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埼玉県 (11/04/23) 蓮田市 (6) 黒浜地域 黒浜 (2)、黒浜西地域 城、南新宿

2023.04.12 06:05

黒浜地域 大字黒浜

中野

御林 (おはやし)、桜ヶ岡


黒浜西地域

城 (じょう)

西城

大字黒浜字城


新宿 (しんしゅく、南新宿)

南新宿

大字黒浜字南新宿



昨日、時間切れで訪問できなかった黒浜内の史跡巡りを再開する。黒浜で残っている地域の中野、御林、桜ヶ岡を巡る。



黒浜地域 黒浜


中野

昨日訪れた黒浜の宿上地区の東が中野と呼ばれる地域になる。今日はここから大字黒浜の史跡巡りに続きを始める。


金の仏堂

県道154号線 (蓮田杉戸線) 沿いの黒浜小学校の西側に于堂が建っている。金の仏堂と呼ばれているのだが、この仏堂の情報は見当たらない。ただ、名前の如く、于堂の中には小さいながらも金色の仏像が安置されていた。


天神 (30番)

金の仏堂の前の広場には1843年 (天保14年) 造立の角柱形の石塔が置かれている。これも黒浜でよく見かける天神を祀る石塔で、正面に菅原道真坐像が浮き彫りされている。


馬頭観音 (4番)

県道154号線に戻り、北東に進み、日野手緑地の手前にあるグラウンドの裏側の雑木林の入口に馬頭観音があった。1838年 (天保9年) に黒浜村三組馬持中により造立された角柱形の馬頭観音で正面には馬頭観世音」の文字が刻まれている。石塔は道しるべを兼ねており、左側面 (中下) に「西方 原市道」、右側面 (右下) には「北方 さって (幸手) 東方 すぎと道」と刻まれている。


黒浜日野手緑地

県道154号線の北、東埼玉病院の間に黒浜日野手緑地がある。この地域はかつては官林山と呼ばれた国有地だった。平成20年に蓮田市がこの土地を国から取得し、翌年の平成21年には緑のトラスト保全第11号地に指定され、特別緑地保全地区となっている。日野手と呼ばれている。日は太陽を、手は方角を意味することから、旧黒浜村の日の昇る場所を意味しているという。緑地内には、ヒノキ、コナラ、アオハダ、ウワミズザクラなどの樹木やヤブミョウガ、シラヤマギク、セントウソウ、ヤブタバコなどの十五種以上の希少植物が生育しており、緑地北側の水路は、黒浜沼の水源のひとつとなっている。


雅楽谷遺跡

日野手緑地の北は黒浜沼に続く入江だった場所になり、雅楽谷 (うたや) と呼ばれている。 大昔に水辺の台地に集落があったとされ、ここから縄文式土器の破片が出土している。ここを黒浜の人々は、昔の人たちが作物の収穫のあとや猟のあと、神々に感謝して宴を開いたところだと伝わっており、いつのころか雅楽谷と呼ばれるようになった。この雅楽谷は黒浜八景の内の五景で雅楽谷の落雁と呼ばれ、奥深い入江に農作業の終えた晩秋のころ雁がむれをなしてやってくるそのなき声や雁のとぶすがた、水辺にいこう水鳥たちのようすが美しかったという。黒浜南小近くの真浄寺の第九世慈雲禅師は学問に勝れ特に唄を詠むことが上手で、江戸でも名のある歌人だった。この黒浜の地の美しさを近江八景になぞらえ、黒浜八景として世に紹介し、それ以来、黒浜は名勝の地として人びとに知られるようになったという。

元荒川から分岐した小さな谷に面した台地の上、現在の東埼玉病院の敷地北側で縄文時代後期・晩期 (約4000~2500年前) と考えられている雅楽谷遺跡が発見されている。1975-76年 (昭和50-51年) に発掘調査では、100mを超える大規模の環状盛土遺構や竪穴住居跡や墓の跡が発掘され、多量の縄文土器、石器、土偶、石棒、耳飾りなどが出土している。



御林 (おはやし)、桜ヶ岡

蓮田市役所がある北側は御林 (おはやし) と呼ばれていた。御林は、あたり一帯が大きな森で 江戸時代の初めには将軍家の御用林で、後には藩の御用林だった。明治時代に入ってからは国有林となり官林山といわれていた。この官林山は、御林、桜ヶ岡、黒浜西中学校、黒浜北小学校付近一帯、黒浜中学校付近、日の出団地、東埼玉病院、黒浜公園、蓮田高等学校付近 (現在の積水化学工業等の工場地域) にまたがる広範な地域だった。 明治時代の地図を見ると、この御林はすっぽりと官林山の中にあり、民家は見られない。官林山は明治時代中頃から民間に払い下げとなり、原市や岩槻の豪商や豪農の手に渡り、少しづつ開発され第二次世界大戦でそのすがたを消してしまった。

官林山地域の中で最後まで開発の手がつかなかった地域が桜ヶ岡で、戦争中には軍用地として買い上げられ、松林は軍用材として伐採され松の木の根も航空機用燃料用の松根油を採るために掘り起こされた。終戦後、開拓団が入植して農耕地化されている。 (戦後の地図にも「開拓地」と記載されている。開拓地の中に道路がつくられ、道路のへりに平和のシンボルとして桜の木を植えたことから桜ケ岡と呼ばれる様になった。

資料では御林の史跡は一つだけ掲載されてていた。桜ヶ岡には史跡は載っていない。両地域とも戦前までは官林山だったので人はほとんど住んでいなかったからだろう。


稲荷大明神 (25番)

蓮田市役所の北、御林地区の南の道路沿いに赤鳥居と祠が置かれている。祠の中には1824年 (文政7年) に造立された切妻唐破風角柱形の石塔があり、稲荷大明神の文字が刻まれている。十五夜と正月に酒、注連縄、餅を供え、幟を立て拝まれている。この史跡が資料では御林にある唯一のもの。



黒浜西地域

黒浜西地域は市域中央部に位置し、主要地方道で沿道サービスゾーンとされる飲食店等が立地しているさいたま栗橋線沿道とその後背地にあたる西側及び南側の住宅系市街地と北東側の昔からの集落地からなる。

この地域では高齢化が進んでおり、市街地の空き家や集落地の遊休農地が課題になっている。この地域の椿山地区、西新宿地区、西城地区は住宅地として開発され、専用住宅地ゾーンは、第1種低層住居専用地域を中心に戸建て低層住宅が立ち並んでいる。集落地ゾーンは昔から農業に従事していた集落の地域になる。


資料に記載されている旧城村、旧南新宿村の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 阿弥陀堂 (西城)、林昌寺 (城)、
  • 神社: 天満社 (西城)、蓮田東照宮 (城)、久伊豆神社 (南新宿)、稲荷神社 (大字黒浜字南新宿)
  • 庚申塔: 6基  馬頭観音: 4基



旧城村、旧南新宿村訪問ログ



城 (じょう)

城と呼ばれる地域は現在の行政区では大字西城、大字城になっており、更に城の一部は大字黒浜内の字城となりの三つの地域になっている。この地は通称三軒家 (さんげんや) と呼ばれていたそうで、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には城村の小字名として丸城向山屋敷、山通り,三道島の地名があるところから、丸城には城があったのではないかといわれている。また、丸城には城観寺という寺院が存在したとも書かれている。 城 (じょう) とは城観寺のことを言ったのかジョウは城ではなく古いことばの開墾とか畑つくりの意味ともされ、本当に城があったのかは定かでは無いそうだ。江戸時代、明治時代前半までは城村で独立した村だったが、1889年 (明治22年) に町村制施行より黒浜村、城村、南新宿村、笹山村、江ヶ崎村が合併し南埼玉郡黒浜村が誕生し、城村は(新)黒浜村の大字城となった。1954年 (昭和29年) に蓮田町に黒浜村、平野が編入され、1972年 (昭和47年) に現在の蓮田市になってからは旧城村は大字西城と大字城となっている。

大字城と大字西城の人口推移は以下の通り。戦前の地図を見ると、現在の城に集落が集中しており、西城は農地で民家は見当たらない。1982年に行政区変更が行われ、大字城は市街化地域の西城と集落地の城に分割されている。1980年代から2000年にかけては一面農地だった西城で住宅地開発が行われ、順調に人口は増加している。2001年、2002年をピークとして人口はその後は横ばい状態が続いている。城は集落ゾーンとされ、西城沼公園など環境保全など、住宅地開発は規制されていることから人口の増加は見られない。


大字黒浜にある史跡も含めて、以下に記載しておく。



西城

城の内、その南西部分が大字西城になる。まずはこの地域から史跡をたどっていく。


天満社 (天満神社)

西城の南、椿山と城が接する所に城村の鎮守の天満社が建っている。元々はこの場所は第六天社があり、天満社は現在地から100mほど北西にあった。天満社は京都の北野天満宮から勧請した神社で1873年 (明治6年) に天満社が村社格になっている。1913年 (大正2年) に当時は無格社であった第六天社へ天満社を合祀している。1946年 (昭和21年) に宗教法人となり、天満神社と改称されている。祭神として、天満社の祭神だった菅原道真公と第六天社の祭神だった西足令、訶志古祀命の三神を祀っているが、天満天神の信仰が定着している。その為、入試祈願の絵馬が数多く掛けられるそうだ。


馬頭観音 (2番)

境内には多くの石塔が移設され祀られている。敷地入り口付近には2基の馬頭観音が置かれている。向かって左側には1864年 (元治元年) 造立の馬頭観音で山角柱型の石柱に「馬頭観世音」との刻まれ、台石には2頭の馬が浮き彫りされている。馬が浮き彫りされているのは珍しい。

境内には伊勢詣りの記念の板碑が三つあった。伊勢詣りが盛んだった頃に伊勢講中により造られたのだろう。

境内の隅に木造の祠が置かれていた。中を覗くと日本人形が二体置かれていた。それ以外に神棚などは無い。何の為のものなのだろうか?人形供養なのだろうか?祠の奥には3基の石塔がある。


庚申塔 (6番、7番)、天神 (11番)

  • 天神 (11番 写真左上) - 向かって左端には1778年 (安永7年) 造立の天神石祠があり、菅原道真坐像が浮き彫りされて祀られている。
  • 庚申塔 (6番) - 真ん中のものは1756年 (宝暦6年) に造立されたもので、笠付角柱の上部に瑞雲を伴う日輪・月輪、その下に邪鬼を踏みつけた青面金剛立像、台座には二鶏三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (7番 写真右上と下三枚) - 向かって右端は1799年 (寛政11年) 造立の笠付角柱型の庚申塔で、邪鬼を踏みつけた青面金剛立像、台石には三猿が浮き彫りされている。道しるべを兼ねて側面に「東 志おんじ道」「西 かうのす道」と刻まれている。


庚申塔 (8番、9番)、斈心

社殿横には三基の石塔が置かれている。

  • 庚申塔 (9番 写真左上) - 向かって右端は1701年 (元禄14年) 造立の駒角柱型庚申塔で、正面上部にの瑞雲を伴う日輪・月輪、その下に邪鬼を踏む山王権現立像、台座には二鶏三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (8番 写真下右2枚) - 真ん中のものは1831年 (天保2年) 造立の駒角柱型庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字が刻まれ、台座には三猿が浮き彫りされている。道しるべを兼ねており、側面に「右 よしみ こうのす道」、「志おんじ道」と刻まれている。村の分かれ道に置かれていたのだろう。
  • 斈心 (がくしん) - 左端には1839年 (天保10年) に造られた山角柱が置かれている。学業成就祈願をしたもので学ぶ心を表す「斈心 」と刻まれている。


力石

境内には奉納された力石が3個残っていた。入口付近の木の根元に二個あり、それぞれには四十二〆目 (約157kg)、三十〆目 (約112kg) と刻まれている。庚申塔 (8番、9番) の後ろにももう一つ力石があるのだが半分は欠損されて「奉納力」と刻まれた部分のみ残っている。


阿弥陀堂

天満社のすぐ北側に阿弥陀堂がある。この仏堂の情報は見つからず。隣は墓地になっておりその入り口に古く造られた仏像がある。

  • 六地蔵 (4番 写真右下) - 1766年 (明和3年) に子どもの供養のため建立したと伝わり、6体が並ぶ形式の六地蔵で、左から合掌する宝性地蔵、天蓋を持つ陀羅尼地蔵、幡を持つ法印地蔵、柄香炉を持つ法性地蔵、数珠を持つ地持地蔵 (2体) が置かれている。
  • 地蔵菩薩 (3番 写真右上) - 江戸時代 1730年 (享保15年) 造立の地蔵菩薩で、手を欠損しているが右手に錫杖、左手に宝珠を持つ立像が置かれている。
  • 地蔵菩薩/百ヶ所巡礼塔 (5番 写真左下) - 1771年 (明和8年) に秩父西国坂東供養の為、右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩立像が置かれいる。


大字西城の東側が大字城になる。阿弥陀堂野前の道路を東に渡り、西城沼公園から見ていく。


西城沼公園

城沼は黒浜台地が侵食されて出来た谷で奥東京湾の海退のとき取り残された海跡湖になる。城沼は東の谷の東沼と西の谷の西沼と二つる。西沼は古くには護岸のされていない自然沼の状態だったが、1992年 (平成4年) に西城沼公園の一部の親水公園として整備され、かつては南北に長い沼だった西沼を南北方向にトックリ型の沼となっている。公園は広く、綺麗に整備されていた。ここで今日の弁当で昼食を取る。


稲荷神社 (10番)

昼食後暫く休憩して、公園内を走り北に抜ける。更に道を西城の北まで進むと道端に稲荷神社がある。小さな祠の中に稲荷神社と書かれた石柱があるだけなので、稲荷神社とは少し大袈裟な印象を持った。この稲荷神社は比較的新しく1949年 (昭和24年) に建てられている。その造立経緯が資料に掲載されていた。当時、行者に「かつて、この辺りに稲荷様があったのに忘れられている」といわれ、捜してみたが、見つからず、新しくこの石塔を造り祠に納めたそうだ。それで稲荷神社と呼んでいる。


蓮田東照宮

稲荷神社 (10番) のすぐ側に大きな鳥居があり参道が奥に伸びている。鳥居には蓮田東照宮の扁額が掲げられている。ここは日光東照宮の分宮で、祭主による徳川家康への長年の想いが実を結び、2018年(平成29年)12月に建立されたもの。


馬頭観音 (1番 蓮田市城483) (未訪問)

城に中で見落とした史跡が二つあった。馬頭観音があった事を沖縄に帰ってから気づいた。次回に訪問しようと思っているが、その時までに忘れないようにこの馬頭観音の詳細と資料にあった写真を載せて置く。1816年 (文化13年) 造立の駒角柱で馬口印を結ぶ馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされている。


齋藤家の長屋門 (未訪問)

もう一つ見落としていた史跡がある。城沼公園の西側道路を渡り、城自治会館の左の坂道を登っていくと旧家齋藤家で、蓮田市でも数少ない長屋門が残っている。この長屋門は柱が礎石の上に残っている造りで小壁が低く全体としても軒の低い造りで「室町づくり」と言われるもの。江戸時代元禄頃、1688年に建てられ、幕末、更に昭和48年に修理が行われている。伝承では齋藤家は戦国期に生家の滅亡により修験者となり各地を遍歴の後、この地に居を構え、この地の開発にあたり村の子弟に学問や剣術を教えたという。代々名主として村の世話をし、明治にはいると戸長役場を務めていたそうだ。




大字黒浜字城

次に大字城の東に位置する大字黒浜に含まれている字城の史跡を巡る。(西城沼公園を抜けて北に向かう前に訪問)


馬頭観音 (黒浜3番)

西城沼公園のすぐ東側の大字黒浜の城地区に石塔が三つ並んで置かれている、向かって右端に1821年 (文政4年) に城村講中により造立された山角柱形の馬頭観音で正面には馬頭観音菩薩坐像が浮き彫りされている。資料ではこの馬頭観音のみ情報が載っていたが、残りの二つは情報がなかった。真ん中の石塔も馬頭観音の様なものが浮き彫りされているので、これも馬頭観音と思う。左の石塔は上部が欠損しており、何なのかは不明。


子育て地蔵尊/経典読誦塔 (黒浜14番)

馬頭観音 (黒浜3番) の道を西に少し進むと祠があった。祠の中には江戸時代の1752年 (宝暦2年) 造立の右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像が置かれている。台石正面に光明真言曼荼羅が刻まれている。資料によれば、元々は光明真言読誦成就の記念塔だったのだが、地元では子育て地蔵と呼ばれ、安産や子育ての願を掛けの子育て祈願塔へに変わっている。祠の側には説明板があった。上の資料説明とは微妙に異なっている。それは約270年前に、子供等に病がはやりそれを鎮めるためにお地蔵様を建てた。この場所は、江戸時代火災で焼失し廃寺、旗本米津氏の菩提城観寺 (尼寺) の入り口だった。「子育て地蔵」と言われ、子供が健やかに育つようにとお参りする人が多い。毎年、8月24日ごろの地蔵盆の日に城全体のお祭りが行われており、この地蔵には城第三自治会の有志の人たちが順番で茶菓の接待の奉仕をしている。むかしは、盆踊りをし灯籠や店が立ち近くの村々からも大勢の人々がお参りに来て賑やかだったそうだ。


馬頭観音 (黒浜9番)

子育て地蔵尊の道路の向こうに馬頭観音がある。1914年 (大正3年) に青森産「日之出」号8歳の馬の供養のために建てられ、山角柱形の石塔に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。



新宿 (しんしゅく、南新宿)

城の史跡見学を終えて城の北にある新宿に移る。新宿は現在の行政区では大字西新宿と大字南新宿に分かれ、南新宿の一部は大字黒浜になっている。大字南新宿が大字西新宿の北にあり、新宿とか北新宿がないので怪訝に思っていたのだが、次の様に南新宿の歴史を見て納得。

江戸時代には新宿村と呼んでいたが、鴻巣にも新宿村があった為、1879年 (明治12年) に蓮田の新宿村は南新宿村、鴻巣の新宿村は北新宿村と改称した。明治時代前半までは南新宿村は独立した村だったが、1889年 (明治22年) に町村制施行より黒浜村、城村、南新宿村、笹山村、江ヶ崎村が合併し南埼玉郡黒浜村が誕生し、南新宿村は(新)黒浜村の大字城となった。1954年 (昭和29年) に蓮田町に黒浜村、平野が編入され、1972年 (昭和47年) に現在の蓮田市になってからは旧南新宿村は大字西新宿と大字南新宿となっている。

大字南新宿と西新宿の人口推移は以下の通り。戦前の地図を見ると、現在の南新宿に集落が集中しており、西新宿は農地で民家は見当たらない。大字城と同じく、1982年に行政区変更が行われ、大字南新宿は市街化地域の西新宿と集落地の南新宿に分割されている。1980年代から1990年代にかけては住宅地として開発された大字西新宿で人口は増加し,2001年、2002年をピークとして人口はその後、減少に転じ、近年も横ばい状態となっている。南新宿は集落ゾーンとされ、大字城の集落ゾーンの延長としてその北側に位置している。この地域では住宅地開発は規制されていることから人口の増加は見られない。

資料では史跡は載っていない大字椿山の人口のデータも下に載せておく。大字椿山は戦前は全地域が農地で集落は存在していなかった。この地域は戦後、住宅地として開発され、現在ではほぼ全域が専用住宅ゾーンとなっている。黒浜西地域内では人口も西新宿に次いで多い地域になっている。


西新宿には史跡の情報が無かったので、南新宿に移動する。


南新宿


南新宿久伊豆神社

城の稲荷神社/東照宮から北に上島公園を抜け、南新宿に入った所に大己貴命を祭神とする南新宿久伊豆神社がある。新宿村の鎮守だったが、何時の頃からか南新宿一村の鎮守となっている。創建年代は不明だが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されているのでその頃には既に存在していた。この地域は岩槻藩の領地で、岩槻の鎮守だった久伊豆神社から分霊を勧請したという。明治の神仏分離令で廃寺になった城観寺が別当寺だった。1873年 (明治6年) に、村社格となっている。現在の社殿は、1906年 (明治39年) に建てられ、1955年 (昭和30年) に改修工事が施されている。

参道の脇には1851年 (嘉永4年) に奉納された社寺型の手水鉢が置かれている。その後ろに塀に囲まれ樹齢200年の高さ30m杉の大木があったのだが、1979年 (昭和54年) に落雷によって枯れてしまい翌年に伐採されてしまった。その替わりの新しい杉の木が植えられ現在ではかなり高く成長している。

境内には末社の稲荷明神が祠の中に祀られている。五穀豊穣、一家繁栄を願って1754年 (宝暦4年) に造立され、笠付角柱に「稲荷大明神」と刻まれている。


庚申塔 (5番)

久伊豆神社の北には1770年 (明和7年) 造立の山形角柱の庚申塔がある。通常文字型のものは「庚申塔」と刻まれているのだが、この庚申塔には「青面金剛」と刻まれている。塔の上部には瑞雲を伴う日輪月輪、台座には三猿が浮き彫りされている。


雷竜宮 (10番)

久伊豆神社の前の道の東には雷電宮と刻まれた笠付角柱形の石塔が祠に納められて祀られている。この辺りの農家が雷除け、氷風除け、豊作を祈願して1753年 (宝暦3年) に建てられたもので、現在でも正月にお札や注連飾りなどを供え拝んでいる。


馬頭観音 (2番)

久伊豆神社の前の道を東に進むと、民家がある地域に入る。この辺りは比較的広い敷地の家が多く、どの家でも庭を色とりどりのツツジウを植え、綺麗に手入れがされている。その内の一軒の前庭の中に馬頭観音が建てられている。これは1892年 (明治25年) に飼っていた馬の供養のため、自然石の石材に「馬頭観世音」の文字が刻んだものになる。正月には注連飾りを供え拝んでいるそうだ。


林昌寺

馬頭観音 (2番) の北側には禅宗曹洞派白岡町白岡興善寺末の林昌寺がある。建立する年代は定かではないがは1695年 (元禄8年) に開山は興善寺七世家山解伝大和尚と記されている。

境内と墓地には古く造られた仏像が幾つかある。

  • 地蔵菩薩 (3番 写真左上と左中) - 寺への入口には1749年 (寛延2年) に二世安楽祈願で造立された地蔵菩薩像で右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
  • 地蔵菩薩 (4番 写真右下) - 墓地入口には1797年 (寛政9年) に老人と子どもの供養の為に造られた地蔵菩薩像
  • 六道能化地蔵願菩薩 (写真右上と右中) - 墓地入り口には六地蔵尊が置かれている。


庚申塔 (6番)、馬頭観音 (1番)

馬頭観音 (1番) - 1740年 (元文5年) 造立の馬頭観音で、隅丸角柱状の石塔に馬口印を結ぶ馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされている。

庚申塔 (6番) - 1699 年 (元禄12年) に造立され、駒角柱の正面には邪鬼を踏みつけた青面金剛立像、その下には三猿が半彫りされている。正月に拝まれているそうだ。



大字黒浜字南新宿

庚申塔 (6番) と馬頭観音 (1番) のすぐ南は南新宿なのだが、現在の行政区では大字黒浜の中にある字南新宿になる。



稲荷神社

大字黒浜に中、大字南新宿との境界付近に宇迦之御魂神を祀る稲荷神社が置かれている。この神社に関しての情報は殆ど見つからず。境内には南新宿自治会館 (写真右下) が置かれている。


白楽天 (黒浜34番)、道標 (黒浜38番)

稲荷神社の道を少し南に進むと道沿いに2基石塔が建っている。1770年 (明和7年) に新宿村講中により造られた駒角柱形の石塔で、正面には今では摩耗して読めないのだが、「白楽天王」の文字が刻まれていたそうだ。その隣にも石柱が置かれている。これは道しるべで1822年 (文政5年) に造立され、駒角柱形の石柱に「右 せうぶ (菖蒲)  さつて (幸手)  左 いわつき (岩槻)」、「ぜうみち (城道)」と刻まれている。



旧城村と南新宿村の訪問を終え、次は旧江ヶ崎村の史跡巡りに移る。訪問記は別途



参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)