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黄金の60年代…その2

2018.08.01 12:22

黄金の60年代…その2

'61(昭和36年)

 アメリカのTVドラマが大流行し、国産レーサーの海外での活躍に胸が高鳴った!'61年に成るとTVが一般家庭にも普及し始めた。TV受像機の保有台数が1千万台を超え、逆にそれまでの主役のラジオは1千万台を割った。TVとラジオの立場が逆転したのが'61年だった。

 '60年に放映された「ララミー牧場」「サンセット77」「ライフルマン」。'61年の「パパ大好き」「アンタッチャブル」「ちびっ子ギャング」「サーフサイド6」と言った名作が人々をブラウン管に釘付けにした。そうしたTV映画は、'62年の「ルート66」「ベン・ケーシー」「コンバット」などを含め、今日も再放送されることが多い。ともあれ、TVがパワーを発揮し始めた時代であった。

 一方、ジョージ・チャキリス、ナタリー・ウッド、リタ・モレノ等がスクリーン狭し…と踊り、歌いまくったのも'61年だった。ミュージカル映画不朽の名作「ウエストサイドストーリー」が上映されている。

 洋楽界では、デル・シャノンの哀愁をおびたメロディー「悲しき街角」がヒットし、「電話でキッス」でポール・アンカが一躍スターダムにのし上がった。また、ブラザース・フォーに代表されるフォーク・バンドも台頭してきたのが、この頃である。

 何となく…世の中がウキウキとしていた。アメリカでは、若き英雄J.F.ケネディーが大統領に就任。何かが期待できる…そんな予感の出来る年だった。その通り、'61年は高度成長期元年と言える年と成った。

 オートバイを取り巻くシーンもまたバラ色だった。'59年に世界に向けて挑戦を開始したホンダ・チームがマン島TTレースにおいて、125/250cc両クラスで1位から5位までを独占。ホンダ完全優勝のニュースに、俄にナショナリストが急増した。ちょうど、オリンピックで日の丸が掲揚された時のような、妙に誇らし気な気分を人々は同時に味わっていた。

 国内では、今日のTZのルーツとも言えるロードレーサー、ヤマハのTD1(250cc)がデビュー。この年の全日本選手権に圧勝している。4ストロークのホンダに対して、2ストロークのヤマハ…と言うレースシーンでの両雄の対決は、この年から本格化したのだ。

 2サイクルのヤマハは、市販車でも2ストローク・エンジンの技術革新に積極的に取り組み、世界に先駆けてロータリーディスクバルブをプロダクションモデルに採用した。ビジネスバイクであったためか、今日でも…それほど話題に上ることも無いが、YA-5(125cc)は画期的な市販車であった。

 '61年、人類初の有人人工衛星で宇宙を飛んだソ連(現在のロシア)のガガーリン少佐は、「地球は青かった!」と報告した。人々の夢は宇宙にまで広がろうとしていたのだ。


ホンダ CR110 カブレーシング

(リード)

あの有名な“TTレース出場宣言”を受けて、ホンダ・ワークスチームが海外遠征を開始したのは、1959年のことだった。以来、翌年からは、RCの名を冠したホンダの工場レーサーが、世界各地で開催されるGPレース転戦することになった。そして1961年、それまでヨーロッパ選手権として行われてきた50átクラスのレースが世界選手権(GP)に昇格することが決定されると、ホンダはいち早く同クラスへの参加を表明した。

(本文)

 そして、同年秋に開催されたモーターショーには、はやくもRC110 と命名された50átのGPレーサーが展示されて、マニアの視線を釘付けにした。真っ赤なロングタンクを纏った50átクラスの小さなGPレーサー、RC110 は見紛うことなくホンダ・ワークスの末娘であった。

 年が明けると、RC110 はGPレース出場のために、勇躍と海外へと旅立っていった。そして、その戦績が届く頃になると、巷にはモーターショーに展示された小さなGPレーサーが市販されるらしい、という噂が、実しやかに流れ始めた。

こうした噂が現実となったのは、1962年 5月のことだった。ところが、実際に発売されたものは、GPレーサーとは似てもにつかないスタイルの50átストリートスクランブラーであった。しかし、このCR110 と名付けられたモデルは、よくよく観ると、先のモーターショーに展示されたGPレーサーに保安部品を付けただけ、といった成り立ちだったのである。CR110 の市販は、衝撃的なニュースであった。 門外不出のGPレーサーが、その掟を破ったのだから無理もない。さらに、何台かのCR110 がレーサー仕様に改造されて、九州の雁ノ巣を皮切りに、各地のレースに姿を現したときのショックは、筆舌に尽くし難いものがあった。

 結局、このストリート仕様のCR110 は、49台がマニアの手に渡ることになった。当時の価格は17万円と、一般的な50átクラスの3倍はしたが、CR110 を購入できたマニアは幸運だったといえるだろう。後に初期型と呼ばれたこのモデルは、5速ミッションが特徴で、最高出力は7.5 馬力と発表されていた。また、当時のホンダの例にもれず、CR110にも、多くのレース用Y部品が用意されていた。多くのマニアは、保安部品を取り外し、6リットルのロングタンクとバックスキンの美しいシングルシート、そしてバックステップを取り付けた。さらに、エンジン・パーツを組み込めば、CR110 はトップクラスの50átロードレーサーに変身した。いや、多くのマニアは、この姿こそCR110 に相応しいと考えていたのである。

 その後、CR110 は、8速ミッションが搭載されて、中期型に発展した。この中期型では、はじめからY部品を組み込んだようなロードレーシング仕様が登場した。初期型の多くが、やはりY部品を組み込んでいたことを考えると、レーサー仕様の発売は、当然の成り行きともいえた。しかし、中期型ではまだスクランブラー仕様も何台か用意され、マニアはどちらの仕様も選択できた、といわれている。実際、レーサー仕様のCR110 にも、クランクケースには、街乗り用のステップを取り付けるためのスタッドボルトが残されていた。この中期型CR110 は、メーカーの資料によると、両仕様合わせて83台が生産されたといわれている。ともあれ、8速ミッションによって、狭いパワーバンドが有効に使えるようになって、CR110 の競争力には、いっそう磨きがかかることになった。国内のレースでは、トーハツのランペットをはじめとする2サイクル・レーサーとのバトルが、さらに激しさを増していくことになったのである。また、この8速仕様は国内ばかりではなく、海外のマニアにも供給され、ホンダゆかりのマン島TTレースをはじめ、各国のレースでも華々しい活躍をしたことでも知られている。

 CR110 は市販レーサーだった。それゆえに、限られた生産期間中にも、たゆまない進歩の跡が見て取れた。後期型と呼ばれる仕様では、エンジン本体にも改良が及ぶことになったのである。レーサー仕様として116 台が生産されたこの最終仕様は、換言すれば、それまでの仕様の弱点に対処した、CR110 の完成モデルということができる。

 まず目につくクランクケース上部の膨らみは、中期型までみられたシフトタッチの不確実さに対処して、改良したミッション構造をクリアするためにできた形状で、この改良はRC系GPレーサーからのフィードバックだった。また、シリンダーも別物となり、ボア・ストロークは、40×39áoから40.4×39áoに変更され、排気量は48.984átから49.068578átへとリミットぎりぎりまで拡大された。このような仕様の変更によって、CR110 のDOHC単気筒エンジンは、初期型5速仕様の7.5  /12,000rpmから8.5  /13,000 rpm へとパワーアップされていた。わずか40φほどの燃焼室いっぱいに配置された4つのバルブは、ギア・トレーンによって10,000回転を優に超えても正確に作動して、CR110 は異次元の4サイクル・サウンズを撒き散らした。また、加わる応力に合わせて微妙にパイプ径が異なるダイヤモンド・フレームは、極限まで贅肉を削ぎ落されて、繊細な美術品にも譬えられた。

 まさにCR110 は、栄光のRC系GPレーサーの血統を色濃く受け継いだ、異色の市販レーサーであった。今日、多くのCR110 が現存し、貴重なコレクターズ・アイケムとなって行った。CR110 は、時代を超越して輝きを放つ、小さな宝石なのである。

 

ホンダCR110 中期型レーシング仕様

ストリートバージョンの初期型とは異なり、クランクケース、R サイドカバー、シリンダー(7枚フィン) 、クランク、ミッション等に互換性はなく、パワーユニットに関してはシリンダーヘッドのみが使用可能となっている。5 速→8 速と明らかにサーキットユースに限定した仕様ながら、一部に8 速のストリートバージョンの製作もあったと聞く。メインフレームそのものは共通。但し、30mm程拡大されたクランクケース幅に対処する為の対策部品もあったとされることで、その事実の裏付けもされよう。更に、この8 速のユニットには、ニュートラルの接点とステーターの取り付けが可能なもの、又そうでないものもある。ノーマルパーツには、実際にライトケースにニュートラルライトの取り付かないものもある。実際にはメーカー発表のなかった8 速のストリートバージョンだが、製作は可能と言うことになる。ロードレースのみならず、スクランブラーとしても活躍したCR110 の姿も自ずと推測できる。又、CR110には、ボア・ストロークの異なるワークスモデルRC110 の存在も気になるところだ。CRの40.4mm×39mmに対し、42.5mm×35mmとより高回転型を目指している。RC110 は、その後RC111 に発展。RC110 の8,500rpmを更に上回る9,500rpmを越える高回転を可能としていた。が、2 サイクル勢に対抗する為、更なる高回転域を目指し2 気筒化へと改良が図られている。RC112(1962y)から始まる50ccの2 気筒GPレーサーは、RC115(1964y)/RC116(1965y) で最終型となるが、実に17,500rpm を越え(RC116では21,500rpm)、超高回転域の出力特性を得ている。CR110 も又、マン島TTレースや世界中のレースに参戦。プライベーターながらホンダワークスRCに続く活躍も見せている。複雑な成り立ちを持つモデルではある。が、それだけにホンダワークスの血を最も濃くして引き継いでいると言えるモデルでもある。

ホンダCR110 後期型(X3/1962y)

CR110 の最終モデル。ロードレースを専用の場とした機能優先の改良が図られている。フレームやスイングアーム、フロントフォーク等、オプションで用意されていたY 部品を使用。中期型にあった欠点を補っている。これは、シフトドラムの不作動、ミッションのタッチの印象を改める為のもので、シフトギア、スピンドルの爪を2 個→4 個に変更。パーツの形状もやや大型化して耐久度の向上も図っている。これにより、クランクケースの張り出しも大きくなり、クラッチハウジング上部の迫り出しの形状から、通称「せむし」と呼ばれる特徴を持っている。パワーユニットに関する改良も行われていて、最も完成度の高いCR110 とも言える。シリンダーをこれまでのボア・ストローク(40mm ×39mm)から改め、40.4mm×39mmとして、排気量を48.984cc →49.068578cc と限りなく50ccに近いフルサイズにボア・アップ。ピストンのオイルリングも、オイルホールのない抵抗の少ないものに変えている。出力的には、ノーマル5 速の7.5hp/12,000rpm →8.5hp/13,500rpmへと数値を高めている。ワークスレーサーRC112/RC113 のパーツさえもボルトオンできる仕様は、やはり並のモデルではない。特に、この後期型とも呼ばれているモデルには、時としてマグネシウム製のR 側ヘッドカバーが与えられていたり、クランクやカムにもCRパーツとは明らかに異なるワークス向けのパーツが納まっていたりする。ユーザーにあっては興味津々といったところであろう。しかし、ここまでサーキットユースに限定した仕様を与えていながら、尚もストリートバージョンへの拘りも捨てきれなかった節が、後期型にも残されている。キックも取り付けの可能なものとそうでないもの。クランクケース下のメインスタンド取り付け用のスタッドボルト付きもあれば、又そうでないものもある。メインフレームには、ショートタンク用のフィッティングボルト取り付け穴や、更に、初期型にあったリアフェンダー取り付け用の穴の存在するフレームも発見できる。中期型生産台数83台。後期型では116 台がデーターとして残されている。