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#YusukeKusuyama 1975 X #楠山祐輔 ➣ #INTERNATIONAL

#吉田秀彦 #YAWARA - #忍耐 #礼儀 #作法

2023.08.08 08:31

「ホームメイト柔道チャンネル」様より

シェア、掲載。


ありがとうございます。

感謝です。


「吉田秀彦」

著名な柔道家インタビュー - 柔道チャンネル


1992年のバルセロナ五輪(柔道)において、見事金メダルを獲得し、2011年4月に実業団の監督として柔道界に復帰した吉田秀彦さん。 そんな吉田さんに柔道との出会いや五輪でのエピソード、これからの活動などを中心にお話を伺いました。


プロフィール


■生年月日:1969年9月3日

■出身地:愛知県大府市

■身長:180cm


柔道との出会い


柔道に出会ったのは、小学校4年生。地元、愛知県大府市にある大石道場の勧誘チラシを見た親父にやれと言われて始めたのがきっかけでした。


柔道の印象は、暑苦しくて臭かったことと、なんでこいつらこんなに強いんだろうってことを覚えています。


ケンカは負けたことが無かったので自信があったんですが、柔道は別物でしたね。


大きいからとか力が強いから勝つわけではないことに気付かされて、奥が深いなと感じました。


道場に通い始めて最初に習ったのは受身でしたね。しかし、小学生の頃は休み時間などに友達に教えてもらって前回り受身を遊びでやっていたものですから、道場でやらされたときには受身は完璧でしたよ。


そこから1ヵ月くらい受身をやらされたあとに、ようやく教えてもらったのが大外刈でしたね。


内股は、テレビでやっている柔道番組を見て、見様見真似で始めたのがきっかけだったんですけど、最初は頭から突っ込んで反則負けとか、巴投かけたら上に乗っかられてそのまま押さえ込まれて負けたりとか色んなことを試していましたよ。


講道学舎での思い出


講道学舎は、中学3年生の頃、大石道場の石田先輩(現・大成高校柔道部監督)が先に入っていたため、同級生である神谷(現・大成中学校柔道部監督)と一緒に受けに行ったんです。


神谷は非常に強かったのですが、僕は実績が無かったから、オマケのような形で付いて行ったのに、神谷は入部せず知らないうちに僕だけが入ったんですよ。


講道学舎へ来た当時は、65kg級だったので、ヒョロッとしてたし、先輩たちに投げやすいと言われていました。なので、受身は10段でしたよ(笑)。


講道学舎は、全国から強い選手達が集まってきてたので、その中でも僕は下の下だったし、実績も無く入部したのですごくしんどかったですね。


東京への憧れと親父と離れられるからいいかなと思って、転校を決断したんですが、楽しみで行ったはずが現実はそう甘く無かったですね。


毎日、朝から練習漬けで自分の時間っていうのは一切無かったからですね。タイガーマスクで言うと、「虎の穴」のような場所でした。


当時、講道学舎でコーチをされていた吉村和郎先生(現、全日本柔道連盟強化委員長)は非常に怖かったですよ。タイガーマスクで言うと、吉村先生が冷酷かつ残忍な「ミスターX」で、僕は過酷なトレーニングに耐える「伊達直人」でしたよ(笑)。


練習のときの吉村先生の顔は、今のような穏やかな顔じゃなかったからですね。本当に鬼みたいな顔してましたよ。当時、警視庁に勤めておられ、「これで警察官かよ!」って思いましたが、よく稽古をつけてくれましたし、色々なことを教えてもらいましたよ。


途中でやめたいと思ったこともあったんですが、地元の石田先輩が活躍していたし、東京から「逃げて帰って来た」と思われるのも嫌でしたので、なんとしても早く講道学舎を卒業しようとそればかり考えていました。


学生時代に印象に残った大会


世田谷高校時代に高校団体3冠を2年連続でやったことですかね。そのとき、チームメイトには体のデカいやつがいなかったから、決して個々の力は強く無かったけど、団体においては結束力で勝ちましたね。


伝統的に負けちゃいけないというのを植え付けられてたから、それぞれが与えられた仕事をこなす(勝つ)ことを心がけてやってました。


僕は、体が小さかった分、勝つ気持ちだけは相手に負けたくなかった。やはり柔道は気持ちで負けたら終わりなので。


やっぱり吉村和郎先生(現、全日本柔道連盟強化委員長)からも、攻めて負けることはしょうがないけど、守りに入って負けたときはすごい怒られていました。なので負けるのが嫌というよりも、試合が終わって吉村先生とかに怒られる方が嫌で、みんな必死にやっていたところもありますね(笑)。


ヒーローだった古賀(稔彦)先輩


古賀稔彦先輩は色んな意味で良いお手本でした。僕の中での古賀先輩はヒーローだったので、いつかこうなりたいと思って勉強させてもらいました。


バルセロナ五輪(柔道)のときは、事故とは言え怪我をさせてしまい非常に落ち込みました。初日の練習中での事故だったから試合まで10日間くらいあったからね、少しは良くなってくれないかなと気持ちの部分で参っていましたよ。


靭帯を怪我すると本当に動けないから、とても柔道をできるような状態じゃなかったですよ。でも、古賀先輩が逆に「頑張れよ」って言ってくれたときは、すごく嬉しくて気持ちが楽になった。


僕が金メダルを獲ったときは、次の日に古賀先輩の試合が控えていたので、正直、全然喜べませんでしたよ。


でも、古賀先輩とは選手村で同じ部屋だったので、部屋に戻ると先輩は明日の試合に向けて早く寝ていたんですが、ムクッと起き上がって「おめでとう」と言ってもらえたときは非常に嬉しかったですね。


そして、次の日に先輩が金メダルを獲ったときは、ホッとしたのと同時に、心の底から嬉しさが込み上げてきました。


バルセロナは、なんだかんだ言って、古賀先輩がいいところを持っていった大会でしたね。僕は、引き立て役だったのかなと思いますよ。


金メダルの印象は、現地では「ホッとした」の安堵感だけだったんで実感は全然沸かなかったんですけど、成田空港に着いたときのみんなの歓声や報道陣を見て、「金メダルってすげーな」って思いましたよ。


悲願の世界柔道選手権優勝


柔道をやっていて世界柔道選手権は一度は獲りたいタイトルでしたね。


それまでは2位や3位とあと一歩だったんですが、ようやく四度目の正直である1999年バーミンガム大会で優勝できたことは非常に嬉しかったです。


当時は、みんな20代で引退する人が多くて、僕は30歳という年でしたので、周りからはあまり期待されていなかった中での優勝でしたけどね。


そして翌年、2000年シドニー五輪(柔道)だったんですが、試合中に右肘関節を脱臼してしまい、さすがに現役生活も限界だなと思ったよ。


現在の「世界柔道選手権」や「柔道グランドスラム」は、僕らの頃と違って毎年開催されているし、ルールだけ見れば日本人に有利になってきていると思います。しっかり練習すれば、日本人の世界チャンピオンが何人出てもおかしくない大会になってきてますね。今の日本人選手は、自分の技を持っている選手が少なく感じる。


僕は、全日本柔道連盟の人間じゃないから大きなことは言えないけど、ロンドン五輪(柔道)に向けて、マスコミなどへ取り上げられるようなヒーローを育てる必要があるのではと思うよ。


選手も注目されれば、練習も頑張れると思うし、必死こいてみんなに頑張って欲しい。世界チャンピオンになれば、自信が持てるし、何より今後の柔道人生も大きく変わってくるから、選手たちは注目されるように頑張らなきゃね。


監督としての抱負


この度、4月より実業団の監督として、柔道界に復帰することとなりました。


実業団でやるからには、会社の名前を上げていかないといけないし、結果で恩返しをしていきたいと思います。そのためには、選手達をある程度、管理してやりたいと考えています。


まずは、選手達の意識改革からやっていきたいですね。学生時代は、「やらされてる」っていう意識があるけど、いつかは「やらなきゃ」って、そう思うような選手を育てていかないといけない。


もちろん実業団である以上は、会社への貢献は柔道で勝つこと(結果)だという気持ちを選手達に植え付けていきたいですね。


監督というのは、カッコイイ名前だけど、実際にやるのは選手達だからね。選手達に良いアドバイスや良い環境作りをしてあげられるような監督でありたいと思います。


目標としては、実業団でトップになることですかね。まずは、三部から二部、そして一部へと一歩づつ上を目指すと最低3年は掛かるため、僕としての目標は最短5年でなんとか結果を出していきたいと考えています。


しかし、社会人で強くなる選手ってなかなかいないんですよね。要は大学で活躍しているやつが、社会人でも活躍してるケースが多いから、選手達の育成については今後の課題でもあります。


子供達の育成について


僕が「吉田柔道」を始めた目的は、強くなるか、ならないかは別として、柔道を通して人間形成をしっかり培ってもらい、社会に出たときにキッチリとした人間になって欲しいという気持ちからですね。


自分は柔道しかやって来なかったので、柔道の中でそういうものを見つけられるものだと思うから。毎年開催しているスポーツイベントの「VIVA JUDO!」を始めたのも同じきっかけですね。


「VIVA JUDO!」では、無料柔道教室などを通じて柔道をやったこと無い子供達に身近に感じてもらい、一緒に柔道ができる仲間と出会い、大人になっても仲間同士のキズナがずっと続くからね。


柔道だけではないが、礼儀作法とか仲間を大事にするなどスポーツを通して人間形成を培って欲しいと思います。


今後、日本柔道に期待すること


柔道はアマチュアスポーツですけど、柔道自体を夢のあるスポーツにしたいですね。


柔道やってたらこうなるんだとか子供たちに夢のあるところを見せないと柔道人口が増えないと思うし、今後は夢の持てる柔道にしていきたいですね。


柔道を始めるきっかけはやっぱり町道場だから、どんどん町道場をみんなでやってもらいたいですね。そういう体制を全日本柔道連盟やスポンサーをされている東建コーポレーションさんなどもそうですけど、皆の協力が必要じゃないかなと思いますよ。


そうすると、どんどん少なくなってきている柔道人口も、自然と発展していくのではないかと思います。その辺りをこれからどのように変えていくかが課題ですよね。


元首相の小泉さんの言葉を借りて使うなら「柔道界をぶっ壊す」ような感じですよね。いろんな革命をやっていかないといけないんですよ。柔道人気が少しでも出るようにしないと選手達は強くならない。


また、2012年4月から中学校にて「武道必修化」になって、柔道と触れ合う子供達が増えることや、今までと環境が変わることは良いことだと思いますよね。


しかし、必修になっても現状では町道場などの環境が少ないから、なんとか全柔連で環境作りなどのバックアップ体制を整えていって欲しいところですね。


若い世代へのメッセージ


今の若い世代の人達には、自分が一生懸命やれるものを見つけて欲しい。それは親の助言であったり、自分の好きなことだったり、何でも良いので。


ただ、飽きたからやめるとかじゃなくて、なんだかんだ長く続けていけるものを自分で見つけて欲しいと思います。


そのなかでいい仲間と出会えたら最高じゃないですか。それが、僕はたまたま柔道であっただけで、柔道じゃなくてもそういうものを作ってもらいたい。


努力をしても返ってこないと思う子供がいるかもしれないけど、努力はした分だけ自分に返ってくるものなので、努力を惜しまないでやっていってもらいたいですね。


また、僕の座右の銘は「忍耐」です。吉村和郎先生(現、全日本柔道連盟強化委員長)の叱咤激励の言葉攻めにも必死に耐えてきましたよ。


でも、結果が出る、出ないにしろ、ひとつのことをずっと続けていくのって難しいんで、そこを頑張って歯を食い縛ってやると「道」って拓けてくると思うんですよね。


たまたま、僕は社会人まで柔道をやって来れたんですが、僕の仲間は他の世界で活躍しているやつも多いんですね。


やっぱひとつのことをやり通したやつは、社会に出てもうまくコミュニケーションが取れるし、仕事もしっかりできると思いますよ。


もう少し子供たちに歯を食い縛って頑張ってもらい、日本人の心を忘れずにやって欲しいですね。


※2011年3月現在


続いて「YOUTUBE」です


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著名な柔道家インタビュー吉田秀彦 - 柔道チャンネル