お盆休みは 是非自然の中で
作家しりこだま(しりこ)@shiriko1971
こんなに空が晴れてるのに、君の心には雨が降る。心に降る雨は痛いよね。そして苦しいよね。でも君は顔を上げている。まるで雨に立ち向かってるようだ。すると君は僕に教えてくれた。「だって虹が見たいもん」……君の涙が1日も早く虹に変わりますように。ひらすら僕は祈ります。君の笑顔は夏色の虹。
Facebook田中 宏明さん投稿記事·
人の手が入っていない自然の中に出かけると たくさんの木や草が 好き勝手に生えています
一見するとカオスのように見えるのですが しばらくそこに佇んでていると それぞれの木が
それぞれなりに生きている事に気がつきます
小さな木は 小さな木として 大きな木は 大きな木として 葛やつたや 小さな花も
みんなその場所で 完全に調和して 生きています
そしてそれを感じている 自分自身の身体も 様々な臓器や 複雑に絡まり合う 血管や神経が 完璧な調和の中で 働いてくれているのが わかります
そうして その自然のハーモニー に身を委ねていると 一つだけ 不自然な働きを持っているものに気づきます
それは何かというと「思考活動」なんですね^ ^
僕たちは美しい森の中にいても 素晴らしい絶景を 目の前にしても 2分も経てば こう考え出します「よし美しいのはわかったぞ」「さて、次は どうしようか?」やっと辿り着いた
どんなに美しい場所であってもこの「思考」にかかれば一瞬で次のステップのための踏み台にされるのです
だからきっと天国に辿り着いたしても思考はこう言っていることでしょう
「さて、次は どこに行こうか?」自然の中には「次の場所」を考えている存在は一つもありません
あらゆる存在が「今」存在していることに深く落ち着いています 人間だけがいつも目的地を必要としているのです
学校に入学しても 会社に就職しても 結婚をしても 子どもが出来ても 絶えず次の何かに
追われています 人生はまるで 永遠に続く目的地 探しのゲームのようです
では人は なぜいつも目的地を 探しているのでしょうか?
それは今よりもっと より良いものがあると信じているからです
つまり 今自分が生きている状況に 満足していないんですね
美しい森にいても もっと素晴らしい森が あるんじゃないか? 素晴らしい山を見ても
もっとすごい山があるんじゃないだろうか?
素敵なパートナーに出会ってももっと自分を大事にしてくれる人がいるんじゃないだろうか?
そんな風に人生のあらゆる状況が「不足」で構成されているわけです^ ^
こんな風に生きていていつ自分は「今」幸せだと思えるのでしょうか?
そうなんです^ ^この思考を使っている限り永遠に充足を感じることは出来ないのです
そしてこの「思考」が外側の世界に投影されたのが我々が今生きている消費社会そのものなんです 絶えず新しい商品を 消費し続けるには もっと言うと 消費社会の存続には この「不足感」が 絶対に不可欠なんです
あらゆるエコロジストたちが環境破壊の危機を発信しています 今も世界のあらゆる場所で戦争や貧困が繰り返されています
今地球に起こっている 全ての不調和の原因はこの人類全体が 持っている「不足感」そのものなんです
この不足感が消えない限り 世界全体の調和はあり得ないんです
つまり人類全体がこの「思考」というものが自分たちを幸せにすることはないんだと気づいた時 はじめてこの 世界に充足感が 満ちていくのです
満ちたりた人が資源を奪うために戦争をするでしょうか?
満ちた足りた人が環境を汚染してまで物を消費し続けるでしょうか?
満ち足りた人が横で苦しんでいる人を放っておくでしょうか?それはあり得ません^ ^
一人一人の意識の変容でしか世界は変わらないのです
この星を美しい星にしたいなら我々一人一人がまず満たされなければなりません
それが全ての人が出来る唯一の地球への貢献です^ ^
少なくとも僕はそう思っています 自然の中にいるだけでそんな当たり前に気づかされます
皆さまもお盆休みは 是非自然の中で過ごしてみてくださいね✨🌈
では良い一日を✨らぶ💓
Facebook竹元 久了さん投稿記事 🌷徒然日記・森の声
ある人の娘さんがドイツ人と結婚した。それが縁で、二人連れだってちょくちょく日本へやって来るようになった。そのドイツ人の彼が最近頻りに日本の里山の素晴らしさを口にすると言う。ドイツにも森は幾らでもあるに違いないが、日本の森のどこが良いのかと聞くと、下草が繁茂している、むさむさしさが素晴らしいというのである。ドイツにはこの様な感じの森はないそうで、魑魅魍魎(様々な化け物)の息使いや、森に潜む生命のうごめきを感じるそうだ。これが何とも魅力で、そう言う山の中を歩くと、異世界と交流することが出来、大変幸せな気持ちになると言う。たしかに日本人は、自然の風景の中から、季節の微かな変化を敏感に感じとり、四季の移ろいに心を動かされ、そこから俳句や短歌を生み出してきた。春になれば待ち構えていたように梅見に出掛けたり、桜の季節は各地で花見が催され、テレビで開花予報まで出されるのである。これらは当に日本的情緒の典型と言える。
前秋に、イギリスの友人宅を訪ねたとき、「紅葉狩りに何処かへ出掛けようか~。」と言ったら、「イギリスではそんなことする人は一人も居りません。」と言われてしまった。イギリスでも黄葉する森は幾らでもあるそうだが、それを見る為にだけ、わざわざ出掛ける人は居ないらしい。「イギリス人は、はらはらと散る黄葉に、自分の人生を重ねると言うことはないのか。」と更に問うと、「そんなこと全然ありません。」と一言のもとに否定されてしまった。この時ほど日本人との精神構造の違いに驚ろかされたことはなかった。
最近、ある企業の会長さんがお寺にやって来るなり、「この感じは良いですね~。」と頻りに仰る。この方は旧家の育ちで、小さかった頃、お祖父さんが当時有名な禅僧を招いては、坐禅を組み法話を聞く会を催されていたそうである。お寺の長い廊下、部屋の違い棚の置き時計、開け放たれた廊下越しに見える鬱蒼とした庭の木々、部屋に漂う空気、どれを取っても小さかった頃の思い出に繋がることばかりで、懐かしさが込み上げてきたと言うのだ。
この二人の話を聞いて大いに感ずるところがあった。現代は万事便利になり、効率的で快適な生活が出来るようになった。それは大変結構なことなのだが、その為に失ったものも多い。これは以前別なところにも書いたが、私が四国八十八ケ所巡礼の歩き遍路に出掛けたとき、歩くことがどれだけ人間を本来の姿に立ち直らせるかを身をもって知った。山越えの遍路道を歩ききって、ふと振り返ると、急斜面に張り付くように点々と家が建ち、その間を梅林が覆っている。この何の変哲もない四国山地の田園風景が、代え難い素晴らしさで私の心に迫ってきた。ただ歩くだけで、こんなにも自分の心の内と向きあい、味わい深く景色を見ることが出来たのである。
私たちは日常的に車やバス、電車を利用し、極めて効率的、スピーディーに暮らしている。これは一方で、日々本来の心を失っていると言うことでもある。しかし、それで何か不都合が生ずるかと言えば別段ない。便利で快適ならそれが一番!と言うことになる。ところがもっと広い視野で社会全体を見ると、何処か歯車が狂い始めているのではないかと危惧される。親が子を殺し子が親を殺す、またお年寄りが一生掛かって貯めた命の綱とも言える蓄えを、騙して掠め取り、平然としている事件など、有っては成らないことが日常的に頻発している。これらはどう考えても異常としか思えない。便利さばかりを追い求めるうち、我々の心は知らず知らずの間に蝕まれ、本来あるべき姿を失ってしまったのではないだろうか。
嘗(かって)て人々の日々の暮らしは、自然と一体で、ゆったりとした時が流れていた。常に自分の心をそこに投影し、自然から生きる指針を学び教えられながら生きてきた。だから自然とは、人間の都合で利用するだけのものではなく、同等の価値を持った輩であったのだ。だから自然の持つリズムと歩調を合わせ、自然の発する声なき声に耳を傾け、会話するような気持ちで共に生活してきたのである。ところが現代は、丁度新幹線で矢のように飛ぶ車窓の景色を眺めているように、ただ効率一辺倒となり、その結果行き着いたのが自己喪失なのである。
最初にドイツ人が端無くも言ったように、日本人が古来より保ち続けてきた独特の自然観は、世界が注目する素晴らしい価値なのだが、日本人自身は全く気付いていない。それどころか西欧的合理主義を金科玉条のように思い、益々日本的情緒の大切さを忘れている。このへんでもう一度、近代合理主義から離れ、人間が本来持っている原初の速度で歩んでみれば、見落としたものに再び気付くことが出来るのではなかろうか。