国家(上)(下)
古代ギリシアの哲学者プラトンが、どのような国家形態が優れた国家で、その国家における政治、政策はどのようなものであるべきか。。また、そういった政体における国民の在り方は 。。。? を論じている作品です。古代ギリシア哲学は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3人によって体系化されました。本書の著者プラトンの先生はソクラテス。そのソクラテスは不敬神罪で国家の名のもとに処刑されました。それをきっかけに弟子のプラトン (前427‐前347) は、正義の徳の実現には人間の魂の在り方だけではなく国家そのものを原理的に問わねばならぬと考えるに至ります。(Wikipedia)
このテーマを追求したのがこの「国家」という作品です。この作品は一応、演劇的に話が進む体裁をとっていて、ソクラテスがアテナイの外港ペイライエウスにある、富裕居留民ケパロスの家へ行き、そこで複数の知人と「正義とは何か」という議論を始めます。そこから、議論は、「より大きなもの(国家)の中にある〈正義〉から探求した方が小さなもの(個人)の中にある〈正義〉という概念を把握しやすくなる」と進み、そこから「〈善い国家〉のあり方はどいうったものか」と主題が発展・展開していきます。この主題が展開するにつれ、ソクラテスが主な語り役、つまり作者プラトンの論旨の代弁者となり、プラトンは本作品中のソクラテスを通して「善い国家」のモデルについてや「その政体はどうあるべきか」、「どのような統治者が理想的か」、「そのような国家の中で国民はどうあるべきか」、「善い国家モデルに対しての不完全国家とは?」、、などなど語っていきます。そして一方、他の登場人物たちは、ソクラテス(プラトン)の論旨の聞き役(あるいは、本作におけるプラトンの論旨の発展・転換・展開を促す媒介役)に回る、という構成をとっています。
まず、プラトンは、国の中心となる守護者・統治者についての教育の在り方、その生活条件や責務について語ります。次に 善い国家に備わっている「四つの資質〈知恵〉〈勇気〉〈節制〉〈正義〉」や「統治における哲学者(哲人統治者)の重要性」、「哲人統治者が学ぶべき〈善〉のイデア(*1)」、「イデアを理解するための教育論」などに言及し「理想国家から不完全国家へ至る4つの国家形態」、そして最後に「個人の正義」というテーマに回帰して持論を語っていきます。その説明は、しかし、現代の政治学者が開設するようなものではなく、徳がある人が行う政治とはどのようなものであるべきか。。何が人として、真であり、善であるのか、、、など、あくまでも人の生き方を根本として、そこを出発点として「国家」というものを考える、という哲学者プラトンとしての独自の考察による「国家論」となっています。
正直、プラトンの書いていることを自分がどの程度自分が理解したのか、(?)なところもあるのですが、紀元前5世紀に生きた一個人が「正義」という概念から「国家」を関連づけ、その中でも自らが考える「善い国家」というものの指導者、あるべき哲人統治者の在り方、政体、などを考察していく態度・姿勢にまず頭が下がる思いがしました。前述したことと重なるかも知れませんが、そこには、プラトンが信じるところのもの、すなわち、ヒトは単なる動物とは異なり、〈真〉〈善〉〈美〉を希求するという能力を人間は本能的に持っている、という信念や、ヒトはが自分達を取り巻く環境(国家や政体)を理解し、善くしていこうとすることができる、という人間に対する真摯な肯定的姿勢がプラトンの言葉から感じられます。(おそらくその点が、今でも本多くのアメリカの学生たちが読んでいる(読まされている?)(*2)理由なのだと感じます。)
特にイデア論を語るところですが、彼は我々が定義するところの〈教育〉について、独特の説明を行っています。。ここで彼は「人は、真理を知り学ぶための器官を心の中に持っているのですが、我々が生きている現世はいわゆる暗闇が覆っているような場所で、〈真理〉という光明が差し込んでいる方向へその〈器官〉を調整しながら光明が最も差し込む方向へ向けなければならないのです。その光明こそが〈善〉であり、その〈器官〉を光の指す方向へ転向させることが〈教育〉なのだ。」と。そして彼は次のように続けます。「それならば、教育とは、まさにその器官をを転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植え付ける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ。」(下巻/第7巻)
一方、21世紀の現代から考えると、今では受け入れられないような考え方も登場します。例えば、「国家を守る戦士には、さまざまな恩賞と共に婦人たちと共寝する許しを与え、多く与えるべきで、その(優秀な)男性(と優秀な女性)から生まれた子供は国の運営する保育所のような施設で保母たちの手で教育されるべき。」一方「欠陥児が生まれた場合には、しかるべき仕方で秘密のうちに隠し去ってしまうだろう。」(ナチスドイツの優生学的な考え方につながる)しかし、こういった考えが現実的ではないのは、我々が、共産主義の失敗やヒトラーという時代の仇花を散々に経験したから判断できることであって、そのはるか以前紀元前5世紀に生きたプラトンを非難するのはちょっと的外れであると思います。むしろ、そのような紀元前の哲学者の考え方と、現代人の考えの違いを考察してみるのもこの作品の読み方であると思いますし、本作品が書かれた前5世紀に、すでに遥か後年の西暦19、20世紀の為政者によって指導される「共産主義」や「優生学」のような考え方に言及し、このような壮大なテーマについて切り込んだところに(愚直で真面目な)哲学者プラトンの真骨頂を垣間見ることができるのだと思います。(上巻/第5巻)
さて、このような壮大なテーマに果敢に取り組んだプラトンの「国家」ですが、この最後の第10章に、「死後の世界」について語られているところがあります。この死後の世界は、勇敢な戦士であったパンピュリア族のアルメニオスの子、エルの物語を通して語られます。エルは、戦争でいったんは死ぬのですが、死体は腐らず死後12日目に生き返ります。そして、彼はあの世で見た事柄を話し始まます。
エルによると、そこには裁判官たちがいて、死後そこにきた人々を生前の行いにより、天の穴へ行くか、地の穴へ行くか裁きを下します。天の穴は天国へ行く入口、地の穴は地獄へ行く入口になっています。判決を受け、天国あるいは地獄へ行ったものは、一定の年数を経て〈牧場〉と呼ばれる場所へ行き、7日間それぞれが天国或いは地獄で体験したことを語り合います。しかし、8日目には彼らはそこを旅立たねばなりません。女神ラケシスの元へ行き、現世へ戻る籤(くじ)を引くためです。そして、その引いた籤の順番でこれから生まれ変わる現世での生き方を選ぶのです。籤をはやく引き当てたものから己が望む生涯(生き方)を先に選ぶことになるのですが、その一つ一つの「生涯」に富や貧乏、健康と病気が入れ混じっています。(なので、賢者でないと、どの人生が善いものであるか判断しにくいのです。) ここでプラトンはソクラテスを通して、この時の「人生の選択」つまり「善い人生」と「悪い人生」を識別し善い方の人生を選択する能力と知識を獲得するためにも、「人は常に探求し、学ばなければならない」、と語ります。
(*1)イデア:我々を取り巻く物資とは違う、本質的な真理。(*2)全米TOP10大学の必読書1位が『ポリテイア(国家)』/納富信留(のうとみのぶる)東京大学大学院人文社会系研究科教授。元国際プラトン学会会長。日本学術会議会員による。