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火と水と虹

2023.08.10 12:07

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【自己実現の旅】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7106722?categoryIds=2099745&fbclid=IwAR2N7umhN_xK98cxUE2wxxCbfjzWCptUY-U8V4MTRlLEUebJjQ9maLjzy0A  【蓬莱(火)・弁財天を祀る方丈(水)はセット(死と再生はセット・同空間)】


https://yaoyoro.net/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%82%B8.html 【ミシャグジの解説】より

諏訪に根付く謎の神、ミシャグジ神。縄文からの信仰が色濃く残ると言われるミシャグジ神。古事記や日本書紀にも出てくる天孫降臨のもう一つのお話とは・・・!

ミシャグジ神は謎の神ではない。

ミシャグジ神というと謎の神というイメージが強いが、実は全く謎の神というわけではない。なぜかというと、ミシャグジ神(本来ならば『ミシャグチ』であるが信仰の伝播により名前が変遷してゆき、『ミシャグジ』の方が正式名称として通用しているという逆転の現象が起きている)を古代から祀ってきた一族の末裔がミシャグジ神はどのような神かということを、「神長官守矢史料館のしおり/平成三年発行」(以降は『しおり』と略す)の中で語っているのである。

この『しおり』の第一部、「守矢神長家のお話し」の中で守矢神長官家(詳しい説明は次の章に譲る)七十八代目、守矢早苗氏が語るところによれば、

「諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり)に降りてくる精霊を中心に営まれます」

とあることから、ミシャグジ神は「樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり・説明は次の章に譲る)に降りてくる精霊」であることが分かる。(この『しおり』において守矢早苗氏は一貫して『ミシャグチ神』と語っていることから本来は『ミシャグチ』の音であったことが伺える)

また、ミシャグジ神が蛇体の姿で表現されることが多いことから、同じ諏訪の蛇神であるといわれる白蛇ソソウ神との混交も指摘される。しかし、日本の蛇信仰について興味深い考察をしている吉野裕子氏はミシャグチを「御赤口」と解し、御は尊称であり、本体は「赤口」であることから「ミシャグチ」は本来赤蛇であるが、尊く、また恐るべき存在の名をそのまま「赤口」と記してしまうことを避けて「ミシャグチ」という音だけが残ったがゆえに、様々な表記の揺れあるのだと推測している。

白蛇か赤蛇か、実はそのこと自体に深い意味はない。古い文献を紐解いても常陸国風土記のヌカヒメ伝承や大物主が蛇神であるという伝承から古代日本では蛇に対する信仰が深かった。諏訪地方もまた、蛇を頭にのせた女性土偶などが発掘されており、蛇信仰が濃厚だった。

実際、諏訪大社前宮境内にある「御室社」の前には、「現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇型の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって冬ごもりをした遺跡地である」という説明看板が出されており、諏訪大社上社で正月に行われる「御頭御占神事」は、土室の中のミシャグジ神の神体といわれる巨大な藁蛇の前で行われる。また、諏訪大社宝物館に展示されている「諏訪大明神御神画像」には大祝の絵姿とおぼしき、衣冠の姿絵、鎌、蛇体らしきものが描かれている。これらから、ミシャグジ神が蛇神として古代から信仰されていたことはほぼ間違いないといっていいだろう。

また、建御名方神が諏訪へ来る以前に土着していた「漏矢神」と同一視も散見されるが、それは、守矢早苗氏が伝える事実と比較すれば間違いではなかろうか。

そもそもミシャグジ神は「守矢一族」の守り神的存在の精霊であった。その守矢一族の先祖が後に建御名方神と争うことになる『漏矢神』(=現人神・建御名方神に表される『出雲族』と戦った諏訪の土着の狩猟系先住民族)である。(この系譜は守矢早苗氏が口伝として伝えて来た『守矢氏系譜』(『しおり』に掲載)に明記されている)この順を踏まえればミシャグジ神と洩矢神は別物であると理解できる。

もう一つの国譲り伝承

諏訪にはもうひとつの国譲り伝説が伝えられている。

一般的に、国譲り伝説といえば、大国主が天津神に葦原中国を差し出すエピソードである。この際に、大国主の息子である建御名方神が了承せず、天津神である武甕槌命と力比べをして敗北し、諏訪まで逃走し、「この地からは出ないから殺さないでくれ」という命乞いをする。(このエピソードが載っているのは古事記のみである。日本書紀にも出雲国風土記にも載っていない)

この建御名方神の諏訪逃走劇を別の角度から考えると、諏訪という土地の特殊性が浮き彫りになる。

つまり、建御名方神が諏訪へ逃げ込んだ、という逸話は、諏訪から見れば、建御名方神に象徴される出雲系の稲作民族の侵入に他ならない。建御名方神率いる稲作民族が諏訪に侵入した際に、洩矢神に象徴される狩猟系先住民族が天竜川河口で迎えうったという言い伝えが諏訪には残っている。この際に建御名方神は藤の蔓を手に、洩矢神は鉄の輪を手に戦うのだが結局、洩矢神は負けてしまう。古事記で負けた神が諏訪では勝つ側として描かれている。

しかし、実情は「洩矢神は負けることによって出雲系稲作民族との共存、もしくは容認という形を選んだ」のであり、決して諏訪が出雲系稲作民族に占領されたわけでなさそうだ。その証拠に、「御柱」という古代祭祀の形式が現在まで残っており、洩矢神を祖とする神長官(後述)を中心とする諏訪独特の祭政体は明治5年まで続いていた。もし、本当に洩矢神を筆頭とする諏訪の勢力が負けていたなら、出雲と、その背景にある大和の力によって諏訪は現在のような特殊な古代祭祀形態は保っていなかったはずである。

神長官 守矢一族と現人神 諏訪氏

前述の通り、建御名方神が諏訪へ侵攻していた際に、迎えうった洩矢神の末裔が守矢一族である。神長官を含む五官祝(諏訪大社上社における神職の名称。神長官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝)という制度は神社が国家神道へと変遷し制度改革の行われた明治初期になくなってしまったが、その血が絶えていないことは記述してきた通りだ。『しおり』に寄稿している守矢早苗氏は洩矢神から七十八代目である。参考までにあげれば、出雲大社の千家宮司が現在、八十四代、海部氏家系図で有名な籠神社宮司は、現在、八十二代である。いずれの社家にも劣らない。

守矢氏の祖先は、現在の前宮周辺に居を構えていた。その後、建御名方神の子孫である諏方氏に前宮を譲ると、現在の守矢家と守矢史料館のある高部扇状地に移る。この高部扇状地そのものが高部遺跡であり、縄文時代から中世までの人々の生活跡が発掘されている。古墳時代には諏訪地方の豪族の墓城でもあった。実際、この付近を歩いたが扇状地のあちこちに古墳や小さな祠(どんな小さな祠にも御柱が立っている)が点在し、少し奥に分け入れば磐座信仰の名残を残す小袋石が祀られている。古代よりここが重要な信仰の場所であったことが伺える。

前述の通り、諏訪大社の祭政体は現人神・諏訪明神に降りて来るミシャグジ神を中心に営まれてきた。そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが守矢神長官家であり、ミシャグジ上げやミシャグジ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切ってきた。この守矢家の神長官の秘法は、「真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により『くちうつし』で」(『しおり』の守矢早苗氏の文章より引用)伝承されたという。この一子相伝、くちうつしの秘法は七十六代実久氏で終焉を迎える。

一方、建御名方神の子孫である諏方氏は「大祝」という生神(つまり諏訪明神の依代)の地位に着く。諏方氏が最初に居住し、祭祀を行っていたのが現在の前宮である。ここに諏訪大社の発祥を見ることができる。

しかし、大祝は事実上の祭祀権を握ることはなかった。なぜならば、諏訪氏が諏訪明神になるには、神長官守矢氏の力が必要であった。筆頭神官である神長官の降ろしたミシャグジを身につけて初めて、現人神大祝=諏訪明神になれたのだ。そして神降ろしの力や、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされており(つまりミシャグジ祭祀は神長官のものであったために)この地の信仰及び政治の実権は守矢家が持ち続けていたのだと守矢早苗氏は言う。

諏方氏はその後、系譜が曖昧になるが、伝承によると、806年、諏訪明神が桓武天皇の皇子、有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝をもって体をなす」と神勅をくだし、大祝の中興の祖となる。現在の諏方氏の祖はここに起原を持つ。その後、また系譜が曖昧になるも、十六代頼信から現在まで諏方氏は続いている。


https://hikino-effect.at.webry.info/201711/article_8.html【阿部敏郎氏のblogを読んでびっくりした。『天河神社』の歴史】   より

スピリチュアル系に興味のない人はスルーしてください。

 なぜって、悟りを開いた人・・・私はいない・・・ノンデュアリティを説く氏が『天河神社』で『ギターをかき鳴らしながら大祓詞(おおはらえのことば)をあげる』らしい。

 ノンデュアリティで悟りを開いた人が

 天都祝詞乃太祝詞事乎宣礼 (あまつのりとのふとのりとごとをのれ)

 祓給比淸給布事乎 天都神國都神 八百萬神等共爾 聞食世登白須

 (はらえたまい きよめたもうことを あまつかみ・くにつかみ やほ(お)よろづのかみたちともに きこしめせともうす) 

 ・・・神頼み。

 本当でしょうか?阿部敏郎氏の中では、ノンデュアリティ・悟りや、祓詞などが整合性が取れているのでしょう。

 私にはまったく分かりません。・・・論理が矛盾し考察出来ません。

 まあ、引き寄せの法則で、わけの分からない人には、わけの分からない人々が引き寄せられるってことですね。

 さとうみつろう氏、黒澤一樹氏も引き寄せられるようです。

 『天河神社』=『天河大弁財天社』とはどんな神社なんでしょう。

 Web上に載っていました。嘘か本当かは知りませんが参考にはなるでしょう。

 天河大弁財天社の歴史 2012/09

 歴史的に言えば、天川村(天「河」村ではありません)には来歴の異なる二つの弁才天(弁「財」天ではありません)が存在していました。

 厳密にはそのうちの1つは天川村ではなく、弥山の山上に弘法大師空海(もしくはそれに先行する役行者やいわゆる「山の民」)によって祀られたもので、そこが水分(ミクマリ)=分水嶺であることを示しています。

 もう1つは坪内(つぼのうち)地区に存在した水神の祠です。比較的近年に至るまで、ここには地名が表す通り沼が存在し、その中ノ島には水神が鎮守として祀られ、神事の際は小舟で行き来がなされていました。

 地元の伝承ではここに、弥山から高野山・阿弥陀ヶ峰、さらに野迫川村の野川を経て仏教神である弁才天が勧請され、古来の水神と習合したとされています。

 その中ノ島は、現在の「天河」大弁「財」天社のやや南、現在「天河」教団が新たに聖天祠と大黒天祠を設置している丘にあたると考えられますが、残念ながらそれを取り囲む古代からの沼は埋め立てられてしまいました。

 ともあれ、ここには明治の廃仏毀釈まで琵琶山・白飯寺という修験・密教寺院がおかれ、弁才天の祭祀を行っていましたが、明治政府による神仏判然令と修験禁止令により廃寺となりました。

 1980年代後半になり、この地に角川春樹や荒俣宏といったオカルト・スピリチュアル系の面々が出入りするようになり、土着の芸人一家であった柿坂某と組んで一帯を「聖地」と呼び、地元の人々を締め出して、かつて弥山への登拝口であった場所に新興の宗教法人「天河」弁財天社を設立します。

 この団体は、鎌倉以降の光明真言曼荼羅石を持ち出して「空海の秘伝感得のア字観石」と称したり、奈良国立博物館等各地に所蔵され、橿原市考古学博物館では常設展示されて現在でも誰でも何時でも見ることのできる、どこにでもある祭祀用具「三環鈴」を取り上げて「アメノウズメが天岩戸の前で舞った際に用いた五十鈴」だと喧伝、何はともあれ、当時のニューエイジ・ムーブメントの波に乗って、特異な宗教儀式を行って芸能人や小説家、自称霊能力者の類を多く集めますが、事実上の主宰者であった角川春樹氏が覚醒剤取締法違反で逮捕され収監されるに及び経営に行き詰まり破産宣告を受けます。

 他に使いようもない僻地の旧宗教施設を以て莫大な額の借金の代わりとなるわけもなく、お金を貸した側はやむなく債権を放棄。

 すると今度はサルタヒコ学者を名乗る鎌田東二氏とタイアップ、「手作りの骨壺を焼こう!」だのと懲りずに新たなる宗教活動を始め、いわゆるパワスポブームに乗って現在に至っています。 

https://www.youtube.com/watch?v=LFFAsc2y4X4