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危ぶめば 道はなし

2023.08.11 08:02

Facebook船木 威徳さん投稿記事·【 危ぶめば 道はなし 】

「この道を行けば どうなるものかと 危ぶむなかれ 危ぶめば 道はなし

ふみ出せば その一足が道となる その一足が 道である わからなくても 歩いていけ

行けば わかるよ」(『道』清沢哲夫 『無常断章』より引用)

しばらく前に、大豆とさつま芋を植えている畑の雑草抜きをしながら、この詩を想い出していました。想い出していたというより、「行けばわかるよ」の部分が、「蒔(ま)けばわかるよ」に自分で置き換えてみて、おもしろくてしょうがなくなって、ひとりで笑っていたのです。大豆など、種まきをする時点で、なぜわかってしまうのか、普段は姿を見ないハトたちが、あの特有の鳴き声でうなるように、私の種をまくようすをうかがっているのです。そして、結果としては、芽を出した大豆の1/3くらいが鳥に食べられてしまったのですが、実際、これは種を蒔いてみないとわからない。事前に鳥がどれくらいの豆を食べてしまうかなどわかるはずもなく、不安になったところで、怖がったところでなんにもならない。

この詩は、昨年亡くなったアントニオ猪木さんが引退式で詠んだ詩のもとになっているもので、清沢哲夫(暁烏哲夫)という真宗大谷派のお坊さんの作です(著書『無常断章』に「道」として収載)。書かれたことばは決して難しいものではないので、だれもが理解できるでしょう。私たちが人生で、これをやってみよう、この道に進んでみようと考えるときには、いつも、もうひとりの自分が「うまくいかないかもしれない、危ないかもしれない、死んでしまうかもしれない…」そう、語りかけてくるものです。それでも、「わからなくても歩いて行ってみよう」と考える人はむしろ少数派かもしれません。ましてや、自分にたいして「行けばわかるよ」などと、ある意味で投げやりなことばをかけてもなお、進める人はさらに少ないように想います。

ここで、私は、ちょうど畑のまんなかにいるときに、これまでと違った理解ができました。「ふみ出せば、その一足が道となる、し、またその一足が道である」のだけれど、私たちが怖くても、不安であっても自分の足で「踏み出し」さえするなら、その先に『私たちの理解や予測をはるかに超えた超自然的な存在から、不思議な助け、智慧、出逢いが与えられることが約束されていることが<わかるよ>』という意味なのではないかと。

私が医師になって10年もした時には、私は現代医療のやりかた、つまりは血圧を下げるのに「薬」、血糖を下げるのに「薬」、感染症を予防するのに、やはり「薬」・・・、と、ただただ数字で測る症状を抑えるために山のような薬を処方し続けることに、なんといえばよいのか、ただ「嫌気がさした」のです。もちろん、食餌療法も指導はしているではないかと、同業者の反論もあるでしょう。しかしながら、どうも、おかしいと感じることがたびたびありました。蛋白をこれくらいに、塩分は1日~グラム以内にといった教科書に書かれた「患者指導」の内容がどうにも腑に落ちない。何十年も前の露地もののほうれん草と、現在のハウス栽培のそれではビタミンも鉄も、まったく量は異なるのに、ずっと同じような指導を繰り返しています。卵も肉も、含有される薬物の量が生産者・地域によって全くと言っていいくらい違うのに、下手をすれば「食べやすいソーセージやハムでもいいので~g摂りましょう」などという話をすることもあります。

先進国(どういう基準でそう称するかはともかく)のなかで、異常に増え続けているガンについても、新しい「治療」法、すばらしい(感じのする)「薬」の話はどんどん出てくるのに、なぜ、こんなにガンが増えているのか、身体を作っている食べ物や、水、空気について、ここ何十年を振り返っても、生活空間でとんでもない量を浴びている電磁波について、(私は、ガンの発生要因として非常に重要だと考えていますが)個々人の人生の考え方、価値観や世界観、人間関係や経済のとらえ方については、なぜか、ほとんど論じられることがありません

また話が長くなりそうなので、思いで話はひとつだけにしておきます。

私が、医者になって3年目のとき。内科医になることを決め、とくに専門で勉強したかった腎臓病を学ぶために、毎日の仕事は人工透析(血液透析)の患者さんたちの回診から始まりました。当時は毎週のように血液検査を行い、薬を変えましょう、食事はここに気をつけましょう、といった話をして回っていました。そのなかに、検査のたびに「カリウム」が高いことで、医師にかぎらず、看護師からも繰り返し怒られているおじいさんがいたのです。

腎臓のちからがほとんどなくなってしまい、自力で体のなかの毒素を尿として排出できなくなった人は、わずかな量の野菜や果物を摂るだけでカリウムの値が高くなってしまいます。これがあまりの高値をとると心臓が止まってしまうこともあるので、私たちも、とくに食べ物の話には注意を払っていました。ところがある時期から、例のおじいさんのカリウム値がまったくといっていいほど高くならなくなったのです。私は、むしろおじいさんが食事をとっていないのではないかと心配になり、尋ねたのです。すると。

「カリウムが高いときはね、看護師さんも先生もやんやん怒ってくるけど、高くならないと、船木先生以外の人たちはなにも聞いてこないんだよね。おれね、去年から畑を借りてね、仲間と一緒に野菜を作ってるんだよね。そうしたらさ、トマトもキュウリも美味いからね、前より食べちゃってる。だからね、まずいな、検査でカリウムがもっと上がってるんじゃないかって怖かったんだけど、結果はむしろ下がってて、安心したから、畑で採れた野菜は相当食べてるよ。なんでだろうね。不思議だよね。スーパーの野菜を少ししか食べていないときのほうがカリウムが上がっていたっていうのがね・・・。」

自分で作った野菜。もちろん農薬や化学肥料など使わなくても、虫もほとんど食わない、元気な野菜を作る方法などいくらでもあります。そうした野菜を食べて感じるのは、「いのちの力・エネルギー」のようななにかの力をもらっている感覚です。とにかくおいしい。でも、ある程度の量で、満足するのです。身体が「これくらいで充分だ」と合図をしているようにさえ想います。

私が、とにかく面白そうだから、本当に身体にいいもの、うまいものを食べたいからという理由だけで、いろいろな野菜を作り、さらに今年からお米作り、雑穀栽培の勉強も始めたのは、変な薬、化学物質を含まない本来の食べ物を摂るなら、私たちのすばらしくデザインされた身体の能力で、ほとんどの病気を未然に防ぎ、あるいは治療することができるのではないかと感じているからです。

最初はどうやって畑を借りたらいいのか、トラクターはどこで、いくらで買えるのか、あれはどうしよう、これも心配、怖い、不安だ・・・。そんな気持ちでいっぱいでした。でも実際、その先がどうなるかわからなくても、いつかきっと、何十人か、いや何人かの人たちだけにでもいい、うまいものを食べて、元気になって、病気も治った・・・。そう言ってもらえる日がくるんじゃないかと、不安でも、

『わからなくても 歩いていけ』

そんな想いで、野菜を作り始めてから、必要な時に、ちょうどいいタイミングで、私にはない知識を、私が自覚さえしていない必要な智慧を与えられ、なにより不可欠な、実際に手伝ってくれる人々が現れるのです。あり得ないことが、しかし、実際に起こる。これが「ありがたい」と言わず、なんとひょうげんすればよいのでしょうか。

畑作業は、そのほとんどは私ひとりで行います。今日のような夏の日差しのなか、雑草抜きを続けるだけでも、頭がぼーっとして倒れそうになります。真夏の昼下がりは、人の声も聞こえず、しーんとしたところでひたすら、作物の根元に割って入ります。

でも、周りが静かだからこそ、作物はもとより、雑草さえ、語り掛けてくるように感じます。大豆やさつま芋、名前も知らない雑草さえ、私が触るのを喜んでくれてるような感覚をもらいます。そして、雑草抜きをすると土のなかからカエルも出てくるし、羽虫も飛びやすくなるので、ツバメやカラスも寄ってきます。あらためて、生きているものたちが、みんなで、教えてくれているように想います。

「・・・ふみ出せば その一足が道となる その一足が 道である わからなくても 歩いていけ 行けば わかるよ」

私自身、なぜ、自分が文字通り汗だくになって、野菜を作っているのか本当のところはわかりません。ですが、私の限界のある頭のなかで、目的や未来をあれこれ考えるよりも先に、『わからなくても 歩いていけ 行けば わかるよ』と信じられるようになった自分がいることが、単純にうれしく、「ありがたい」ことなのだと覚えるばかりです。

※写真は栽培中のさつまいも、大豆、勉強させてもらっている雑穀(ヒエ、アワ、キビ、ハト麦など)、無農薬・無化学肥料での栽培を勉強している田んぼの様子(写真はお借りしました)。

(ふなきたけのり 2023/08/11)