偉人『於大の方』
日本の歴史にはまっている生徒さんが毎週のように徳川家康の話をしてくる。子供なりに不思議に思っていることがたくさんあるようで、特に徳川家康が幼少期の頃に今川と織田の人質になったことがどうしても理解できないようだ。それもそのはず幼児期は誰とでも仲良くしなさいと教えを受ける子どもにとって戦国の世を想像できないのも無理もない。いくら戦国の世は大名たちが約束を果たす保証として近親者を相手に渡したり、相手から捕らえたりし同盟を結ぶために人質を利用したと説明してもピンとこないのであろう。今週はそんな会話の中からヒントを得た偉人の母に焦点を当ててみた。それが家康の母『於大の方』である。幼少期の家康の人質生活を支えた母於大の方とはどのような人物であったのであろうか。
於大の方は1528年8月28日現在の愛知県知多郡北部の尾張国緒川城主水野忠政の娘として生を受けた。当時東では駿河の今川が権勢を誇り、北では尾張の斯波と織田が勢力を伸ばした。そこで於大の方の父水野忠政は今川方の松平と手を結びたいと考え於大の方を輿入れさせたのである。
於大の方は政略結婚のために14歳で松平広忠に嫁ぎ、16歳で家康を産んだということである。しかし父水野忠政が亡くなり於大の方の兄が家督を相続すると織田に寝返ったのである。そこで松平家は君主今川に顔が立たないため於大の方を水野家に返すこととした。いわゆる離縁である。
17歳の若き母は数え3歳実質は1歳8ヶ月の家康を松平に残しよちよち歩きの可愛い盛りの息子と離れることとなったのである。戦国時代の17歳は現代人とは比べ物にならないぐらいの精神年齢の高さがあったと思うのであるが、取分け於大の方は聡明で利発な人物であったようだ。それを表すエピソードが残されている。於大の方が離縁され水野領土へ送り届ける際、松平家の家臣とこんなやりとりがあったという。兄の治める刈谷城に護送される際松平の家臣の前に水野の兵が姿を現したがそこは城までには距離のある地点。松平の家臣が「お方様を刈谷の城までお送り致すが我らの使命」というと於大の方は「ここからは水野の土地、万が一にも其方らに害が及べば両家に遺恨が残ろう。我が身はあれなる兄の使いの者に任せて皆とくと立ち去りなされ」と一足即発の場を収めたという。実は於大の方の実の姉も同様に離縁されたが水野の手勢により相手の兵は斬り殺されたという。このエピソードからしても思慮深い女性であったと言えるだろう。
しかし彼女の思慮深さはそれだけではない。やがて今川の人質になった我が子家康のことを常に気にかけ、まつだ
松平は織田に攻め入られ安祥城や岡崎城が落城し、幼い家康は織田の人質となり尾張に連行されたと耳にした於大の方は大層心配し、松平の家臣を通して常に我が子の安否を確認していたようである。敵対している家同士の争いの中でも人質になっている我が子へ菓子や着物などを我が子に送り届けていたという。そしてその松平の家臣二人がその仲介役になっていたというのであるから於大の方への信頼がなければ成立しない話である。
しかし織田での人質生活が織田信宏との人質交換で家康は物々交換でもされるように駿府に戻され再び今川の人質となったのである。我が子の身を案じる母にとっては生きた心地がしなかったであろう。しかしその今川には於大の方の実母である源応尼お富が今川の庇護を受けて駿府に住んでいたことである。於大の方は実母に助けを求めた。家康の祖母応尼には今川義元に願い出て於大の方に代わり孫家康の養育をしたのである。ここからは実際に家康に会えずとも於大の方は手紙や着物、菓子などを送り慰め励ましたという。しかし元服した家康は叔父である水野信元と戦うこととなり於大の方は16年に渡る不安な日々が送ったのである。
当時の戦国の世は血で血を流す時代。親子兄弟が争い女性は家を守るための道具のようなもので子を思う母であってものどうすることもできない時代である。しかし於大の方は諦めることなく遠く離れている子供を思い続け愛情を示し続けることができたのはなぜなのか。それは彼女の生い立ちに関係している。
先に女性が戦乱の時代の道具になったという話を記したが、実は於大の方の母源応お富も子供を成した後戦国の世の犠牲になったのである。於大の方の父水野忠政の元に松平清康より「お富を我が妻にしたい」と言われ水野は妻を差し出してしまったのである。於大の方はこのような事情で母と幼くして生き別れとなったのである。母と生き別れるという経験がどんなにか寂しく心細いかを身を持ってけ経験しているだけあって家康の心情が痛いほど読み取れていたと容易に推測できる。時代の翻弄された祖母・母・孫の3世代なのである。私も母であるからこの歴史を知れば知るほど胸に刺さるものが大きい。コロナ禍に於いて無事であれと毎日毎晩床に着く瞬間にどんなに疲れていても祈りを欠かさないが、それ以上に於大の方は不安な年月を重ねていたであろう。しかし母の愛は強いものでそのお思いを知っている於大の方の夫久松俊勝が城内に敵の家康を招き入れて面会をさせたのである。また今川義元が戦死したとすぐに家康に知らせ、織田が攻めてくる前に城を出て逃げよとも文を出し家康は難を逃れた。
母の於大の方はただただ遠く離れた息子家康の安否を気に掛け、腹違いの弟たちと一戦交えることになってもどうか皆無事で家くれと願い続ける姿が記録として残されている。家康の活躍は歴史の通りであるが後に母を向かい入れたばかりではなく、腹違いの3人の弟に松平姓を名乗らせ家臣にした。やっと母於大の方が安心できたのである。
しかしそこにはまだエピソードがあり、織田亡き後豊臣秀吉との一線を交えた後、秀吉に勝利しながらも秀吉の巧みな戦略交渉で敗北し家康は秀吉に腹違いの弟定勝を養子にくれと要求されたのである。実質的な人質である。それを聞いた於大の方は烈火の如く怒り、手が付けられないほどの猛反対で家康は母の怒り心頭に震え上がったという。結局のところ家康は自分の子供を秀吉に差し出すことになったのである。於大の方の人質なんぞまっぴらごめんだ。金輪際人質の話はするでないという声が聞こえてきそうである。
時代の翻弄されながらもひたすら子供の安否をひたすら祈る母の姿は、どのような時代であっても何も変わることがない本物の真実なのだろうと再確認させてくれる人物であった。母が受けた幼少期の困難や生い立ちもやがては子供の人生に活かすことができるとするならば無駄ではなく、むしろ糧となるのであろう。人は困難に立ち向かうと強くなるというが正に運命を切り開くのも己であり、境遇を作るのも己自身なのだと言われているような気がする。時代に流されるも良い流され方をし、時代に流されて翻弄されるのであれば自分自身の信じることを信じるように凛として実行すべきなのであろうことを教えられたようである。
母の愛は強しそして母の愛は深し。