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新兵器の実験?

2023.08.07 08:41

Facebook深月 ユリアさん投稿記事  2016年8月6日 ·

日本が世界初の原爆実験場になってから、61年です。

原爆を投下したのは日本が降伏しなかったから、と学校で習ってるかもしれませんが、それは間違いです。

当時の日本には戦闘能力はなく、講和条約を結ぶ意向でした。

新兵器の実験をする為、そして軍事力を見せつけて、戦後ソ連に対して優位に立つ為に原爆を落としたのです。

原爆は予告もなく落とされました。

被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行なれました。日本人は人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われ、治療は全く受けませんでした。

そして、米軍が紳士的だった、ってのも真っ赤な嘘!

日本兵士の生首は物として売られ一部の兵士は人体実験にも利用されました。

アメリカ人兵士個人個人が悪人なのではなく、これが戦争です。

もちろん、日本の軍部も多くの残虐行為を行ったけど、だからといってモルモットにされていい訳でない。

同じ罪を犯したのに、勝てば英雄、負ければ奴隷というのが勝者がつくる歴史。

アメリカは戦後、戦勝国として英雄になり、日本は今もモルモットでアメリカの実質的な植民地です。自民党政権はアメリカの言いなり。

そして2011年の福島原発事故、子供たちがモルモットにされてしまいました。

311が人工地震だったか確実な証拠はないけど、魔女ユリアは、書くと長くなるけど、色々な理由から人工地震だと信じてて311の時からずっと人工地震の仕組みについて調べてます。

福島では、高放射能領域で子供が鼻血出したり、耳たぶの皮膚に異常が起きたりしているのに、殆ど報道されない!

そろどころか、多くのメディアでは放射能という言葉自体が放送禁止用語になっている。

そもそも、なぜチェルノみたいに、コンクリート詰めにせず放射能を垂れ流す事にしたのか?

長崎・広島・福島の放射能被爆における人体実験の結果。原爆・原発の恐ろしさ。米軍の大虐殺 - NAVER まとめ


Facebook阿波宇多雄さん投稿記事

8月は、トルーマンの戦争犯罪を裁く時期である。

焼夷弾爆撃で、20万人以上の市民を虐殺し、広島、長崎の原爆攻撃で、原爆の威力を人体実験した非道なトルーマンの戦争犯罪を忘れてはならない。アングロサクソンの根深い差別思想を忘れるな

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鳥居民『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』草思社、2005年。)より要約

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広島・長崎への原爆投下がなぜ行われたかについては、戦後長くにわたって流布されている二つの伝説がある。

  一つは「百万人の米国人兵士の生命を救うためだった」という、ハリー・トルーマン米国大統領の口上である。

 もう一つが「日本がもっと早くポツダム宣言を受諾していれば避けられた、当時の首相・鈴木貫太郎が降伏しなかったことが原爆投下を招いたのだ」というものである。

 しかし、この二つの「伝説」には決定的な誤りがある。ポツダム宣言の内容は、日本が決して受諾できないよう直前に変更されていた。

 戦後、突如登場した「百万人の戦死者」という「創作」と、ポツダム宣言の内容変更には、いずれも二人の人物が密接に絡んでいた。トルーマン大統領と国務長官ハリー・バーンズである。広島・長崎への原爆投下は、この二人による意図的なものであり、そのために「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」という綿密な計画の下、実行されたのである。

 5月8日にドイツが降伏して以降、トルーマンはソ連がいつ対日参戦するかを執拗なまでに知ろうとする。ソ連が参戦すれば日本が降伏し、原爆を投下するチャンスを失ってしまいかねないからだ。

 5月31日と6月1日には原爆開発に関わった科学者を集め、会議を牛耳ったバーンズは、「できるだけ早く日本に対して原爆を使用する」「目標は都市とする」「事前警告をしない」の三項目、いわゆるバーンズ・プランを決定する。  

  7月24日、トルーマンは原爆投下命令の案文を作成、そしていよいよ7月26日に「ポツダム宣言」を発表する。ここには、最初の草案とは大きく異なる点があった。共同署名国からソ連が消されていたこと。そして、第12項目「天皇の地位の保持」が、まるごと削除されていたことである。

 当時、日本は6月22日の天皇の「戦争終結の決意」を受け、降伏の準備を進めていた。7月12日には、東京からモスクワへ「大至急・親展」と電報が打たれたが、その内容は米国陸軍情報部に解読され、日本が、早急な和平を求め、ソ連を仲介役にしようとしているという情報は、トルーマンのもとに届いていた。

 共同署名国からソ連を外すことによって、日本をしてソ連が和平の仲介に立ってくれるものと信じこませた。そして「天皇の地位の保持」を削除して、日本にこの宣言を無視させるように企んだ。さらに巧妙なのは、ポツダム宣言は、それが最後通牒であることを意識させないように、形式も伝達方法も公式の外交文書とは違う「宣伝文書」のような形で発表したのである。

 かくして気息奄々だった日本の降伏は遅れ、原子爆弾は何の警告もなく、8月6日に広島、8月9日に長崎に投下された。ソ連は広島に原爆が投下されるや、日本がただちに降伏することを恐れ、予定を早めて8月9日に満州に侵攻した。

 そして8月10日、日本政府は「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含していないとの了解のもとに」との条件をつけて、米国政府にポツダム宣言の受諾を伝達。米国は天皇の地位の存続を暗黙のうちに承認した「バーンズ回答」を出した。しかし、その内容は実質的には「天皇条項」を復活させただけのものだった。

結局、7月26日のポツダム宣言で「天皇条項」を削り、8月11日に再び「天皇条項」を戻すまでの16日間は、2種類2個の原子爆弾を日本に投下するための期間でしかなかったのである。