恵比須様と鯒
山陰地方の夏の魚とえば、スズキ、トビウオ、イサキと数え上げたらキリがないですが、鯒(コチ)も外せない魚の一つです。鯒は一年を通して美味しい魚として知られていますが、夏は特に重宝されます。
そのグロテスクな見た目とは裏腹に、別名「テッサナミ」と呼ばれるほど、フグ刺のように上品な味わいの薄造りや天ぷらが人気です。
漁獲量が少なく、水揚げされても料理屋へ直行することが多く、店頭に並ぶ機会は少ない貴重な魚です。
或る夏の日、恵比寿様が今宵に催される宴の為に、美しく美味しい鯛を用意しようと、海に魚釣りに来られていました。いつもは魚籠が魚で溢れるほど魚釣りが上手な恵比寿様ですが、その日はどうも調子が悪いようで、一匹も釣れません。
あきらめて帰り支度をしようとした時、釣竿が強く引き込まれました。ヨシッと竿を合わせ、魚を釣り上げようとしましたが、かなりの大物が掛かった様で、なかなか釣り上げられません。悪戦苦闘の末、ようやく釣り上げた魚は、鯛とは似ても似つかぬ丸々とした土色の魚でした。
苦労して釣り上げた魚でしたが、なんともみすぼらしい姿をして,美味しくはなさそうなので、恵比寿様は、腹を立てて魚を掴むと近くの岩に叩きつけました。
コチッと音がしたかと思うと、魚は頭が拉げて平たくなってしまいました。恵比須様は、魚を叩き付けてしまったものの、手ぶらでは帰りにくいので、拉げたその魚を家に持って帰ることにしました。
家に帰り、宴が始まるとその魚の料理が振る舞われました。恵比寿様は、調理する前のみすぼらしい姿を知っていた為、どうせ美味しくないのであろうと箸を付けませんでした。
そうとは知らず宴に来た客人達が料理を食べ始めたところ、口々に美味しい美味しいと騒ぎ始めました。その様子を見て、恵比寿様はそんな筈は無いと思いながらも、あまりにも皆が騒ぐので、一口箸をつけてみました。
すると、なんと、煮る・焼く・汁・刺身等に調理されたその魚の料理は、どれもたいへん美味しく、鯛にも勝る味でした。
恵比寿様は、姿形で味わう事もなく判断し、腹を立てたことを詫び、二度とその様な事をしないと誓うとともに、その事を忘れないよう、懐にしまってある笏*(コツ)になぞらえ、その魚に「コチ」と名付けたそうです。
*笏(こつ)は貴族の正装である衣冠束帯を身に着ける時に右手に持つ細長い木の板。字音が骨に通じると忌らわれ、現在では「しゃく」と読ませるようになっています。