の人間になることができるのである。
そしてやがては悟りにいたるのである。