8月8日(火)23時17分
履歴書を完成させようとしている。人生をそこに畳み込んでいる。
特段隠している話でもないし会った人には機会があれば話している程度のことなのだけど、今職に就いていない。
とはいえ、何もしていないというわけではなく、職業訓練校に通っている。
公的扶助を受けつつ就業訓練に明け暮れる、言うほど明け暮れているか?と思いつつも、そういう日々を過ごしている。
個人的には、現場にフィードバックされることを鑑みたらもう少しばかりでいいからスパルタンな雰囲気あった方が後々いいのでは、と思うシーンが多々ある。それくらいには緩い。
学ぶことが本質の施設ではなく、あくまで就職を目標とした施設であるので、行き先が決まったらいつでも辞めて良い。事実、入校式の当日に「就職が決まったのでやめます」と言って一切来なかった同期生がいた、らしい。当然入校式より前には通っていないし、さすがに入校試験に来ていた顔を全員覚えているわけもない。ので一体どういう誰さんが来なかったのか、何も知らない。ただあれには誰もが面食らっていたので、さすがにイレギュラーなのだろう。
これは加減がなさすぎる例だとしても、おおむね仕事があるならそれでよい、という風潮だ。
とはいえ、やはりそこには「できることならいいところに」という修飾がなされている。年がら年中多種多様な企業を相手にしてきている人の言葉は時に辛辣で、やたら金銭的な条件だけは良いけれどどうにも怪しげな求人を出しているところにに対して「あそこはまぁやめといた方がいいよ」といった、なかなか痛烈なことも言っている。こちらが志望しているところに対しても「そこもいいけれどこちらもかなりいいよ」と、より上位の会社を推してくる。それが仕事だから、と言えばそれまでだが、そこには訓練生がより良い道を進められるよう助力しようとする真摯な姿勢がある。
それゆえなのか、世話焼き、もしくはお節介な人が多い。癖がある人も多いけれど、そのおおよその人間性は善的なもので、訊けば大概のことは答えてくれるし、求めれば大抵のことを助けてくれる。みんないい人だ。
そんなぬるま湯な環境も9月で終わる。それまでには就職を決めていることが望ましいとされている。
今のところは、何かしらで一本立ちしてそれで生計を立てる、という方向に自分の人生を傾ける気はない。ネガな理由としては「それで食っていける気がしない」であるし、ポジな理由としては「いろいろ面白そうな仕事をやってみたい」である。とりわけ後者に対して前向きであることが何よりの救いであり、それ以上にそれに適う能力を備えている自負があることに対して、無量の感謝を捧げるべきであると思う。
誰に捧げるんだろう。親?先人?神?それとも傲慢に自分自身?どれもしっくりとは来ない。