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緑の聯隊長

2023.08.11 11:39

Facebook小名木善行さん投稿記

学ぶ会で紹介いただいた今日の特選ねずブロです。

今年も8月15日が近づいてまいりました。

この日は毎年靖國参拝をさせていただいているのですが、その靖國神社の神門と呼ばれる直径1.5メートルの菊の御紋が取り付けられた門をくぐりますと、すぐの左側に参拝記念の苗木の頒布所があります

その苗木は、靖國神社の境内の木の実を採って苗に育てたものです。

頒布所は無人です。いただく方はお金を自分で箱に入れます。

誰も見ていなくても、神様が見ておいでになる。だからおかしなことはしない。本当に日本らしい姿だと思います。

実はその苗木には深い物語があります。

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http://nezu3344.com/blog-entry-2351.html#more 【緑の聯隊長】より

開戦間近い昭和15(1940)年のことです。

吉松喜三元陸軍大佐は、China戦線での戦闘中に腹部に重傷を負ってしまわれました。

後方の野戦病院に送られました。

ある日、療養中のベッドからふと窓の外を見ますと、隣接する洋館の中庭で賛美歌を歌いながら緑の木立の中を散策する修道女たちの姿が目に飛び込んできました。

吉松大佐は、そこでひらめきを得ます。

昭和18(1943)年、ようやく機動歩兵第三聯隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを聯隊の仲間たちに話しました。

「なあみんな、Chinaは際限のない砂と黄土の大地だ。その大地を戦争はさらに破壊する。

けれど自分たちは、興亜を願う皇軍兵士だ。日本軍の通ったあとに、草木も枯れるなどと言われるようなことはあってはならないのではないだろうか。

つまり緑だ。緑の木こそ人の心を安らかにする。だからみんなで植樹をしよう。

自分は、植樹によって荒んだ兵隊達の心に安らぎを与えたいし、散華した敵味方の将兵の御霊を弔いたい。そして樹木の少ないChinaの大地に沢山の苗木を植えて繁らせ、住民を喜ばせたいのだ。」各大隊ごとの目標も決まりましたなんと、「大隊ごとに50万本の植樹をする」というものです。ひとつの大隊はおよそ千人です。ということはひとりあたり500本の植樹をするのです。とほうもない話です。軍の命令には、いちいち説明などはありません

「何だい?今度の聯隊長は植木屋のせがれかい?」兵たちの中には、最初のうち、そんな文句を言う者もいたそうです。ひとくちに植樹といっても簡単なものではないのです。

そもそもChina大陸は風土が日本よりはるかに厳しいのです。

樹一本育てるだけでも、各大隊ごとに営庭などに挿し木の畑を作り、朝晩、水をやって育てなきゃならないし、植樹したあとも、樹が根付くまで毎日世話をやかなきゃなりません。

土地によっては、植えるところの地質の改善も必要です。そのためには大きな土木作業が伴います。樹一本にもたいへんな労力がいるのです。しかもそこは荒れたChinaの大地であり、戦場です。いつ敵弾が飛んでくるかもわからない。

それでも吉松聯隊長の信念はゆるぎませんでした。

兵たちからしたら、何も危険を冒してまでと思うし、だから最初は不承不承だったかもしれないけれど、命令は実行されました。

ある朝、明るい陽ざしのなかに小さな若葉が苗木からふきました。

兵たちから、自然と万歳の声があがりました。みんな笑顔でした。

こうなるとみんなの気持ちに弾みがつきます。第三聯隊は、サラチ郊外の駅近くで早々に50万本植樹を達成しました。第一大隊ではこれを記念して、そこに「興亜植樹の森記念の石碑」を建てました。モンゴルに近い包頭(ほうとう)市では、現地のChineseのために、聯隊で興亜植樹公園を築きました。そこには内地の桜とポプラの苗木を1万本も植えました。

小さな富士山も作りました。

池もめぐらして、兵隊や現地の人たちが釣も楽しめるようにしました。

さらに子供たちのために小さな動物園も作ってあげました。第三聯隊では、植樹を意義づけようと「興亜植樹の歌」が作られました。吉松聯隊長はたいそう喜んで、これを聯隊歌にしました。みんなで軍歌と共に歌いました。聯隊の団結と興亜への願いをこの歌に託したのです。

♪雪に嵐に打ち勝ちて 四方にひろがる深緑 西風いかにすさぶとも われに平和の木陰あり

木々の緑は、乾いた黄土のなかに埋もれてしまう将兵たちの心や、地域の住民たちの心に、新鮮でやわらかい心を呼び覚ました。

敵軍との小ぜりあいは毎日続いていましたが、砂漠の乾燥した風景が、いつの間にか緑豊かな大地に変わって行くのです。そこには人々の確かな感動がありました。

第三聯隊の戦闘は連日続きました。連戦連勝でした。その聯隊が通りすぎた後には、必ず木が植えられました。その木々が花を咲かせ、木陰をつくります。

吉松大佐の聯隊は、戦闘を休む日はあっても、植樹を休んだことは、一日もありませんでした。昭和19年の春、吉松大佐の第三聯隊は河南作戦に転進しました。

みんなで大きな声で歌うのは、もちろん部隊歌の「興亜植樹の歌」です

洛陽での攻略戦は壮絶をきわめました。多くの戦友の命が失われました。

第四中隊長であった西宮中尉は、「ああ、安北の灯がみえる」と呟いて息絶えました。

安北は、包頭地区警備の最前線にある街です。聯隊がもっとも長く駐屯した砂漠の町であり、聯隊の隊員たちが、住民らと協力あって、緑の街づくりに励んだ町です。

砂漠の街だった安北は、ほどなくして緑の町となり、夕暮れ時には、ここが戦場かと思われるほど緑豊かで、明るく静かな灯りに飾られる街になっていたのです。

西宮中尉は、その安北の明かりが見えると言って、こときれたのです。

西宮中尉の最後の言葉は、全軍に広がりました。「そうだ。俺たちは、あの安北の緑をChina全土に広げるんだ」「そうだ、俺たちは、平和な町を建設するために戦っているんだ」

西宮中尉の言葉は、全軍の将兵を元気づけました。

洛陽の攻略戦が終わると、戦闘集団は、その日から植樹の軍団に変わりました。

鉄砲をシャベルに、銃剣を鍬に持ちかえて、「興亜植樹の歌」を合唱しながら、せっせと水をまき、種をまきました。このことは何よりも兵隊さんたちの心の救いになったそうです。

荒涼とした大地の中で、彼らは懸命に自分たちの心の泉を築いたからです。

連戦連勝の第三聯隊は、昭和20年8月15日がきた時、誰ひとり「降伏」ということを、どうしても信じることができなかったそうです。

戦争が終わったあと、第三聯隊は全員捕虜となりました。最初のうちは道路の修復工事をさせられていました。ところが昭和21年2月、China国民党軍は、もと敵将の劉峙(りゅうじ)上将から直接、吉松聯隊長宛の指名で「植樹隊」の編成を命じてきたのです。

「ざまあみろ、敵の大将も、やっぱりオレたちのこと知ってたんだ!」

なにが「ざまあみろ」なのかわからないけれど、隊長を中心に隊員たちはこれを聞いて抱き合って喜びました。そしてこのとき、みんなの目からは照れるほど涙が流れたそうです。

植樹がはじまりました。戦火で荒れた大地に小さな緑が芽吹きます。

道路工夫から植木屋に変わった彼らは、敗残の日本軍を代表するつもりで植樹をつづけました。まもなく感謝状が吉松聯隊長に届けられました。

終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三聯隊の吉松喜三大佐ただひとりであろうかと思います。

この感謝状を届けてきたChinese将校は、次のように言いました。

「実は、勲章を贈る話も出たのです。ほとんど決まりかけていたのですが、日中国交の回復していない時に勲章は考えものだということになって、残念ながらとりやめになったのです。」

この話が部下に伝わったとき、部隊のみんなが言ったそうです。「いらねえよ。金ピカの勲章なんかいらねえよ。隊長さんの勲章はこれだよ。この可愛らしく、ちょっと芽をだした柳の緑さ。これ以上の勲章があるもんか。」

不敗の第三聯隊の隊員たちにとって、それがなによりの心の勲章だったのです。

日本に帰国するとき、中共軍は、先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれました。

おかげで吉松聯隊長とその部下たちは、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができました。

こうして昭和22年の暮れ、吉松喜三氏は日本の土を踏みました。

けれどようやく日本に帰国した吉松氏を迎えたのは「公職追放」の四文字でした。

苦しい生活が続きました。この頃の吉松氏は、「死んだ部下の遺族と連絡を取り、いつか必ず慰霊祭を行いたい。そのために生き抜くんだ」とそれだけを思って日々を耐え忍んだといいます。そして旧部下の消息の把握のためや、遺族扶助料問題や遺族の調査など、吉松氏は日夜、地道な活動をつづけました。

吉松氏が公職追放を解かれたのは、ようやく昭和30年の春になってのことでした。

そしてやっとのことで、念願の慰霊祭を靖国神社で催せたのは、昭和34年のことです。

その日、吉松元聯隊長は、集まった戦友らとともに靖國神社境内の隅に記念の桜の木を二本植えました。吉松元隊長が最初の鍬を入れました。

境内の固く踏みしめられた土を掘り起こそうとしたとき、突然、吉松氏の心の中に、Chinaの包頭(ほうとう)の街の姿と、宣昌の野戦病院で見た修道女たちの歌声がよみがえったそうです。そして自分の内部に、何かが萌え出てくるのを感じました。

それは吉松元隊長が長いこと忘れていたものでした。吉松氏は、はっと気がつきました。

「そうだ、戦没者をなぐさめるために、靖国神社の境内にある樹々の実から苗木を育て、それを遺族に送ろう」さっそく吉松氏は神社の庶務課長と相談しました。

とりあえず参道にある銀杏の実でやってみようということになりました。

銀杏は靖国の主木です。樹齢も二百年を越すほど長い。参道の両脇にたくさん植わっています。銀杏は天空にそびえる大樹となる。

吉松氏は、神社の好意で、境内の一角の瓦礫の空地を借りることができました。

さっそく整地にとりかかりました。そこに銀杏の実を植え、苗を育てるのです。

彼は、たったひとりで靖国神社の銀杏の実を拾い集めました。

けれどやってみると、以外にこれがたいへんなことだとわかりました。

なぜかというと、当時の日本はまだ貧しく、神社の銀杏の実を拾って、食べ物のギンナンの実として売る人たちがいたのです。

日中になると、銀杏の実はひとつ残らず持っていかれてしまう。

なので吉松氏は、実を拾い集めるために、毎朝中野から午前4時7分発の一番電車で靖國に出かけました。そしてまだ暗い中を、懐中電灯を頼りに、合計1400個の実を拾い集めました。当時を振り返って吉松氏は語ります。

「ひとりぼっちで玉砂利を踏んで拾っていると、ふと、ひとつひとつの実が、国のために死んだ人たちの魂が宿っているような気がしましてね。

この実を育てて大木にしたら、その木にその人たちの魂が戻ってきて、宿ってくれるのではないだろうかって。そう思うと、もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか。どんなに戦が惨列をきわめても、部下の遺骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではないか。

こんな風に考えてまいりますと、不意に希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね・・・」

そう語る老隊長の眼には、涙が浮かんでいたそうです。

戦時中、外地で亡くなられた兵隊さんたちの遺骨は、遺族のもとに渡されました。

しかしその遺骨の中味は「英霊」と書いた紙一枚というのがほとんどだったのです。

吉松氏の靖国神社での銀杏の実拾いと苗木の育成は、その日からずっと日課になりました。

くる日もくる日も。そしてくる年もくる年も。

やがて慰霊植樹は、日本国内から、当時まだ米国領だった沖縄、ベトナムのサイゴン、懐かしの地である中国の安北、包頭付近までひろがり、苗木は大切に保護されて送られていきました。

昭和三七年の春、「沖縄の忠霊塔のそばにまいた銀杏の実が、十個のうち七個まで芽を出し、今では15センチ以上に伸びています」という嬉しい便りが、吉松氏のもとに届けられました。

そしてこれと前後して吉松氏のもとに、Chinaの内蒙古安北県の人民委員会から公文書が届きました。

「あなたの植えた木が6メートルほどに伸び、並木となって青々と茂っています。私たちの友好が幾山河を越え心と心がつながり、世界平和が実現されますように。」

吉松氏には、その並木の木々の一本一本に、思い出があります。

苗をみんなで育てたときのこと。接ぎ木したときのこと。植樹したときのこと。

仲間たちの笑顔。掛け声。明るい笑い声。みんなで歌った「興亜植樹の歌」の歌声。

ひとりひとりの戦友たちの顔が浮かびます。仲間たちの思いが、いまも生きて、並木となっている。「君たちに会うときの、いいみやげ話ができたよ。」

吉松隊長は、その手紙を握りしめ、ひとり男泣きに泣いたそうです。

また、吉松氏のもとには、戦争未亡人からの礼状も届けられました。

「先日、靖国神社で初めてお会いしましたあなた様より、いちょうの鉢植えをいただきまして、まことにありがとうございました。

子供たちと話しましたところ、長く大切に育てるため「父の木」と命名いたし、この樹を父と思い、大切に大切にいたすことといたしました。これもみな、あなた様のお導きの賜物でございます。」

吉松氏は言います。

「苦しいことばかりでした。経済的にまいりかけたこともたびたびあります。正直いって一銭にもならないのに・・・そう思って気分的に滅入ってしまいまして・・・でも、歯を食いしばって、続けてきました。それでよかった。

銀杏だけだったのが、今は桜やとち、楓、すっかり園芸家になってしまいました。

最近は神社のご好意で、一般の人にもお分けできるようにしていただきましたし。

今ですか?苗木一本につき百円の志をいただいております。

亡くなった方の霊をお慰めするつもりになっていただいて、百円だしていただくわけなのです。

こうして昨年は百万円近い金額が集まりました。その二割を靖国神社にお納めして、後は人件費、肥料、用意などに使いました。

人件費というのは、私の給料、というか生活費。ハイ、やっと月に四万円ほどいただく身分になりました。

つい先日のことですがね。「靖國」、つまり国を平和に安らかにする、そうするにはどうすればいいか、そんなこと考えながら、じっと「靖國」という字を見ていたんです。

そしたら、思わず笑ってしまいました。「青を立てる」これが靖国なんですね。

なんだ、自分のしてきたことでよかったのだ。笑いながら久しぶりに涙をこぼしました。」

昭和44年7月14日、志を立ててから30年目の記念日の老隊長の言葉です。

そしてその年は、戦後に慰霊植樹を始めてから満10年を迎える年でもありました。

毎年訪れる8月15日の終戦記念日には、多くの遺族が靖国の境内を埋めます。

その人たちにこの銀杏を、桜の苗を、残らず差し上げる。

そして空になった苗田に、また今年の秋の実をまく。

20年もすれば、それらはの苗は、立派な銀杏の木となって、日本中を平和な緑で飾る。

「私も74歳になりましたからね。その日まではとても生きてはいられないですが」」と老隊長は、にっこりと微笑んだそうです。

昭和60年、緑の聯隊長こと吉松喜三元陸軍大佐は90歳で永眠されました。

靖国神社の境内の左側には、いまも参拝記念樹の頒布所があります。

吉松隊長の心は、いまでもずっと息づいているのです。

※この記事は2010年9月にアップしたものをリニューアルしたものです。