数と俳句
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/categories/5798916 【言霊・言葉・数霊】
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_46.jsp 【数字で印象を鮮明に】より
雞頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
子規が亡くなる2年前、病床から庭を眺めての作と思われます。病人の目に映った「十四五本」の鶏頭の印象が鮮やかです。この句の魅力は「十四五」という絶妙の数です。もっと少なければ三本、五本などと数を特定できますが、少なからぬ本数で生えている様子を表現するには「十四五」という、やや曖昧な表現がぴったりです。この句と「鶏頭の七八本」「枯菊の十四五本」とがどう違うのかと問うた人があるそうですが、「鶏頭の十四五本」のもっともらしさは動かしがたい。
月の友三人を追ふ一人かな 高濱虚子
月を愛でる風雅の友でしょうか。三人連れを追うように、その後をもう一人。
牡丹百二百三百門一つ 阿波野青畝
おびただしい牡丹の咲く庭園。その庭園に入る門はたった一つ。
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子
にわかに降りつのる雨を「雨粒ひとつふたつ百」と表現しました。
物の数をうまく詠み込むと句のイメージが鮮明になります。今回は物の数を詠み込んだ投稿句を見ていきましょう。
字余りを直す
カーネーション幾千本とてまだ足りぬ
牧野純夫さん(秋田市、74歳)の作。母への感謝の思いを詠んだ句です。中七の字余りを直しましょう。
幾千のカーネーションもまだ足りぬ
情景を描く
ペダル止め金木犀の午後三時
藤田陽太さん(福岡県、56歳)の作。自転車で近くの筑後川に行って詠んだそうです。「午後三時」が具体的で良いですね。金木犀(きんもくせい)のそばに自転車を止めてある情景を想像して、別の句案をお示しします。
午後三時金木犀と自転車と
文字数を減らす
膝掛や許可は十二月からの校則
古谷祥多さん(横手市、32歳)の作。校則によれば冬期は膝掛使用可なのです。「十二月」が具体的で良いですね。もうひと頑張りして文字数を減らします。
校則の膝掛許す十二月
情景を単純化する
冬の虹二つの道を繋ぎけり
岐路に立ち一つの道に冬木立
太田穣さん(男鹿市、56歳)の作。「依願退職する複雑な気持ち」を詠んだとのこと。「冬の虹」「冬木立」という季語がよく効いています。詠み込まれた情景を単純にする方向で直してみましょう。
道二つあり冬の虹懸かりたる
二つある道の一つや冬木立
類語を検討する
朝露や六人乗りの乳母車
神戸みや女さん(神戸市、53歳)の作。保育士さんが園児を乗せる車を想像しました。「六人」がリアルです。添削例では「カート」と言ってみました。
朝露やカートに園児六人を
句形を整える
軽トラに九段重ねて早苗床
芦野あきみさん(千葉県、76歳)の作。田に植える早苗を九段重ねにして荷台に載せている情景。「九段重ねて」で現場の感じが分ります。添削例では切れ字の「や」を使って句形を整えました。
軽トラに九段重ねや早苗床
分かりやすく言い換える
桜餅リズムで作り六つ七つ
清水健彦さん(秋田市、41歳)の作。「リズムで」とは、調子よくリズミカルな手つきで作ったのでしょう。そんな心持が「六つ七つ」に表れていますが、「リズムで」が分りにくいので添削を試みます。
桜餅つくる次々六つ七つ
https://sectpoclit.com/hajime-5/ 【数と俳句(一)/小滝肇】より
「私、数学きらいです。」
穏やかな店の佇まいの中、カウンターのちょっと離れた辺りから、「そうですか」としか返しようのないパンチが飛んでくる。するとその逆方向からも、「私も数学苦手です。」と参戦する声が。お店の方が、筆者が大学の建築学科の出身であると話したら、じゃあ理系なんですね、という流れから発された言葉のようだから、どうも嫌いだったり苦手だったりするのは筆者なのかも。数学にはとんだとばっちりだ。僕の事は嫌いでも、数学の事は嫌いにならないでほしいー前田敦子さんの気持ちがなんだか少しわかるような気がしてきた。
数字はつめたい。
それはそうかも知れない。昭和のサラリーマン映画では小林桂樹さんのようないかにも実直な営業マンに、金子信雄さんのようなかなり底意地の悪そうな上司が、「能書きはいいから数字あげろ、数字を!」などと罵声を浴びせるシーンなどは、頻繁に脚本に織り込まれていた記憶がある。
生身の人間にレッテルを貼るときも数字の独壇場だ。身長、年収、出身校の偏差値―宝飾品のカラット数のように、人の価値は容易に数字に置き換えられてしまう。人そのものに番号をふられる事もある。大学の学籍番号や小中の出席番号などはまだしも、マイナンバーのように国家権力に番号を与えられると、そのうち国民か囚人かわからない世の中になるような気もしてくる。「二〇〇一年宇宙の旅」は一九六〇年代の映画だが、そこで監督のキューブリックはコンピューターのハルが自らの意思を以て人間の指示に反する行動をとるという啓示に満ちた物語を展開した。幸いそうした事例は二〇二三年の今も表立っては聞えてこないが、人間があまねくコンピューターの支配下に置かれるディストピアは、SF小説から飛び出しそろそろ現実になろうとしている。
数字は愛らしい。
これはあまり賛同は得られそうにないが、素数を愛する数学マニアは多い。自然数の中で1とその数自身しか約数がないという処に、なんだか物語を感じる。家族のいないさみしがり屋かもしれない。2や3や5など、小さな素数には倍数がかなり多いのはそんな寂しさの裏返しで、外に絆を求めているように見えてしまう。そういえば3の倍数の時だけアホになります、というのがあった。世界のナベアツと名乗る方のユニークなお笑いのネタで、1から順に数をかぞえ、3の倍数になると思い切りのいい変顔をするのだが、かなりナンセンスで楽しい。こんな数字の楽しみ方があったなんて―え、そんなに楽しくない?うーん、渾身の芸も広い共感とはいかないようだ。
そんな数字だが、短歌や俳句に織り込まれることもある。古来、暦の月を表すにも一月を睦月、二月を如月というよう数字でない表現を用いたりしてきたのはなにか数字につめたさ或いは寒々しさといった「異和感」を私たちの父祖が抱いていた証かもしれない。特に俳句のように全体が短い中に数詞が置かれると、その存在感はかなり強い。まるで扱いにくい変わり者のようだ。しかし他の言葉と融和しがたいその性質は、時に得も言われぬ特異な光を放ち、句を大いに輝かせる場合がある。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
あまねく知られた近代俳句の祖の一句だが、初めて眼にした時はどう理解してよいか正直分からなかった。「季語が効いてますね」的なよくある評価を真っ向拒絶しているようにも見えてしまう。句がつくられた当初から現在まで議論百出、賛否が分かれるのもなんだか理解できる。しかし頭を働かせるのをやめて、ただ感覚だけを頼りに何度か読み返すと、数字がどかと中七に、しかも概数で居座った大胆な構成がなんだか愛おしくなってくる。鶏頭の本数のことしか言わないなんて、無邪気すぎるし欲がなさすぎるではないか。もしかしたら作者はきわめて無垢な気持ちになってこの句を発したのではないかーならばと筆者も懸命に普段の有り余る邪念を払って句を見つめなおすと、中七のごつごつとした「異和感」が鶏頭の花弁を角ばらせ、さながらキュービズムの静物画のような美しい景を浮かび上がらせているのが見えてくるではないか。凄い。数詞が主役を担った珍しい一例。
もう一句。
六月の女すわれる荒筵 石田波郷
有体に言えば電流が背中を走ったーこの句を最初眼にしたときの事だ。作句の状況がどうかとか作者がどんな人かとか、そんな予備知識抜きに大いに心を揺さぶられてしまった。
戦後の日本、焼け跡となった町ではこのような景はそんなに特別ではなかった事はその時代に生きていない世代でも推察可能だし、作者の実景の世界としてももちろん感情移入可能なのだが、この句にはあまねく世代に同時代性を感じさせてしまう力がある。少しばかり齢を重ねた人なら、誰でも似たような景が体験として浮かび上がるのではないか。筆者の幼少の頃、父が経営していた工場と家を火事で失い、じっと火をみつめている自分の横で母が泣き崩れた大地は、荒筵はなくともこの句の女のそれにほかならない。ボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」の曲の中で登場させた、転落した女が這うように暮らした路上にも、きっとこんな荒筵のような粗末な何かが敷かれていたに違いない。筆者が学生の頃訪れた北アフリカの街の夕暮の旧市街の、絨毯を売る商店等のならぶ狭い道筋、誰とも合わせぬ遠い眼をした少女が膝をかかえて座っていた路面も、句の中の荒筵の敷かれた大地と変わる処はない。この句は時空を超えて読み手のそれぞれの体験を呼び醒まし、心を揺さぶらずにはおかない。子規の「十四五本」の句では体験できなかった、そんな即効性がある。それを可能ならしめているのは、上五の「六月」だ。風雅に「水無月」ならどうだろう。それも悪くないかもしれない。しかし「六月」の語感の持つつめたさには及ばない。それが「女」を突き放す、ディランが歌詞の中の女を突き放しているように。「七月」はどうか。海水浴の景と思う人もいるかもしれない。「四月」なら。花見を連想させてしまう可能性がある。動きようのない六月―この選択こそが、この数字の持つただならぬ気配が、言い知れぬ凄味を句に付与しているのだ。
あの北アフリカの旧市街の少女はどうなったかーもうすっかり変わってしまったろうが、またあの街を歩きたい。ディランの曲をまた聴こう、きっと曲中の「女」が微笑みかけてくれるに違いないから。
(小滝肇)
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/6674113?categoryIds=3258918
【カタカムナ~ヤタノカカミ】
カタカムナは、今から約13000年前の上古代の日本で高度に発達したといわれます。
言靈・数靈を元にした宇宙物理学のことです。
カタカムナの宇宙観の特徴は、三次元物理世界の背後にあって、この世界を生み出す元になっている「潜象界」(多次元世界)があるという発想です。
カタカムナでは潜象界のことを「カムの世界」、そして三次元物理世界(現象界)のことを「カタの世界」と言い、全ての命や物質は「カムの世界」から生まれて、質的に転換(ナ)した結果、命や物質が存在する「カタの世界」ができていくと示しています。その事を「カタ・カム・ナ」と言います。
この二つの世界は質的転換を伴いながら常に循環しています。
宇宙の創生・発展・消滅を「ヒフミヨイムナヤコト」の数理で現しますが、その始まりは「ヒ」であり、「ヒ」を現すカタカムナの図象文字は、地球暦で見る春分の日の太陽と地球の配置図と同じなのです。
㋪…1次元・ヒモ・根源から出る
㋫…2次元・アマ=Dブレーン(膜)・増える、減るの波動・震える・あらゆる「ま」
膜理論の膜とは 電子の共有結合が織りなす 正負の二重らせん構造と考えることができできるのでしょうか?
小宇宙として大宇宙と相似相を成す人体の膜をDNAと考えると ピッタリくる感じがあります。
宇宙の膜を電子膜と考えると膜に紐がくっついて震えているさまは 膜の電子を取り込んだ元素の分子式(ベンゼン核)を 連想させます。
また宇宙膜はフラワーオブライフだという説もあります。
プラトン立体(正多面体)を2次元で見れば六角形となり、みんなメタトロンキューブ(フルーツオブライフ)に内包されます。
それはさらにフラワーオブライフに内包されるゆえ 宇宙の膜はフラワーオブライフと言うのかもしれません。
㋯…3次元・実態(聖杯・マリア)・ 膜は光で覆われている。
光(八+一+ミ)
八→ 一(ヒモ)→ミ 「カ」という重力が加わると窪み(聖杯・子宮)が生まれる。
㋵…4次元・陽・陽電子・新しいモノ(=エネルギー・時間)窪みに光がどんどん入ると破れ、逆渦が生まれる。
㋑…5次元・陰・電子・伝わるモノ
膜の逆渦の周りに電磁波が生まれ 陰が生じる。
逆回転によるねじれが嵩じると 中心が砕けて 二つの渦が重なり「マ」が生まれる。
マには二つの0点が描かれている。マはエネルギー0:サナギ→クサナギ陰は陽を入れる入れ物。電子は空間を保つために飛び回っている。電子をパチンコ玉の大きさにたとえると 東京ドームの周りを廻っている空間になる。陰=阝(陰と陽が一つになって)今と云う 4と5でヨイ
㋰…6次元・広がり・無・六→逆渦がかみ合わさって空間。カムという語は上下の圧力が強いが重力は存在しない。力は収縮して生まれる。」
㋤…7次元・核・重要なモノ 7はナナと呼ぶ。=++=0点が二つ
㋳…8次元・飽和する(一杯になって溢れる→穴に入る→∞)
㋙…9次元・転がり入る・転がり出る→渦 陰陽が入れ替わる(表裏が逆転)→正八面体
㋣…10次元・統合する=1になるコト マコト
カタカムナは宇宙の創生・発展・消滅を「ヒフミヨイムナヤコト」の数理で表すと記しました。
「ヒフミヨイムナヤコト」はひふみ数⇒123456780(コ=9=0、ト=10=1)
同じくピタゴラスは、自然現象が一定の法則に支配されていること、そして、その法則が数式により表せることに気がつき「万物の根源は、数である」と宣言しています。
またガリレオ・ガリレイは「自然という書物は数字の言葉で書かれている」と述べています。https://www.youtube.com/watch?v=Q3WHKRhx_l0
(フィボナッチ数列)
ピタゴラスやガリレオが宣言するように 宇宙の摂理を数で表すことができるのであれば すべては1から9の数の循環であると言えます。
佐藤 敏夫さんも 「神の数学」という名のサイトで 祝詞「123…天地の数歌」の本体である「ひふみ…九九算表」「宇宙次元原理表」を紹介しています。
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/
「ひふみ…九九算表」
縦:4と5の間を分ける。
横:4と5
縦軸、横軸 各々 対照位置にあるものを足すと すべて9になる。
隣り合った数字が同数の場合、次元がつながるので 外側から斜め「2と2」「7と7」、一つ内側の「6と6」「3と3」を結ぶと「二重の八角形」ができる。
ヤタノカカミはブラックホール。
大きな八角形は八咫鏡の飽和点(ブラックホールへの入り口)となっており、小さい八角形は その「事象の地平面」となって、転がり入った光さえも脱出できないこの世とあの世の境界面となっている。
4・5=陽・陰、3・6=光と闇、2・7=2次元・縦(核)1・8=出ていくモノ・入るモノ 9=球にならないと奥に進めない(次元の壁を越えられない)
グリーンは3・4:潜象世界・ヨミ=根源から転がり出て増える エネルギー・実態・思念=陽
ブルーは5・6:イム→仏(空間の世界)=黄泉平坂(鏡)を超えて陽の陰・映し出された世界・目に見える世界に伝わり、広がり、核となり、飽和し、根源へと転がり入る。
カタカムナとは カタ(形・物質・肉体・入れ物・イザナミ・子宮・陰)とカム(形あるものに入ってくるエネルギーの人がり・時・精子・陽)が統合され(+)ナ(核・命・本質)となり カタもカムもナから出ている。
「ひふみ…九九算表」の八つの鏡面対象=八咫鏡
斜線線を境界にして数字は線対称になる。
「鏡面対象」の鏡2対
「表裏(メビウスの輪)鏡面対象」の鏡が4対
合計「8対の鏡」
が「8までの数字」により、「二重の八角形」の中で渦を巻き 転がり入っていくので「八咫鏡→(八つが飽和して 分れた力が次々と伝わる実態)」と呼ぶ。