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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)、ある救済の風景。…第6番、破滅しなかった英雄。そして双子の交響曲。

2018.07.29 23:19









グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)、ある救済の風景。…第6番、破滅しなかった英雄。そして双子の交響曲。









Gustav Mahler

(1860-1911)









マーラーの交響曲を俯瞰してみていくと、なんとなく、二つで一つ、になっている、そんな気がすることがある。


交響曲第1番(~1994)

交響曲第2番ハ短調(~1994)

交響曲第3番ニ短調(~1996)

交響曲第4番ト長調(~1900)

交響曲第5番嬰ハ短調(~1902)

交響曲第6番イ短調(~1904)

交響曲第7番ホ短調(~1905)

交響曲第8番変ホ長調(1906)

交響曲イ短調《大地の歌》(1908)

交響曲第9番ニ長調(~1909)

交響曲第10番嬰へ長調(1911。未完)


結局のところ、第5番までは、かなりの時間をかけていじり倒しているのだが、それ以降はほぼ2年に一曲の割合で急激に書いていることになる。

マーラーは人気オペラ指揮者だったので、および、作品の規模をもあわせて考えると、極端な早書きである。



それはつまり、第五番において、マーラーの音楽的な思考自体は完成されたということを意味している、のではないか。

書法においては、ほぼ第3番で完成されている。あとは、そのマーラー書法がより精密になっていくだけ、である。


《巨人》と《復活》は明らかに対応しあっている。


双子のような第6番と第7番もそうだ。

第一楽章は同じように行進曲のリズムを刻む。そして、その展開部において、音楽はクライマックスへの上昇線を描くさなかに、いきなり《失心》してしまうのである。


第3番・第4番の巨大なブロックと第5番は、同じように金管のファンファーレから始まる。

《巨人》《復活》は、物語上の発展であって、横の展開といえるが、それ以外は、なにか、同じものの違う側面を描くために、二極必要だった、そんな風に思える。


ところで、交響曲第6番は、何を描いたのか?





Gustav Mahler

Symphony No. 6



1.Allegro energico, ma non troppo. Heftig, aber markig

2.Scherzo. Wuchtig

3.Andante moderato

4.Finale: Allegro moderato – Allegro energico





日本では好んで、副題として《悲劇的》という名称が用いられるこの曲は、それが《悲劇的》であるとするなら、いかなる悲劇を描こうとしたのか?


謎めいているのはその最終楽章、ハンマーの轟音が、《英雄》を破壊するところの、あの楽章である。

この楽章は序奏部を持つ。そしてすべてを開始する序奏部は、明らかに《原光》の結句から来ている。つまりは、あの多義的な《救済》のモティーフが、この楽章を開始するのである。

結局は、このモティーフの旋律的展開のうちに、第一主題が、そして、第二主題、(あるいは第三主題)まで生成されていく。

主題は、あくまでも、展開の果てに出現していくので、実際にはどれが主題なのか、実ははっきりしない。

勇壮な音楽である。


展開部は、かなり唐突な失速からの、序奏部の展開された再現で始まる。ここでもまた、いきなり振り出しに戻すのである。とはいえ、音楽の実態は、暗く、破滅的な匂いを漂わせる。

そして、旋律的展開の果てに、主題の自然な展開としてあのハンマーの打撃を引き出す《破滅の引き金》の主題が鳴り響く。

ハンマーは振り下ろされる。

では、ハンマーは何を破壊したのか?

奇妙なのは、その後、音楽が寧ろ、停滞していたリズムの躍動と生命感を復活させてしまうことである。


ハンマー前と後では、明らかに後のほうが活気に満ちた行進曲が復帰しているのだ。その展開の果てに、牧歌的な、勝利の凱歌らしき歌をさえ響かせ始め、そして、同じ主題からきているのだから当たり前なのだが、いともたやすく、再び《破滅の引き金》の主題が復活する、もう一度ハンマーが振り下ろされる。

今回は、確かに、破滅的な色彩を帯びる。が、展開することなく、ちゃんちゃんちゃんと、唐突に結ばれて、序奏部が再び再現される。

ちゃんとした結末さえつけずに、また振り出しに返すのである。当たり前だが、序奏部は破滅的な気配の中から始まり、やがてすべてを生成していくのだから、ここでも繰り返されるのは同じことだ。


これでは、悲劇の物語の展開どころか、でたらめに同じことの違う側面を何度も繰り返し見せ付けているだけではないか。

突然に覚醒したハンマーが、何かを破壊したのではない。

もとからプログラムの中に内包されていたにすぎないものが、たんに必然として鳴っているだけだ。

音楽はなんども、ハンマーに関係なく同じ音楽を繰り返すのであって、ハンマーの暴力性など、むしろ本質的に無効なのである。

つまり、最終楽章には、ドラマはない。

同じ事が、色彩を変えて、無際限に繰り返されるだけ、なのである。


《悲劇的》というならば、その無際限さ自体を《悲劇的》だと、いわば比喩的に表現したのではないか?


第6番と第7番はその差異性において語られがちなのだが、むしろ、そこには相等性のほうが強い。

第一楽章も第五楽章も基本的には同じモティーフによって構成され、そして、第五楽章末尾でいきなり第一楽章が回帰する第7番と同じく、一見、線的な物語進行を見せるかに見える第6番も、同じように、むしろ一つの不可分な塊としてのドラマを刻んでいるということになる。

生のドラマとしての第6番と、死後の黄泉の世界の体験を思わせる第7番とは、基本的には、同じものの見え方の違いであって、分かちがたく補完しあっているというべきなのではないか?


事情は、第9番と未完の第10番においても言えるかもしれない。

いずれにしても第9番も、線的な物語をは刻まない。それは統一モティーフによっているからである。同じものの、さまざまな実存の差異が、塊りになって表現されているといっていい。

故に、たやすく第三楽章の喧騒は第四楽章の静寂をも共有してしまうのだ。第7番の最終楽章、明るい狂騒のさなかに、どす黒い第一楽章が回帰することが、いともた易かったように。

モティーフを共有しないでもない第10番が最終的にいかなる形になったのか、それは未完である以上、わからない。

ただ、かつてなかった世界が広がっていた予兆は、ある。その最終楽章、終結部の唐突な《救済》においてである。それは、稿を改めなければならない。


そして、より深刻な相等性は、全く似ていないはずの、第八番と《大地の歌》にも、存在する。

なぜなら、この二曲は、同じ歌曲の全くのアレンジに過ぎないからである。

もちろん、それは《リュッケルト歌曲》である。

この二曲と《リュッケルト歌曲》の関係は、《角笛》と《復活》~第四番の関係よりは、《さすらう若者の歌》と第一番、あるいは、もっと直接的に、《魚に説教するパドヴァの聖アントニウス》と《復活》第三楽章の関係に近い。

直接的な編曲、である。

ただ、その編曲規模が極端に違うだけだ、と言ったほうがいい。





《リュッケルトによる歌曲集(Rückert-Lieder, 1901-1902)》

真夜中に

Um Mitternacht



Um Mitternacht

Hab' ich gewacht

Und aufgeblickt zum Himmel;

Kein Stern vom Sterngewimmel

Hat mir gelacht

Um Mitternacht.


真夜中に

私は目覚めた

空を見上げるが

無数の星々は

ただ一つとして私に微笑むわけではない

真夜中に


Um Mitternacht

Hab' ich gedacht

Hinaus in dunkle Schranken.

Es hat kein Lichtgedanken

Mir Trost gebracht

Um Mitternacht.


真夜中に

私は想った

暗い宇宙の終焉を

心はにもかかわらず

晴れるわけでさもなくて

真夜中に


Um Mitternacht

Nahm ich in acht

Die Schläge meines Herzens;

Ein einz'ger Puls des Schmerzes

War angefacht

Um Mitternacht.


真夜中に

私は気づいた

打ちやまない胸の鼓動

苦悩の鼓動に

私は抗いえなかった

真夜中に


Um Mitternacht

Kämpft' ich die Schlacht,

O Menschheit, deiner Leiden;

Nicht konnt' ich sie entscheiden

Mit meiner Macht

Um Mitternacht.


真夜中に

私は戦った。

人間の苦悩と

私の力では

抗しようもないそれと

真夜中に


Um Mitternacht

Hab' ich die Macht

In deine Hand gegeben!

Herr! über Tod und Leben

Du hältst die Wacht

Um Mitternacht!


真夜中に

ぼくは全てを委ねた

あなたの手に!

主よ!生と死の支配者よ

あなたは見ておられたのだった

この真夜中にさえも!


この曲は、直接的に第8番の、第二部序奏部を切り開くことになる。





Mahler

Symphony No. 8 Symphony of a Thousand

Part Two: Final scene from Goethe's "Faust"






ところで、この交響曲は、一般的にもっとも人気のないマーラー交響曲なのだが、私は、たぶん、この曲がこの作曲家の、いわゆる最高傑作なんだろうな、と、ここ十年ばかり想っている。

精度から規模からトータルで考えて、である。


この曲は、二部構成をとる。

第一部《来たれ、創造主なる精霊よ》

第二部《ゲーテの「ファウスト」より》

第二部は一時間近くかかるが、だいたい3つのセクションに分けられる、という。

アダージョ、スケルツォ、フィナーレ、である。

このアダージョ(序奏部)部分を切り開くのが、《真夜中に》のあの音響とモティーフであって、この部分においても、モティーフから引き出された旋律線として、《アダージェット》および第9番《アダージョ》のモティーフが、かなりあからさまにかき鳴らされる。

《アダージェット》は第5番なのでともかく、第9番《アダージョ》はもはや、この曲がむしろ第1番とかそんな初期の交響曲だったかのような奇妙な錯覚にとらわれるほどである。

合唱が入って、アダージョをとりあえずは終結に、そして、次のスケルツォ以降の視座を準備していく。

ここでも主導的なのは、《アダージェット》・《アダージョ》モティーフである。

結局のところ、丸ごと全部、あの音響に支配された音楽なのである。そして、そのモティーフが執拗に、これでもかと言うくらいに展開され、変奏されきっていく過程が、この長い曲の音楽的物語なのである。

これが、マーラーの最高傑作は第8番だという理由なのだが、彼自身の決定的なモティーフを全面展開したものなのだから、最高傑作と呼ばれるべきは、この曲をおいて他ないのである。

実際、もうおなか一杯になるほどに、いじり倒してくれる。この曲の、特に第二部を聴いてから《アダージェット》や第9番《アダージョ》を聴くと、いかにも物足りなくなってくる。


ところで、曲はゲーテの《ファウスト》の末尾に曲をつけたものだが、言うまでもなく、これは《留まれ、お前は美しい!》と言って魂を永遠に悪魔に奪われてしまう男の探求の物語である。

では、そもそもファウストは何にたいして《お前は、まさに美しい!》と最期の肯定を下したのか?

結局は、危険を顧みず土地を切り開き、彼らの生存地を、自らの命を犠牲にしながら切り開いていく泥まみれの人間たちに、である。

しかも、荒れ狂う自然は容赦なく、ときに彼らの命がけの仕事を破壊し、ゼロに戻し、さらには命さえも奪う。が、彼らはそんな事は当然のこととして、土地に向い続ける。

いわば、そのシジフォスの労働に対して、ついにファウストは《美しい、永遠なれ》と、…そしてそれ自体シジフォス神話そのままの不条理な肯定なのだが(笑)、叫ぶのだ。

不条理な肯定というのは、その労働について《留まれ、永遠なれ》と言うことはつまり、永遠に未完成・未救済たれと言っているに等しい。

いずれにしても、メフィストーフェレスはファウストの魂を奪う。

そして、唐突に、神々がファウストを救済してしまうのである。ある意味において、救済されてあること自体を拒否して、そのシジフォス的な永遠をこそ肯定したファウスト自身を、望まれたわけでさえなく勝手に、である。


Chorus mysticus.

神秘の合唱


Alles Vergängliche

Ist nur ein Gleichniß;

Das Unzulängliche

Hier wird’s Ereigniß;

Das Unbeschreibliche

Hier ist es gethan;

Das Ewig-Weibliche

Zieht uns hinan.


一切の移ろいゆくものは

比喩にすぎない

未だ完成されないもの、

今ここに成就する


最初、小学生のとき、新潮文庫版の《ファウスト》を呼んだとき、この結末がさっぱりわからなかった。


実は、今もよくわからない。

むちゃくちゃだ、としか想えない。ゲーテの意図は知らない。が、そんな矛盾に貫かれた不条理劇としか、私には想えない。

もちろん、それはマーラーの第3番以降の世界観に当てはめてしまうと、取り立てて不可解ではなくなる。





Gustav Mahler

Symphony No 8

1. Veni, creator spiritus






声楽つきのソナタ形式だが、ここでも支配するのは《アダージェット》・第9番《アダージョ》の、あのモティーフである。





私はこの世に捨てられて

Ich bin der Welt abhanden gekommen 



Ich bin der Welt abhanden gekommen,

Mit der ich sonst viele Zeit verdorben,

Sie hat so lange von mir nichts vernommen,

Sie mag wohl glauben, ich sei gestorben.


もはやこの世に見捨てられ

夥しい時間はただ濫費された

世間はもはや私を知らず

誰もが死を疑わない。私の死を


Es ist mir auch gar nichts daran gelegen,

Ob sie mich für gestorben hält,

Ich kann auch gar nichts sagen dagegen,

Denn wirklich bin ich gestorben der Welt.


それがなにほどのことなのだろう

私がもはや、この世に見捨てられていることが

いうべき何事さえもなく

確かに、人々にとって、私は死んだ


Ich bin gestorben dem Weltgewimmel,

Und ruh' in einem stillen Gebiet.

Ich leb' allein in mir und meinem Himmel,

In meinem Lieben, in meinem Lied.


世俗の喧騒に対して、私は死んだ

静かな場所に、ただ、憩う

孤独に生きる、私の空に

私の愛に、そして私の歌に


この歌曲は明らかに《アダージェット》、及び第9番《アダージョ》と《大地の歌》を、直接的に切り開いていく。





Gustav Mahler

Das Lied von der Erde



1. Das Trinklied vom Jammer der Erde

2. Der Einsame im Herbst

3. Von der Jugend

4. Von der Schönheit

5. Der Trunkene im Frühling

6. Der Abschied





ところで、《大地の歌》は交響曲なのか?歌曲なのか?


私は交響曲だと想う。なぜなら、《さすらう若者の歌》も、《角笛》も、《リュッケルト歌曲集》も、その後の交響曲の源泉になっている。だが、この《大地の歌》は、それまでの歌曲を拡大および展開するものではあっても、新たなモティーフを生成することはなく、そして、その意図さえ、最初からないからである。

明らかに歌曲集としては企画されていない。


そして、よくよく考えてみると、第6番と第7番に関連性と類似があるように、第8番と《大地の歌》にも関連性は強い。

どちらも極端に《リュッケルト歌曲集》のほぼ翻案に他ならない音響を持ち、いわゆる交響曲的形態にいかなる形でも依存しない。


マーラーの初期のスケッチにおいては、第8番は

第1楽章 讃歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」

第2楽章 スケルツォ

第3楽章 アダージョ・カリタス(愛)

第4楽章 讃歌「エロスの誕生」

もちろん、その最終楽章において大きな変化を遂げてしまったわけだが、いずれにしても第8番が《エロス=生》であるとしたなら、《大地の歌》は、言うまでもなく《タナトス=死》の世界である。

言ってしまえば、丸ごと、第6番と第7番の関係をなぞっているということになる。

つまりは、マーラーは常に両義的な双子の交響曲によって、彼の思考を表現するしかなかった、といえる。


であるならば、交響曲第3番・第4番と対応するべき、第5番は、文字通り、前二曲が描ききれなかった何かを描いていなければならないことになる。

第5番以降は一応、純器楽的な音楽が…かならずしも物語を追うわけではない純粋音楽が鳴らされている、と言うことはよく言われるが、結局は、矛盾である。

第5番は運命動機にはじまる苦悩から歓喜への、第6番においては三つのハンマーが英雄を叩き壊す物語であると言われ、あくまでプログラムを追いかけているのだから。

結局のところ、何らかのプログラムの存在は感じられるが、なんだかよくわからないから純音楽的であるといっているに過ぎない。

初期の第4番までの、共有可能なプログラムは、最早語られない。あくまで《私》の独白であって、《あなた》のそれではないという前提の中で、その彼固有の物語を聞かされているが故の、わかりにくさを生んでいる。

あきらかに、ここにはマーラー自身による他者への断絶がある。断絶の上に、あくまでも物語は構築される。

英雄の死であるとか現世への決別であるとか、一般的な物語に過ぎないながら、である。

確かに彼は死んだかもしれない。が、それは彼であって、あなたではないのだ、と。

そうした個人性を極端に発揮し始めるのが、第5番以降である。もはや、本質的に、音楽は理解できないものになる。





Gustav Mahler

Symphony No.5



1.Traeurmarsch. In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt

2.Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz

3.Scherzo. Kräftig, Nicht zu schnell.

4.Adagietto. Sehr langsam.

5.Rondo-Finale. Allegro-Allegro giocoso. Frisch.





この曲は基本的に統一モティーフによっている。

単純に言えば、第二楽章末尾の救済のファンファーレも第三楽章も《アダージェット》も、基本的には冒頭の運命動機のパロディと思しき、いじけたファンファーレから発生していることになる。

もっとも、私たちはそれが見せかけのものに過ぎないことをすでに知っている。

《アダージェット》は、この交響曲固有のモティーフでもなんでもないのだから、かならずしもこの交響曲の論理進行にもたらされる固有の結果などではない。

つまりは、ここにおいてはいかなる物語進行も存在しないことになる。同じものの、違う形態に過ぎない。故に、それらは一塊になってうごめくだけに他ならない。

私がいま、個人的最も惹かれるのは、マーラーのスケルツォ楽章である。第二楽章や第三楽章におかれるところの、あの、細かな再分化されたモティーフが自在に、かつ、でたらめに展開するところの、あの音楽である。

例えば交響曲第9番や、《復活》のような、一般的にはあからさまに両端楽章に聴取の主軸がおかれ、そして中間楽章にはほとんど注意が払われない曲に関しても、というか、まさにそう言う曲に関して、である。

第9番に関して言えば、もっとも美しいのは第二、三楽章に他ならない。《アダージョ》は、例えば交響曲第8番の第二部に比べれば、結局はその展開が物足りないのだし、第一楽章は全体の序曲に過ぎない。

音の熾烈なドラマがあるのは、むしろ第二、三楽章である。

第5番に関しても、全曲の白眉は第三楽章以外をおいてない。そこに構築されるのは、例えば後の第6番最終楽章のような大袈裟な物語ではなくて、冗談のようにささいな物語なのだが、あまりにも熾烈で強烈な破壊と再生、破綻と構築の音のドラマが、ほぼフレーズ単位で矢継ぎ早に構築される。

その、何ものにも共有不能なドラマの無際限さの美しさは、もはや、何も言わずに聞き取り、見つめ続けるしかない。






2018.07.29

Seno-Le Ma