Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

長崎・ポルトガル・マカオ

2024.05.11 06:43

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/513247/ 【長崎・ポルトガル関係2史料発見 鎖国、海防強化示す】より

長崎奉行・馬場三郎左衛門利重の書状。長崎警備が佐賀藩から福岡藩に交代したことなどが書かれている

1640年に長崎で処刑されたマカオ使節カルバーリョの甥が書いた嘆願書(岡美穂子准教授提供)

中段に「Cidade de Nangasachi」(長崎の町)という文字。長崎の人々は使節の来航に驚いた、と書かれているという

 1639年、幕府が鎖国政策でポルトガルと断交すると、交易再開を求める船が2度にわって長崎にやって来る。それに関する史料が近年、国内外で相次いで見つかった。2点の新史料を通して、当時の関係者の心境や海防が強化される過程を読み解いた。

 幕府は島原・天草一揆でキリスト教への警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。当時、ポルトガルはマカオを拠点に、中国で仕入れた生糸を日本で売って利益を得ていた。1640年、マカオは交易再開を求めて使節団74人を日本に派遣するが、長崎・出島で収監されてしまう。幕府は61人を西坂で斬首、残り13人をマカオに帰国させた。

 新史料は、斬首された大使ゴンサロ・モンテイロ・デ・カルバーリョを殉教者として扱うよう、甥(おい)がローマ教皇庁に求めた約800ページの嘆願書で、マカオ側の動揺がうかがい知れる。東京大の岡美穂子准教授(対外関係史)が2年前、ポルトガル国立公文書館で発見した。カルバーリョの功徳や亡くなるまでの経緯、長崎の人々が使節来航に驚いた様子が記されている。

 後にイエズス会宣教師が残した記録を調べた流通経済大の日埜(ひの)博司教授(ポルトガル文献学)によると、大村藩が使節の監視役を務めた。「長崎の人々は利害関係や親近感があり、幕府が配慮したのでは」と日埜教授。過去に来日歴があるカルバーリョらマカオの人々は、日本の、長崎の激変に衝撃を受けたであろう。岡准教授は「この使節に関する史料は少なく、新史料は当時の様子を知る手掛かりになる」と話す。

   □    □

 長崎交易が途絶えてマカオが衰退すると、1647年、再びポルトガル船が長崎に来航する。7年前の来航以来、福岡藩と佐賀藩が交代で長崎港を警備していたが、さらに九州諸藩から計約5万人が動員され、船を追い返したという。

 もう一つの新史料は、1647年の来航の約1カ月前に、長崎奉行の馬場三郎左衛門利重が熊本藩家老にあてた書状。長崎市長崎学研究所が2年前、熊本市の古書店で購入した。馬場は、カルバーリョらの来航時も長崎奉行だった人物だ。

 馬場はこの書状で、藩主の細川光尚が江戸で将軍と面会したことに対する祝辞や、長崎警備の担当が佐賀藩から福岡藩に代わったことを報告している。何げないやりとりではあるが、「幕府官僚の長崎奉行と熊本藩との親密さが読み取れる」と同研究所の藤本健太郎学芸員(日本近世史)は言う。長崎奉行がこうした関係性を九州諸藩と築いていたからこそ、5万人を動員することができたのだ。 

https://www.y-history.net/appendix/wh0801-117.html 【マカオ】より

16世紀中ごろ以降、ポルトガル人が居留して日本との交易などで繁栄し1887年、正式にポルトガルに割譲された。1997年の香港返還に続き1999年に中国に返還された。

 マカオ Macau(澳門)は中国の広東省、珠江河口の香港の対岸にある都市。香港の対岸にあたる。マカオとは、その地の海の女神天后の廟を媽閣(マーコウ)と呼んだことからポルトガル人が町の名前としたもの。中国では澳門(アオメン)という。

ポルトガル人の来航

 マラッカ王国を攻略したポルトガルはその地でジャンク船に乗ってやって来る中国商人と接触、かのマルコ=ポーロ以後途絶えていた、カタイ(中国のこと)の地との交易を再開しようとして、1513年にアルヴァレスが広東に赴いたが、その時は入港を認められなかった。1517年、改めて公式使節団(アンドラーデとトメ=ピレスが使節)を派遣した。彼らはようやく通商を認められ、 ピレスは皇帝に謁見するために北京に向かった。ところが第2回の使節として派遣されたアンドラーデの弟シモンが中国人を疎んじすぎたため通商の特権を奪われ1522年にポルトガル人は放逐されてしまった。ピレスも北京で皇帝に謁見することができず、広東への帰途に拘束され、何年か後に死ぬまで投獄されてしまった。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.79-80>

 なお、トメ=ピレスは『東方諸国記』という記録を残しており、その中で中国と共に日本にも触れており、ポルトガル人の最初に日本に関する記事となっている。<トメ=ピレス『東方諸国記』大航海時代叢書Ⅴ 岩波書店刊>

ポルトガル人の居住開始

 ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領してアジア進出の拠点とし、さらに翌年にマラッカ王国を占領して南シナ海に進出、中国との接触を開始した。明朝の北京での交渉は失敗し、ようやく1557年にマカオ(澳門)に居留を認められたとされている。以後、ポルトガルはマカオを拠点として中国、さらに日本との交易を行っていった。マカオのポルトガル商人には公式な交易以外にも密貿易で利益を上げようとする者も多く、そのうちの一部は中国人のジャンク船に乗って漂流して1543年(1542年ともいう)に種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた。これが契機となって、ポルトガルは日本との南蛮貿易を開始する。その後もマカオは、インドのゴア、マレー半島のマラッカとともにポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄した。またイエズス会のアジア布教の拠点ともなった。

注意 ポルトガルのマカオ居住の年代 教科書・用語集ではポルトガルは1557年に中国(明)からマカオでの居住を許可された、と説明されているが、その年代と事情にはそう断定できないようだ。以下、松田毅一さんと浅井信雄さんの説明を見てみよう。

 1557年に明の皇帝から、付近の海賊(倭寇)を討伐した功績によって、マカオを正式に譲渡された、というのはポルトガルの主張であるが、中国側の史料にはこの事実は確認することはできない。中国側はマカオは占拠されたと言っているがそれも当を得ていない。ポルトガル側の史料では1555年の記録にマカオがあらわれており、ザビエルも1552年にマカオの近くの上川島で亡くなっており、ポルトガル人がマカオに出現したのは1557年より前であるようだ。しかし、マカオは「譲渡」されたとは考えられない。おそらくはポルトガル人は1555年ごろから仮住まいして中国商人と取引をするようになり、海賊討伐にも関わって広東の地方官憲からその「居住」を認められたらしい。またポルトガルは当初、マカオの借地料を払っていたので、譲渡や割譲というのはあたらない。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中央公論社 p.95-96>

Episode 定住開始年代問題 マカオ返還交渉にも影響

(引用)ポルトガル人がマカオに住み始めた時期は1557年からとする文献が多いが、断定できる根拠はないようだ。中国・ポルトガル間のマカオ返還交渉の席上でも、中国がその問題を提起したところ、ポルトガル側は明確に回答できなかったとされる。返還の時期として「2007年」を希望したポルトガルは、「定住開始の1557年からちょうど450年」の節目の年にあたるからだと説明している。しかし、定住開始1557年説の明確な根拠を提示できなかったのである。<浅井信雄『マカオ物語』1997 新潮選書 p.75>

 最近のマカオ大学の資料では、マカオにポルトガル人が定住したのは、1554年から1557年の間」と幅を持たせているという。

Episode ポルトガルの詩人カモンイス

 ポルトガル最大の詩人カモンイス(カモエンスとも)は大航海時代に冒険と遍歴を重ね、ゴアとマカオで長く滞在した。1553年、一兵卒としてゴアに来て、アラビア海の海賊制圧作戦に従事、1556年には東インド諸島をめぐり、テルナテ、アンボイナなどの諸島を訪れた。1558年のマカオの軍事占領に参加し、そのままマカオに腰を落ち着け「今でも彼の名が付けられている洞窟でその『ルシタニア賛歌』の大半を書き上げた」。不正行為の嫌疑をかけられてゴアに戻る途中、メコン河口では難船したため、詩の草稿を頭に括り付けて岸に泳ぎ着いて原稿を守ったという。カンボジア、マラッカを囚人として旅し、ゴアに戻った後、許されて呑気な貧乏暮らしを送った。モザンビークで二年過ごした後にリスボンに帰り、『ルシタニア賛歌』を残すことになった。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.87-88>

 カモンイスの『ルシタニア賛歌』はローマ時代からヴァスコ=ダ=ガマの偉業までのポルトガル人の歴史をうたいあげ、国民的詩人とされ、現在もリスボン郊外のジェロニモス修道院でヴァスコ=ダ=ガマの隣の柩で眠っている。

ポルトガル領となる

 長く租借地とされたため、ポルトガル人は地代を払い続けていたが、アヘン戦争後の清朝の弱体化に乗じたポルトガルは、1887年に正式にマカオの割譲を清朝政府に承認させたことによて、マカオはポルトガル領となった。その後、対岸の香港の繁栄に伴って、マカオも貿易と伴に欧米人の保養、観光地となり、ゴアと伴にポルトガルのアジア植民地として続いた。第二次世界大戦後、中華人民共和国が成立すると、中国側に次第に返還を要求する声が強まり、1966年にはマカオの中国系住民がポルトガル政庁に対して暴動を起こすなどの事件もおこった。

中国への返還へ

 ポルトガルではサラザール政権などの独裁政権が続いていたが、1974年のポルトガルの民主化によって、マカオ返還が動きだした。香港のイギリスからの返還交渉が進む中でポルトガルも姿勢を転換させ、1997年の香港返還に続き、1999年にマカオの中国への返還も実現した。香港と同じく、マカオも50年間は現在の政治形態を変えない、一国二制度を採っている。 → マカオ返還

マカオと日本

 マカオは日本とも関係が深く、長崎との間では中国の絹(生糸。日本では白糸といった)と日本産の銀の交易が盛んに行われ、ポルトガル商人がそれを独占して利益を上げていた。日本では南蛮貿易と言われ、九州の大村純忠、有馬晴信らのキリシタン大名との間に盛んに取引が行われた。南蛮貿易を仲介したのは宣教師たちであり、彼らもマカオ経由で長崎に向かった。また日本の天正遣欧使節(1582年出発、1590年帰国)も往きと帰りにマカオに滞在している。特に帰りは1588年にマカオに着いたが、日本で豊臣秀吉の禁教令が出されたためにすぐに戻ることができず、マカオで2年ほど足止めをくらい、その間に出版などを行った。また日本のキリスト教禁止によって追放された宣教師や日本人信者も多数、マカオに逃れている。

マカオの衰退

 このように日本との貿易で栄えたマカオであったが、17世紀にはいると急速に衰えた。それは新教国のオランダおよびイギリスが日本との貿易に加わってきたことと、江戸幕府がキリスト教禁教令を出し、いわゆる鎖国政策を採るに至ったためであった。オランダ船は1601年に初めてマカオに姿を現し、それ以後、数回にわたってマカオの武力占領や封鎖をと試みた。また、マラッカ海峡から日本にいたる広い海域でさかんにポルトガル船を襲撃した。ポルトガルはその攻撃に耐えてマカオを確保したが、もはや前世紀のような日本との貿易を独占して繁栄することはできなくなった。また、ゴアとマカオの間のポルトガルの拠点であったマラッカが1641年にオランダに占領されたため、ポルトガルのアジア貿易は著しく後退した。

 すでに豊臣秀吉が、1587年にキリスト教禁教令を発したため、宣教師によるキリスト教布教と一体になっていたポルトガルは打撃を受けていた。豊臣秀吉は貿易については認め、その独占を図って朱印船貿易を始め、徳川家康もそれを継承したため、マカオの日本のとの取引は続いたが、オランダが江戸幕府に対しポルトガルがキリスト教布教を通じて日本を侵略する意図があることを訴えたためもあって、江戸幕府の対外政策が次第にキリスト教禁止の徹底、貿易管理の強化に転じるに伴い、1636年にポルトガル人は長崎出島に収容され、次いで1639年に来航が禁止されたことによってポルトガルによるマカオ―長崎間の貿易は終わりを告げた。マカオの商人たちは江戸幕府に貿易の継続を訴えるため使節を送ったが、江戸幕府はマカオに知らしめるために13名の従者を助命したほか、61名の使節一行を斬首し、乗船を焼却せしめたのであった。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 p.138>

世界遺産 マカオの聖パウロ大聖堂

 カトリック教会のアジア布教の中心であったマカオを象徴する建築が、聖パウロ学院教会跡の前壁である。現在では聖パウロ天主堂跡とも言われ、もともと聖パウロ学院付属の大聖堂で「東洋で最も威厳のある美しい教会」であったが、1837年に火災のあり、現在はその前面の壁面だけがのこっている。聖パウロ学院は、日本布教でも有名なヴァリニャーニがイエズス会の教義を現地の信者に教えるために建てた大学(コレジオ)で、その建築には日本人も参加し、日本人信徒も多数ここで学んだという。また『日本史』などで著名なルイス=フロイスなど日本で活躍した宣教師たちの貴重な報告書はここに所蔵されていた。それらの記録も火災で焼失したが、幸いなことにそのいくつかは書写されてローマ教皇庁に送られたので、現在見ることができる。

Episode マカオのカジノ

 現在のマカオは公営ギャンブル、特に高級なカジノで有名だが、1850年代、香港に貿易の主導権を奪われたために衰退期に入ったため、マカオ政庁が財源としてギャンブル業者に免許制度を導入したことが発端であった。また、当時同じくポルトガル領であった東ティモールが慢性的赤字に苦しんでおり、マカオはその支援を求められていた。その財源としてマカオ政庁はギャンブルを免許制にした。転機となったのは1934年にマカオ政庁がタイシン興業社という一企業にカジノ開設の独占権を与えたことだった。同社はセントラル・ホテルに最初のカジノを開設して以来、第二次大戦後の60年代まで、「金持ちも貧乏人も楽しめるカジノ」を哲学として経営を続けた。1962年には新たな転機が訪れ、スタンレー=ホーという人物が統括するマカオ観光娯楽企業連合(STDM)がカジノ開設権を獲得し、全体の装いをがらりと西欧化し、客が儲かる確率を高めるなどして集客力をアップした。そして1980年代からの中国の改革開放政策の展開によって誕生した新しい中国中間層が小金を貯めてマカオに足を運ぶようになった。その中で、1996年には広東省の鎮長(村長)が公用を名目にマカオ出張を繰り返し、カジノで公金1600万元(約2億円)を失い、死刑判決を受けるという悲劇も起こった。<浅井信雄『マカオ物語』1997 新潮選書 p.18-22>

 2011年に日本の製紙メーカー大王製紙の前会長がマカオのカジノにはまって、借金を穴埋めしようとして子会社から105億円をだまし取ったことが発覚したことは記憶に新しい。前会長がはまったのはバカラという賭だったようだ。はたしてカジノ解禁が日本経済にとってプラスでしょうか?