表紙に「水」を扱った小説特集
こんにちは。
一か月ぶりの通常回でございます。8月に入り、暑さも和らぐことがなく、台風も接近しているという今日この頃ですが、ポラン堂古書店サポーターズのみんなに1ヶ月繋いでいただいた分、気合を入れ直して、といっても引き続きゆるーく参りたいと思います。
8/1が何の日であったかご存知でしょうか。ツイッターさんなどでは──「X」という呼び名になっていってるんですよね、馴染む日はくるのでしょうか──ちらほら見かけた方もいらっしゃるのではと思うのですが、そう、「水」の日です。
平成26年に制定された水循環基本法によって定められたということで、比較的新しい記念日ですね。健全な水の循環の重要性について関心を高めるためと、国が定めた記念日ではあるものの、認知を広める目的で2020年からはポケモンの「シャワーズ」が応援大使に任命され、ネットメディアでも関心を寄せやすい記念日となりました。
タイトルに水……、と癖で思い浮かべそうになりますが、今回は表題にある通り、水のビジュアル面に着目しまして、より涼やかにお送りしたいと思います。
テーマは、表紙に「水」を扱った小説。皆さま、思い浮かびますでしょうか。
深く、面白い3作品を紹介します。お時間がございます方、お付き合いくださいませ。
安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』
いや本屋大賞2位、今更なほど話題作じゃないのさ、と感じられる方も多いのではと思いますが、どうでしょう、皆さん読みましたか。面白くて面白くて驚いた、という熱くまっすぐな感想を持った私です。
安壇美緒さん、実は小説すばる新人賞の受賞作として「小説すばる」に『天龍院亜希子の日記』が掲載されていたときから存じ上げておりました。ポップさへの意識と確かな文章力が心地よく、『ラブカは静かに弓を持つ』がノミネートしたとき、すぐに彼女の文章の印象が思い出されました。
作品は、全日本音楽著作権連盟に勤める主人公・橘が、地下の資料室で上司からミカサ音楽教室に潜入するように命じられるところから始まります。近々ある裁判の証拠を集める為、音楽教室の生徒として2年その教室に通うように、ということでした。
この作品には実際に問題となった、JASRACとヤマハ音楽教室の裁判が背景にあります。音楽教室で行われたレッスンの演奏からも著作権料の徴収を開始する、というJASRAC側の主張に、音楽教室らが反発し、訴訟を起こした出来事はまだ記憶にも新しいことに思えます。
冒頭、上司との会話でその実情のおさらいがされ、いざミカサ音楽教室二子玉川店に潜入となるのですが、……正直、「潜入」や「スパイ」のような言葉に引き出されるようなドキドキする楽しさはこの作品と少し違います。当然頭の中に『ミッション:インポッシブル』のテーマも流れてきません。
橘は幼い頃からチェロを習ってきましたが、ある事件から弾くのをやめています。その出来事に根本的には起因しているのですが、真面目ながらとても陰鬱なものを抱える主人公で、心療内科に通っていて、強い睡眠薬を投薬してもきかない不眠症を患っています。語り口は淡々としていて、仕事も嫌々という感じではないのですが厭世的で、外見は整っていて人当たりも悪くないのですが、人付き合いを諦めていて友達がいないという閉じた青年です。
そんな彼が、「いろんなポップスを弾けるようになりたい」という裏のある要求をもって、チェロの教室に通い始めます。そこで浅葉桜太郎という、海外の音大を卒業した自身より二つ年上の先生に出会うわけですね。明るく鷹揚で、他の生徒からも慕われている、「陰」の橘からすれば完全に「陽」の人なんですが、無理やりムードを作るような強引さもなく、すごく器用に人間関係がこなせる人という感じです。何より、橘にもう一度チェロを真剣にやりたいと思わせる演奏の巧さが浅葉にはあります。
表紙は水底でチェロを弾く主人公ですが、もちろん比喩です。主人公の橘が、浅葉の音楽を讃える場面との意義深い対比があって、すごく良い表紙だと思います。表紙にあるように暗さの中に光は差し、橘の日々は変わり始めます。橘と浅葉のシーン、好きな場面は本当に溢れるほどあるのですが、不眠だった橘が眠る場面(けっこう序盤なんですが)では、既に出会えてよかったなぁと読む私の目に涙が滲んでいました。
ヒューマンドラマではありますが、音楽教室問題を扱う緊張感も緩むことなくずっと続き、終盤の顛末に向け、読む手は止まらなくなります。すごく好きな一冊でした。もっともっと読まれてほしい。
貴志祐介『我々は、みな孤独である』
貴志祐介さん、意外にも、ブログを始めた頃、ポラン堂古書店もオープンしてまだ日が浅い昨年5月のミステリ棚紹介で、『硝子のハンマー』の良さを熱く紹介して以来となります。(あの頃はまだ3作紹介をやっていなかったので紹介もコンパクトでした)
説明するまでもなく有名なミステリ作家のお一人ですが、『我々は、みな孤独である』はどうでしょうか。皆さん、お読みになられましたか。単行本の発刊が2020年、文庫化が去年なんですけども、……これだけの作品が話題になっていないのはどういったことなんだろうと、これが埋もれるって、ミステリ界隈、どれだけ話題に溢れているんだと、思わざるをえません。それほど斬新で、実験的で、新しさを生み出している作品だと思います。
主人公は茶畑徹朗という私立探偵。助手の毬子と二人の事務所で、家賃を限界まで滞納しているという経済状態をなんとかしようとやりくりしています。そんな窮地を救うように現れた依頼者は優良企業を一代で築き上げた社長でしたが、依頼内容は「前世で自分を殺した犯人を捜してほしい」という風変わり極まりないものでした。臆する茶畑ですが、より経済苦境を深刻に捉える毬子に先導されるかたちでこの依頼を受けてしまいます。まぁ、正解がはっきりわかるはずもないので適当に調査して、それらしい人の情報を提供しようというものですが……。
事務所の苦境は、従業員だった男にお金を持ちにされたことでした。さらに同じ男に持ち逃げされたらしい消費者金融が、代わりにお金を返せと迫ってくる始末。しかもそこに幼馴染で暴力団員の丹野という男の脅迫も加わってきます。
物語は最初に予期できたわけもない、物騒な展開となっていきます。探偵茶畑の性質にも目まぐるしく翻弄されます。そんな苦境にも何故か一緒に振り回されてついてきてくれる、助手の毬子が唯一の清涼剤。どこにどう着地するかわからない物語の中、彼女を不幸にすることだけは許さん、というのは読者共通のモチベーションになっていくはずです。
このどこに向かうかずっとわからない作品ですが、斬新で、実験的ながら、むちゃくちゃ綺麗に落とします。タイトルが物語るように「孤独」のテーマがあるのですが、私が知る限り、誰もしたことがない書き方をしています。
そして、表紙の「水」、海辺ですけれど、この表紙は単行本も文庫も変わっていません。本当に、これしかないという表紙なんだと思います。詳しくは言えませんが、どうぞ皆さん、この本を体験してみてほしいです。
柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』
水底、海辺と続きまして、最後の表紙は川です。
柴崎友香さん、大味ではない平易な文章で日常の中に幻想を生み出していく作家さんで、2018年には、後に『ドライブ・マイ・カー』で話題となる濱口竜介監督によって『寝ても覚めても』が映画化されました。幻想的な日常を切り取りながら、男女の幸せとも不幸とも言えない恋愛を描く作家さんでもあると思います。
ですので、この作品の冒頭にはくすりとしたものでした。
「恋愛小説家」、と自分の顔写真の下に肩書きがあるのを見て、今のような小説を書くのはやめよう、と決意したのだった。
作家である主人公は、環境を変えるため「かわうそ堀」に引っ越して、怪談を書くことにします。この主人公が作者本人か、なんて野暮な話をする気はないですが、語られる経歴には相違する点もありますから、あくまでフィクションです。
ことわっておくと、かわうそ堀ですが「かわうそ」は出ません。名前の由来も違うそうです。しかし、主人が住むのは「かわうそ堀二丁目 アーバンハイツかわうそ203号」。頻出する「かわうそ」という言葉がもはや可愛いという、そういうところもこの作品のギミックの一つだと思います。
幽霊は見えないし、そういう類の出来事に遭遇したこともない主人公が怪談を書こうとする、という緩い「怪談」へのアプローチも面白く、ホラージャンルは苦手な私ですが、すいすい気持ちよく読むことができました。二十七章の細かな章分けがされていて、特に、あっこの本合うなと思ったのが四章の「文庫本」です。
古本屋で購入した怪談本を寝る前に読んでいたはずが、起きたら見当たらない。三日探してもない。二週間経って、出かけたついでに、怪談本を買った古本屋さんを覗いてみる。すると同じ棚の同じ場所に、その本がある……というそれだけの話です。
この小さく、あ、と思う感じ、これがこの作品の「怪談」です。きゃーとかひーっとなる感じではない。私がこの本を好きな理由です。
すごく夏に合う一冊だと思いますし、好みに合う方も多いのではと思います。ぜひ手に取ってみていただきたいです。
以上です。
久々の三冊紹介に、最初の『ラブカ』から抑えがきかずどうしたものかと書いていましたが、どうにか平静を保ちつつかたちに致しました。
「水が表紙」、実は深いテーマだと我ながら思っております。物語の舞台が海に近いとか、水中だとかそういったものに限られるのではなく、自ずと、水をモチーフにすること、水を物語の核となる比喩に使用すること、に注目してしまうのです。
この作品にはどうして水がないと駄目なのか、一度純粋に楽しんだ作品でもまた新たな角度で味わうことができました。
傑作ぞろいですので、どうかお時間がございましたら、ぜひ、です。