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平和への誓い

2023.08.06 07:12

Facebook相田 公弘さん投稿記事『広島市 H19年度 平和への誓い』

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私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません。

あの日、街は真っ赤な火の海となり、何もかもが焼かれてなくなりました。

川は死者で埋まり、生き残った人たちは涙も出ないほど、心と体を傷つけられました。

目も鼻も口もわからないほどの大やけど。

手足に突き刺さった無数のガラス。

あの日、ヒロシマは、怒りや悲しみのとても恐ろしい街でした。

これが原子爆弾です。

これが戦争です。

これが本当にあったことなのです。

しかし、原子爆弾によっても失われなかったものがあります。

それは生きる希望です。

祖父母たちは、廃墟の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。

多くの犠牲の上によみがえった広島をもっと輝かせたいという思いで、原子爆弾によって焼け野原になった街をつくり直してきました。

そして、今、広島は、自然も豊かでたくさんの人々が行き交う、笑顔あふれるとても平和な街となりました。

今、テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。

そして、私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体を壊しています

嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。

でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。

同じことがいつまでも続くだけです。

平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。

そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。

途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。

原子爆弾や戦争の恐ろしい事実や悲しい体験を、一人でも多くの人たちに「伝えること」は、私たちの使命です。

私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。

私たちは、ヒロシマを「遠い昔の話」にはしません。

私たちは、「戦争をやめよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。

そして、世界中の人々の心を「平和の灯火」でつなぐことを誓います。

平成19年(2007年)8月6日

こども代表 広島市立五日市観音西小学校6年 森  展哉

  広島市立東浄小学校6年 山崎 菜緒


Facebook相田 公弘さん投稿記事·「ヒロシマを生きて」

  被爆者村上啓子  1945年8月6日(月曜日)

□私は白島国民学校3年生でした。その日、なぜかお寺に行きたくないので「休みたい」と父に申しました。常には厳格な父ですが「じゃあ、お家に居なさい」と、許してくれました。

もし、登校していたら・・・お寺に居た先生も児童たちも全員が亡くなりました。登校途中だった一人のクラスメートは橋の上で被爆しました。彼女は今も生きていますが、左半身は熱傷で首も腕も間接が硬直しています。もう一人生き残ったクラスメートが居るらしいとの噂があるのですが、誰にも消息を伝えてきません。

8時15分が原爆投下された時間です。そのちょっと前、空の彼方から飛行機の音が聞こえました。庭に出て空を仰いだ父が言いました「これは日本の飛行機じゃない。危ないから退避壕に入りなさい」2歳10ヶ月の弟と私は数日前に家の中に出来た退避壕に逃げ込みました。その直後、全身に大きな衝撃を感じました。それが原爆投下の瞬間だったのです。

 父も私たちの方に突進してきました。一瞬で家が崩れたのですが、父の腰に掴まって倒れた柱や壁土や瓦の隙間から這い出しました。

 母の姿がありません。私たちは大きな声で母を呼びました。すると、足下の瓦礫がムクムクと動いて母が現れました。腕に生後57日目の妹を抱いていました。

 母は全身にわたってガラス傷を負っていました。とりわけ、大きなガラス片が両瞼の上、眉の下、右頬に突き刺さっていました。右の目玉が飛び出して胸のあたりまで垂れ下がっていました。父が掌で掬いあげたのですが、どうしようもなく千切って捨てました。

 ガラスを抜くと血が吹き出るからと、左瞼、頬、首周りなど、辺りかまわずに刺さっているガラスは抜かないことにしました。

 父も左半身に大きな傷を負っていましたが、右腕で母を担ぐことにして、妹と弟を私に託しました。

 私たちは、よりによって我が家が爆撃されたと思いましたから、お隣に助けを求めました。お隣も、そのお隣も崩れていました。埃が舞い上がっていたので視界はなく、1軒1軒と順番に訪ね歩いて300mばかり離れた川原に辿り着きました。迅速に行動した私たちは小さな潅木の陰に母を寝かすことが出来ました。ふと気がつくと、私たちの周りには負傷した人が大勢集まっていました。熱傷とか傷ついた兵隊さんが軍刀を振り回して狂ったように「敵」を罵っていました。しかし、次から次へと倒れてしまいました。狭い川原ですから、押し寄せた人々の居場所がなくて、人の上に人が乗りかかったので、たちまちのうちに死者の山が出来ました。

 市の職員だった父は義勇隊事務局長でした。その職務は、緊急の場合に市民を誘導したり救助することでしたから、一刻も早く職務に付きたいと思いました。それにはまず、自分の家族の保護をしておかねばなりません。私が母と弟を見守ることになりました。

 父は、母の返り血を浴びた妹が息絶えたと思ったので、仮に埋葬しておいて、あとで掘り返しに来るつもりでした。穴を掘ったものの、血まみれになったのが哀れと感じたので、川の水でジャブジャブと手荒く洗いました。その時、妹がかすかな泣き声をあげました。

「アッ、生きている。埋めなくてよかった」と、喜んだのも束の間、妹にはお乳が必要でした。母のお乳はショックのあまり一滴も出ません。途方にくれたと同時に、押し寄せてくる負傷者が暴動を起こしてはならないと考えた父は、元気そうな兵隊さんと協力して、「すぐに救援が来るから、落ちついてください」と、触れ歩きました。被災者の中に1人の女性を見つけました。彼女の胸からお乳が滴っていました。「娘にお乳をください」と、お願いしました。「このお乳はたった今死んだ私の赤ちゃんの物です。他人には上げられません」と、断られました。父は、砂地に頭を擦り付けて、何度もお願いしました。すると、周りに居た被災者から「死んだ赤ちゃんは、戻ってこないけれど、生きている赤ちゃんに貴方のお乳を上げて、生き延びさせて上げなさい」と、声が上がったのです。その女性は、やっと、妹にお乳を下さる気持ちになって下さいました。

 私たちは朝から何も食べていませんでした。川原に植えてあったキュウリ、トマト、カボチャ、ナスなどをもぎ取りました。1口食べたとたん、私の家族はすべて吐き出してしまいました。私たちが捨てた物を奪い合って食べた人々がいました。そのことは被爆者の運命を大きく分けました。放射線を浴びた物を食べたり飲んだりした人たちは内臓に放射能を取り込んだのですから、死んだ人もいましたし、生きていても内臓疾患になった人も多く、悲壮な状況に追いやられてしまい、苦しい敗戦後の生活をされました。

父は、私たちを川原に残して置いて職務に付くことを試みましたが、周囲は火の海です。目の前の川を渡って大回りをして市役所に行こうとしたのですが、川の流れがきつく、しかも多くの死骸が流れているし、多くの人が暑さを避けて川に浸かっていましたから、とても泳いで渡ることが出来ませんでした。思い直して、夜通し、兵隊さんたちと協力して暴動にならないように警戒しました。

 夜通し家々が燃えていましたが、明け方になると鎮火しました。被災者も見る見るうちに亡くなってしまいました。私の妹に「お乳を上げなさい」と、女性に声をかけてくださった人たちも、そうでした。

 静かな朝を迎えました。

 父は家の焼け跡に行って、梅とラッキョウの壷を掘り出してきました。川向こうの牛田町の山襞あたりは火災が無かったようなので、その辺りの知人の家に避難することにしました。出発する前に、もう1度、妹はお乳を飲ませてもらいました。梅とラッキョウは、彼女へのお礼として差し上げました。そのことは、私たちの家族にとって最も辛い日々の始まりでした。差し上げた梅とラッキョウは放射線を浴びていたのですから・・・

 敗戦後、落ち着きを取り戻したころになってNHKラジオの「尋ね人の時間」で放送して貰ったり、新聞に掲載して貰って、妹にお乳をいただいた女性を探したのですが、消息が分からないままでした。もし、彼女が梅とラッキョウを食べたのが原因で亡くなられたとしたら、私たち家族はとんでもないことをしてしまったのです。

 数日後、中国山地の山県郡から祖父と叔父が私たちを探しに来てくれました。弟と私は祖父母の家に預けられることになりました。そのとき、初めて焼け野原になった広島市街を見渡しました。見覚えのあるものは何も見当たらず、ガレキだらけになっていました。破裂した水道管に水を求める人たちが群がるように折り重なっていました。叔父が弟を背負って歩きました。弟は「お母ちゃん、お父ちゃん」と、泣き叫びました。時折、疲れた叔父が弟を背から下ろすと、弟は後戻りしようとして走りだします。私は弟を追っかけてなだめましたが、私だって両親と離れてしまうのは心細くて泣き出しそうでした。

 広島の夏は、とても暑いのです。その時は、何もかも無くなったものですから、日陰さえありません。照りつける太陽で熱くなったガレキだらけの道なき道を裸足で歩きました。不用意にもガレキの下にあった死体を踏みました。そのときの感触は今でも鮮やかです。あれ以来、夏になると足の裏が熱くなって、いたたまれない思いをします。

□私の被爆後遺症

弟と私は山県郡に移ったとはいえ、祖父は宮大工でしたから畑を少ししか持っていませんでした。周囲の農家も、それぞれに被災者を受け入れて介抱していましたから、食料を分けて貰える状況ではなかったそうです。

 8月15日敗戦。

 大人は心のより所を失ったようですが、子どもの私は、敵の飛行機が飛んで来なくなったし、退避壕に逃げ込む必要が無くなったので嬉しいと感じました。

 10月になってから、私には高熱がでて、血尿、血便が出るようになりました。田舎の医者には原爆の情報なんか届いていませんでしたから、悪い伝染病だろうと診断されて納屋に隔離されました。弟が「姉ちゃん、姉ちゃん」と、扉を叩いて泣き叫びましたが、何もしてやれませんでした。医薬品も乏しい時代でしたから、寝ているだけでした。約1ヶ月ばかり経ったころ症状は治まったのですが、耳から臭い膿が出るようになりました。咽喉の方から口に溢れるように出てきました。これも治療の方法がなく、ふき取るだけでした。

 11月になってから、広島市の南方・皆実町にあった半倒壊の家を借りることが出来たので、家族は一緒に生活することになりました。私は、日赤病院に通院するようになりましたが、病院では医薬品が充分ではなかったのです。看護婦さんが「ペニシリンがあったらいいのに・・・」と言われたのを父に告げました。その数日後、父は闇市で3個のペニシリンを入手してきました。それのお陰で、快方に向かったのを覚えています。

 私たちが山県郡に去ってから、両親と妹は袋町国民学校に出来た被災者収容所に移りました。母は、医師の手でガラス片を抜き取って貰いましたところ、左の眼球が残っているのが分かりました。幸運にも専門医から手術を受けることが出来て、再び明かりを取り戻しました。でも、多くのガラス傷と内臓機能の疾患で、殆ど寝たきりでしたから、私が家事一切をすることになり、学校へは妹をおんぶして通学しました。

《村上啓子》

牛上市在住。エッセイスト。HIROSHIMA SPEAKS OUT会員。

8歳で被爆。奇跡的に無傷で済んだが、重傷を負った母親、広島市の職員として初の平和宣言の草稿をした父親。語りつくせぬ思いを重ねて行きた体験を軸に、核廃絶を訴え続ける。


Facebook玉井 昭彦さん投稿記事 (天声人語)きょう広島原爆の日

 それは格闘だったという。妻の俊(とし)が人物を描くと、夫の位里(いり)が「リアルすぎる」と上から墨をぶちまける。俊が描き直す。丸木夫妻が「原爆の図」第1部・幽霊を仕上げたのは1950年だった。

「まるで地獄じゃ、ゆうれいの行列じゃ、火の海じゃ。鬼の姿が見えぬから、この世の事とは思うたが」。同じ年にそう書いている。原爆の数日後に夫妻は広島を訪れていた,。

だが展覧会では当初、「誇張だ」「なぜ人物が裸なのか」となじられたそうだ。GHQの報道統制で、人々は何も知らなかった。被爆者が言った。「誇張とはなんだ。わしの娘は魚が焦げたみたいになって死んどった」。真実はもっとひどい、もっと描いてくれ。声に押され、第15部まで続けた。

一連の作品はいまや、被爆の実相をおもう時の原風景のひとつだろう。歳月を経て傷んだ第1部の修復が、今夏終わった。埼玉県の丸木美術館で前に立った。異様な力が迫り、苦しいのに目を離せない。言葉を探す。いや、その前に心に焼き付けろ。絵が命じた。

無言の対話をしつつ、思いは過去と現代を行き来した。こともあろうに、広島の名を冠した文書で、G7の首脳たちは核抑止論を展開した。核兵器のむごさが、本当のところは分からなかったとみえる。

「原爆の図」第3部の前へ行くと、火葬前の遺体の山が描かれていた。折り重なった脚の間から、一つだけの眼(め)がこちらをにらむ。お前たちは、まだ核を捨てられぬのか――。現代を射抜くまなざしだった。

(朝日新聞8月6日)

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S15710215.html


Facebook相田 公弘さん投稿記事

今日は、「広島平和記念日,広島原爆忌」

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。

熱戦と衝撃波によって市街は壊滅し、約14万人の死者を出し、その後、原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上に登ります。

中沢啓治さんが広島での被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」は衝撃的な印象があります。

映画・ドラマ・アニメ・ミュージカル・絵本・講談化もされ、時事通信社の読んでおきたい日本史モノマンガランキングの1位に選ばれ、英語など約20カ国語に訳され、世界で読み継がれています。

また、昭和歌謡史に大きな足跡を残した昭和を代表するスーパースター美空ひばりが、彼女自身が、体験に根ざした反戦歌として、生涯大切にした歌に、「一本の鉛筆」(松山善三作詞・佐藤勝作曲)があります。

この歌は、1974(昭和49)年、第一回広島平和音楽祭にて、歌われました。

原爆の悲惨さと戦争の愚かさを感じさせるとともに、自分にできる戦争を否定するすべを教えてくれています。

彼女自身の好きな曲ベスト10にこの歌を挙げています。

穏やかな一日でありますように!

♪「一本の鉛筆」

http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm

あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい

あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい

■ 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く

一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

2 あなたに 愛をおくりたい あなたに 夢をおくりたい

あなたに 春をおくりたい あなたに 世界をおくりたい

■ 一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く

一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く

一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く

一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く


Facebook福田純子さん投稿記事   ー平和を想うの巻ー

今日は8月の6日広島にとって忘れることの出来ない原爆投下から75年目の朝です!

朝早く起きて原爆の日に想いを馳せ原爆が投下された午前8時15分に心からの追悼と世界平和の祈りをお捧げしました

広島、長崎の大きな惨事を引き金とした終戦の日

昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の玉音放送の御言葉は....

耐えられない程の事をあえて耐える  忍べない程の事をあえて忍ぶのです

からその深き想いに今更ながら学びます!

コロナウィルスを引き金に世界中が大異変の今こそ「2度と戦争はしてはならない」という想いで終戦から立ち上がった日本人の精神を世界に発信する時がきました

耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶこの言葉を改めて噛み締めて.....

「一時代の終幕と始まり」の今を生きて生き抜いていきましょう!


坂村真民bot@shinminbot

少しでも戦争の臭いのするものには抵抗し遠ざけよう。少しでも権威に媚びようとする人とはつながりを断とう。少しでも生きとし生けるものの幸せのためいきてゆこうとする人たちと手を結んでゆこう


Facebook助川 哲也さん投稿記事

7冊の本の表紙を紹介するというムーブメントが、5月の自粛中にありました。数人の方から頼まれたのですが、大学の授業と新聞連載小説の執筆でいそがしく、おことわりしていました。

 しかし、高校時代の恩師からついにバトンが回ってきてしまい、宿題とさせてもらっていたのです。すいぶん時間がたってしまいましたが、今日すべての担当学生の成績を付け終わりましたので、本を紹介します。

 ボクはこれから、自分が大学の授業で使っている本を紹介していきます。

 まずはこの3冊が、明治学院大学国際学科の助川ゼミ(3年生・19名)で学生諸君と読んできた本です。

 ご存知の通り、『きけ わだつみのこえ』は、日中戦争と太平洋戦争で亡くなった戦没学生の手記集です。

『Dear America Letters Home From Vietnam』は、ベトナム戦争に投入された米兵が本国の家族や恋人に宛てた手紙集。

 そして、『星の王子さま』のサン=テグジュペリの『戦時の記録』と『母への手紙』です。

 これら3冊の手記集の抜粋を、90分の授業のなかで一度に読んでいきます。なぜこうしたスタイルの授業をするのか。

 それはボクに、「平和の礎とは、複数の視点を持つことだ」という信念があるからです。

 日本の特攻兵の手紙は悲痛です。もはや敗色濃厚だと、兵士たちはすでにわかっていました。学問半ばにして、人生これからというときに、片道だけの燃料を積んだ戦闘機に乗せられ、突っ込まなければならなかった。

 なぜ? という疑問を誰もが抱えていました。でも、口に出せなかった。だから手記には迷いや絶望がしっかりと残されています。

 この戦没学生たちの手記を読むと、特攻兵の美化などはとんでもなく、懊悩を抱えたまま逝かざるを得なかった若者たちの声がナマのものとしてすぐそばから聞こえてきます。

 しかし、ここに陥りやすい罠があります。日本の特攻兵の犠牲者約4千名、敵艦突入率は10パーセントを切りました。残りの90パーセント以上は艦砲射撃によって撃墜されました。それでも日本の特攻によって亡くなった米兵の犠牲者は倍の8千名を数えます。この8千の失われた命を、ボクたちは考えたことがあるでしょうか。一人一人、すべてに家族があり、愛する人がいました。

 ベトナム戦争に駆り出された米国の若者たちの手紙。なぜ母国を離れて遠い異郷の地で戦わなければいけないのか? それは米兵たちにとって謎であり続けました。しかし、殺さないと殺されてしまう。だから殺しに行くのだと手紙で綴ります。いったいボクたちはこの地獄のような湿地で何をしているのだろうと。

 そしてサン=テグジュペリの手紙。最愛の母への最後の手紙をここで紹介しましょう。

「ぼくの小さなお母さんへ

 お母さん、本当に安心してもらいたいのです。この手紙を届けたいです。ぼくは大丈夫です。万事うまくいっています。でも、こんなにも長いあいだお母さんに会えないことがとてもつらいのです。ぼくはお母さんのことを心配しているのです。年をとった小さなぼくのお母さん。ぼくらのこの時代は、なんて不幸なのでしょう。妹が屋敷を失ったこと(ドイツ軍に破壊された)は、心底ぼくを傷つけました。ああ、お母さん、ぼくが妹の力になれたらなあ。でも、彼女はこれからきっとぼくを強く頼ってくれますよね。いつになったら、愛する人に愛していると言えるときがくるのでしょう。

 お母さん、ぼくがあなたを心から抱きしめるように、お母さんもぼくを抱きしめてください。  アントワーヌ」

 これが撃墜される前の、サン=テグジュペリの最後の手紙です。この手紙が母親のもとに届いたのは、彼が世を去ってからちょうど一年後でした。

 戦争を命じた者たちは戦場にいません。若者たちは「なぜ?」と思いながらも、戦場に向かい、その空気に飲まれ、そしていつのまにか、殺さなければ殺されてしまう、という理由で銃を持つようになります。

 敵味方の兵士の手紙を一度に読む。学生たちにはハードな内容だったようです。ただ、わからない言葉があれば自分たちでどんどん調べていく。扉を立てて、それを自分たちで開けていくという読書法は気に入ってくれたようです。読書が一気に立体的になりました。そして前期が終了し、みんな内容のある長いレポートを書いてくれました。ありがたかったし、頼もしいとも思いました。

 ところで、今この困難な日々に、臨時国会が開催されないことに、ボクはどこか同じ匂いを嗅いでいます。

 いや、本当に、戦争を命じた者たちは戦場にいません。死ぬのは命じられた者たちです。

 命じた者たちは、自分の立場が危うくなりそうになると雲隠れします。



Facebook立岩 司さん投稿記事

おはようございます。今日は人類史上初めて広島市への原子爆弾が投下された日です。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した。

これは人類史上、世界で初めて実戦使用された核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる。

・・・

今も続く、なぜ日本にそして広島市と長崎市に原子爆弾は投下されたのかという疑念。

そしていまだにその疑問に答える人はいない。

・・・

『・・・広島では、原爆投下直前の8月3日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた・・。』

そして終戦・・・(玉音放送)・・・

※再投稿

読書日記 転載  2008/08/08 19:28

『原爆の秘密 国外編』 鬼塚英昭 成甲書房 2008年8月 

<私はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか>

 [序として]

1945年8月6日広島に、その3日後の9日には長崎に、アメリカは原爆を投下した。日本の敗戦はすでにはっきりしていた時期であった。

私はながい間、「どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのであろうか」と考え続けてきた。アメリカ側からの本もたくさん読んできた。日本人が書いた本も同様にたくさん読んできた。

しかし、私には疑問が残った。

 日本は敗戦(「終戦」という言葉になっているが)工作を続けていた。アメリカは、その日本の敗戦工作の詳細を知りつくしていた。広島に原爆を投下する1週間前に、アメリカは原爆投下の最終準備に入った。天候だけが問題であった。それと同時に、アメリカは無条件降伏を日本につきつけていた。日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

※ それだけではない。広島では、原爆投下直前の8月3日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。

しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。

長崎市民も悲劇に放り込まれた。

広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。

 私は、広島と長崎に落とされた原爆について調べているうちに、常識では考えられないような矛盾点を数多く発見した。

そのためにもアメリカ側の資料を読み、原爆とは何か、どうして原爆がつくられるようになったのか、どのような過程でつくられていったのか - を調べていった。

そしてついに、アメリカがどうして原爆を投下したのか、という私の積年の疑問が少しずつ解けていくのが分かった。

 私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。

読者は私の本により、原爆投下は何よりも、国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役であると知ることになる。

 私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。

私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

 この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。

 2008年7月、またあの日を目前にして     鬼塚英昭


Facebook清水 友邦さん投稿記事

1945年(昭和20年)8月6日は広島、8月9日は長崎に原爆が落ちた日です。

広島の原爆ドームと資料館を見学しましたが涙が出て来てしょうがありませんでした。

核兵器を廃絶しようとする人々がいる一方核兵器を欲しがる人がいます。

そして、核兵器が核戦争を抑止していると考える人もいます。

欠陥のあるコンピューターチップが、アメリカの警報システムを誤作動させて「ソ連からミサイルが飛んできた」と警告したことがあり、アメリカ政府はソ連側に報復を行なう検討を進めたことがあります。

ロシアの人工衛星が「雲に反射した太陽光」を、アメリカから飛んできたミサイルと誤認したことがあります。

一発の核ミサイルが発射されただけで、報復システムが作動して瞬時に大量の核ミサイルが発射される可能性があります。

核ミサイルが世界に2万5000発以上ありますが、わずか0.4%の核爆弾が爆発しただけで、1年中日光が遮られる核の冬が訪れます。

環境が安定するまでの数十年間、核の冬が続くのです。

生物の大量死が起こり世界中の農業は壊滅してしまいます。

人間は戦争を繰り返してきました。そして今も世界中の何処かで殺し合いが起きています。

これから、生き延びる為には核をすてるしかありません。

しかし核を捨てることができないでいます。捨てなければ前にすすめません。

不安と恐怖と欲望でそれができないのです。

自分で縛っておいて自分で身動きできなくしています。

頭の中の思考に縛られています。

偽りの自我を自分と思い込み真実を見失っています。

人類は精神的な道から外れて物質的な道を歩み始めてしまいました。

経済を神と仰ぎ、母なる地球に抱かれていることを忘れてしまったのです。

私たちの意識は眠っています。その眠りには3つのモードがあります。

朝起きて目覚めたと思っている眠りと 夜に夢を見ている眠りと 全く記憶がない夢を見ない眠りの3種類の眠りです。

眠りの中で人は罵り、怒り、憎しみ、殺し合いをしています。

眠りの中で人は機械の様に生きています。

戦争を終わらせるには私たちが眠りから目覚めるしかないのです。

広島を訪れた日に原爆の火の中から女神が現れました。

目覚めをもたらすのが智慧の女神ソフィア(Sophia)と智慧を表す女性名詞の般若(プラジュニャー)です。

1945年から1998年まで世界のどの場所でどのくらい核爆発が起きたのか

https://www.youtube.com/watch?v=mhAqVLqoJTA

FacebookKNOB ノブさん投稿記事

平安であった広島 絵はがきの中で描かれた 後に原爆ドームと呼ばれることになる

広島県産業奨励館

1945年8月6日午前8時15分

アメリカ軍が落とした世界最初の核兵器、、、

この一発の原子爆弾により当時の広島市の人口42万人のうち14万もの方々が被爆から2~4ヶ月以内に亡くなられたと言われています。

77年前の今日に実際にあったこと

慎んで 今ある場より

旅立たれた方々、すべてのいのちの鎮魂を魂の平安を祈ります。

一般庶民を巻き込み、巨大な産業、ビジネスとなっている戦争

人と人を争わせ、殺し合いをさせ、そのための武器の生産が、どこかの誰かの豊かさとなるなんて、、、

誤った豊かさが地球の上より 一日も早く消え去りますように

神仏 光、みな共に 愚かな行ないが続くこの今をどうぞ正しき道へとお導きください

合掌 KNOB拝