変化は心地よいとは限らない
変化って、期待していたものと違ったり、なんかちょっとショックなことだったりすると、そこで立ち往生するような時がありますよね。
まさに数日前、ハピドラで起きたことがこれ?かなぁと思っているのです。
何があったかというと、大家さんから『家賃値上げのお知らせ』が来たのですね。
何の前触れもなく、唐突に。
これを今まで通りに反応すると、「なにおぉ!?」と行くところですよ。
または、「何でこんなことがわたしたちの身に?何か悪いことした?どこで間違った?」とか。
で、これを阻止すべく大家さんと話してモメてガチャガチャになる、というパターンが繰り返されるであろうことが容易にイメージできて、ちょっと落ち込んでたのです。
でもここから、自分の中に今までと違った流れが起きたのですよ。
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‘’不当な扱い‘’って何だろうな。
人からそうされることの前には、きっとわたしがわたしにしている不当な扱いがある。
仕事・すべきこと(お金のために?人から認められるために?)のために、自分を奴隷のように使っているかも?
自分を尊重することってわたしがわたしの声を聞くことなのかもなって最近思っている中で、そんなことが思い浮かんで、
わたしがわたしの声に耳を傾けること。わたしと繋がっていること。
それが、自分を尊重していることなのかもなぁ。
自分との繋がりが回復するって、あらゆるものとの繋がりも回復するって仕組みなのか、自分の中の‘’痛み‘’とも繋がりが回復するね。興味深いことに。
見て見ぬふりして、凍結して感じないようにしていた‘’痛み‘’も疼きはじめる。
息を吹き返すっていうか。
(たぶんこれ、エネルギーにはいいも悪いもないってことよね。ただエネルギーの流れが回復しただけで。)
でももう、この‘’痛み‘’を避けない!
痛みの前で痛みを避けようとして足踏みする、次に行きたいのに痛みがぶり返したことで‘’まだまだ‘’なんだと意気消沈して立ち止まる、そんなところから抜け出すぞ。
その痛みって、見方が変わると全く実態のないものだったりするしね。
この‘’痛み‘’がわたしを傷つけることはないと知っているし、この‘’痛み‘’として感じていることを無視したことに、より深く、決定的に傷つくから。
もうそんなことは繰り返さないようにする!
そんなふうに自分を苦しめたくない、悲しませたくないぞーー!
ぶり返す感情、、
不安だね。
怖いね。
自信がないね。
頭にくるね。
悲しいね。
うんうん、わかったよ。そう感じてるんよね。でも大丈夫だからー!
そうしているうちに、マボロシは消えて真実だけが見えてくる。
わたしがわたしと繋がっている、というところからなら、それが出来る。
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話が長くなりました(;^ω^)
こんな感じで、この『唐突家賃値上げ』とそのことで沸き上がった感情と向き合ったら、残った真実は、
「‘’大家さんからの不当な扱い‘’に見えたけど、この出来事は、ただ時代の流れの中で自然にやってきた変化なだけ。
そもそも、この家賃でここに居られてめちゃめちゃ有難い話なのに、むしろ今まで一回も値上げがなかったことが今更ながら有難い。
もしかしたら、この一件はこれから来るであろう大きな変化の前触れかも?」
と。
そもそも大家さんはなぜかいつもケンカ腰で、今までは実際ケンカのようになっていたのに、そんな大家さんのことはもうどうでもよくなってて、この申し出に乗ることを軽く感じていることを店主ないとうと二人で確認しあって、この変化に乗りましょう!なんてなったのです。
(いちお交渉はするけどね!)
変化は心地よさだけを運んでこない、ってこういうことなんでしょうかね。
足踏みしたくなった時こそ、変化が起きているのかもやね。
やみくもに突破するのでも、ストーリーに埋没して後退するのでもなく、こんな時こそ自分と繋がることがいちばん大事でいちばん効果がありますね。
自分と繋がることで得られる‘’力‘’のようなものは、地に足着いた現実的な変化を起こしていくんだなぁと確信した出来事でした。
これは、この世界・現実をどう生きて何をカタチ創っていくかという現実化のヒントのような気もしています。
この出来事から得られた、大きな大きな視点の変化でした。
ほんとうに変化は心地良いとは限らんですな。