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鯨が神?

2024.05.17 07:30

https://shinkamigoto.nagasaki-tabinet.com/spot/10043 【海童神社 かいどうじんじゃ】より

海童神社は、ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居があることで知られ、捕鯨で栄えた有川を象徴する建築物です。鳥居の高さは4m45㎝。地下の埋込み部分は75㎝。

昭和48年(1973)、東シナ海で捕獲された体長18.2mのナガスクジラの顎骨が使われています。

ここには、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居という3対の顎骨と扇の形をした「ひれ」の鳥居がありましたが、腐食によって今はこの鳥居だけになっています。

 この神社のある場所は、平成14年頃までは海に囲まれた応護島(おこじま)という小島でした。有川港ターミナル(平成16年完成)が新築される際に、島の周囲が埋め立てられ陸続きになりました。

 応護島という島の名前から‘オコジマ様’と呼ばれ、登り口の鳥居には『海童神社』と書かれてあります。石段を登っていくと頂上付近に石の祠があり、恵比寿様(左)、龍神様(中央)が祀られています。昔は海童神社の拝殿があったようですが、明治24年に祖母君神社(うばぎみじんじゃ・中筋)に合祀されました。その後祖母君神社・天満神社・八幡神社が合祀され有川神社となり、現在、海童神は有川神社の祭神の一つとして祀られています。

https://www.youtube.com/watch?v=faFuau5wAnE

https://note.com/michihisahotate/n/nd6a270edcacd 【鯨の絵の描かれた壺、糸島市で発見。イサナキ・イサナミは鯨男神・鯨女神】より

保立道久の研究雑記

 以下は「老荘思想と倭国神話」(『東アジアの王権と秩序』汲古書院)で書いた「イサナキ・イサナミ」論の部分です。

 中国の洪水神話で「息壌」という不思議な生きた土を天から盗んで大地を作った鯀(こん)は火神祝融に殺されながらも禹を生み、この禹が「国土を分かち九州を定めた」というのは一種の国生み神話としてみると火神ホムスヒを産んで死去したイサナミの神話に非常によく似ている(『山海経』海内経)。しかも鯀には「大魚」の意味があり(『玉篇』)、三品(一九三五)はそれは具体的には鯨であるとして、北太平洋全域において鯨が神とされていることに結びつけている。これは小路田泰直がイサナキ・イサナミのイサナは文字通り鯨であろうとしていることに対応する可能性が高い(小路田『日本史論』敬文舎二〇一七)。海にかかる枕詞「いさなとり」の「いさな」の本来の意味が鯨であることは『万葉集』の諸注解に明らかであり、イサナキ・イサナミのキとミは男女を表現するから、この両神は鯨男・鯨女であることになり、この点でもイサナミは鯀(こん)に類似することになる。もし、この見解が成立することになれば、国生とは鯨が壮大な性交によって大地を生み出したという神話幻想であることになる訳である。

 普通、いまでも、この神はイザナキ・イザナミと濁音で発音されるが、これはすでに津田左右吉も松前もイサナミ・イサナキと濁らないのが正しいとしている(津田全集①三四八頁。松前一九六九、九六頁)。もちろん、「伊弉諾」「伊邪那蕩美」などの万葉仮名表記では「弉・邪」は濁音のザであるが、しかし、歴史言語学の吉田金彦はザ濁音になるのは後の発音であろうとし、神名帳や祝詞に「伊佐」(「佐」は清音)とあるのを取るべきだとし、本来、「いさな」のイサの語源は「磯」であるとした(吉田金彦『地名語源からの万葉集』東京堂出版、一九九七)。これは『壱岐国風土記』(逸文)に鯨伏(いさふし)郷についての地名説話があり、「昔者、■鰐、鯨を追ひければ、鯨、走り来て隠り伏しき」「俗、鯨を云ひて伊佐となす」とあって、その形の石が残っているとあることから証することができる。この鮐(さめ)鰐はシャチであろうが、磯の巨岩をクジラの精霊と考え、海の巨神と考えたという訳である。『三国遺事』(紀異第一、延烏郎)には海浜にあった一巌<一に云く。魚>が延烏郎を負って海を渡り、日本の王となったという伝説が記されていることも海浜の巨岩、「巌」と巨魚の観念連合を示している。

 とくに注意しておきたいのは、淡路島には寄鯨や海馬などを戎として祀る風習が近世まで残っていて、島内の海辺集落の多数はえびす社(蛭子社)をもち、鯨や海馬(いるか)あるいは海亀などの大型海洋生物をエビスと称して尊崇する風習があるということである。一九世紀半ばの地誌『味地草』には津名郡室津村には鯨が寄ったという鯨谷という地名があり、『兵庫県漁業慣行録』には寄鯨は肉を村で分配して骨は供養するなどの記録がある(福永明子「淡路島のえびす信仰」『「鳴門の渦潮」と淡路島の文化遺産』二〇二三年、鳴門の渦潮調査研究プロジェクト実行委員会編)。このような鯨の自然風俗が神話時代において鯨男・鯨女神の自然神話を生みだしていた可能性は高いだろう。

 鯨漁は黒潮の洗う紀伊半島から対馬暖流に洗われる北九州から壱岐、山陰地方まで各地で行われている。有名なのは壱岐原の辻遺跡から鯨漁を示す絵の刻まれた弥生式土器であって、これは『壱岐国風土記』(逸文)の鯨伏(いさふし)郷の挿話の背景を示しているといってよいが、最近では筑前怡土郡の深江城崎遺跡でも同じような弥生時代の土器が出土している(図と写真、鯨のファイルにあり)。鯨漁の研究は今後さらに進むであろうが、それは日本列島にとってきわめて深い伝統であった。ここで注目しておきたいのは、『大隅国風土記』に残る串卜(くじら)郷の地名伝承に「国造りましし神」(大国主命)がこの村に「髪梳(くじら)神」がいるのを聞いて使者を送って見させたとあることである。クジラが「串卜」と漢字表記されているのは、方法はわからないが、人々がクジラを卜占の対象にしたことを示しているのではないか。そこに「髪梳は隼人の俗の語」とあることは、隼人民族に鯨の信仰があったことを示している。クジラという言葉が隼人の言語であるとすれば、それが倭語になったことは、その信仰が西国全体に広がったことを意味するのではないか*48。少なくとも「髪梳」が海水と髪にちなむ卜定法であったことは、オキナガタラシ姫(神功)が新羅への渡海にあたって「頭を海水にすすぎ」「髪自ずからに分かれて両になれ」と誓って吉凶を卜したことからわかる(■■■)。この卜は当たって新羅侵入は「大魚」によって助けられ、その「船に随う潮浪」が大津波となって新羅の国中を襲ったという。この大魚とは鯨だったのではないだろうか(参照松本真輔「古代・中世における仮想敵国としての新羅」)。

https://note.com/michihisahotate/n/n35b1f37df6e3 【『老子』をどうみるか。本居宣長と平田篤胤の相違】より

 本居・平田の見解の相違は基本的に老荘思想への態度の問題である。まず本居は『老子』について、ある人から「神の道は、からくにの老荘が意にひとしきか」と問われたときに、「かの老荘がとも((輩))は儒者のさかしら((賢しら))をうるさみて、自然(おのづから)なるをたふと((尊))めば、おのづから似たることあり」と答えたが、しかし、結局、自然なりといっても儒学の「聖人の道」と同じことだとして神の道は人為を排するのだと論じた(『古事記伝』一巻九六葉)。東より子がいうように、本居の「漢心」否定の中では意外と老荘思想否定の位置は大きい。本居は儒学と老荘思想の両者を否定して、「もっと神秘的な存在」、いわば民族の神秘を求めたのである(東より子■■■)。これは契沖・荷田春満・賀茂真淵と続く国学の学統が基本的に老荘思想をベースとしていたことからの大変化であった。さらにいえば鎌倉時代、『老子』が伊勢神官の必携書であったように(「古老口実伝」)日本の神道自体が老荘思想(道教)の上に展開しており、それは神道の成立の時代までさかのぼるものである(参照福永光司『道教と日本文化』)。

 その意味では本居の立場は思想のレヴェルでいえば天御中主神道批判であるというよりも老荘思想批判だったというべきである。私見では、これは本居が学問の方法を学んだ荻生徂徠の儒学が、一面では老荘思想に近い側面をもっていたことに関わる。本居は、徂徠学の否定を通じて「漢心」のすべてを否定して、もっぱら『古事記』の和語の世界の言語学と注釈作業に集中したのである。あるいは本居は本来は『源氏物語』と和歌を中心とした日本文学の研究者として出発したから、物ごとの順序からいうと、逆に『古事記』の研究も言語学と注釈に絞り込み、それによって儒学と老荘思想の両方を排除するという研究方法を取ったというべきなのかもしれない。

 これに対して平田は本居が『老子』、老荘思想を排除することに対して明瞭に批判的であった。それは中国神話史を『老子』の各章によって概説した奇書『赤県太古伝』において、平田が「我が先師の比類なき大活眼なるすら、世儒と同じ様に老荘を混視して老子を甚く難られし説」を誤りだとし、「老子の伝へし玄道の本は、我が皇神たちの道」であると述べている。平田は本居とは違ってその学問を老荘思想から始め、終生、一貫して『老子』の研究を続けた。道教史の坂出祥伸が整理しているように、徳川時代の学者の中でもその老荘思想や道教の研究水準は突出しており、平田はこの老荘思想と道教についての知識を最大の支えとし、また儒教や仏教についても、さらにはキリスト教についてまでも学び、それらの神学的な知識によって神話の研究に挑んだのである。また平田がヨーロッパの天文学や地質学についても貪欲に情報を入手していたこともよく知られている。この意味では平田の方が本居よりも神学的であり、また合理的な研究方法をとっていたということもできる。つまり平田自身は神学を動員して対象としての神話の神秘を理解するという意味では、本居よりもむしろ合理的な人物であって、その神秘主義は神話を理解するための神秘主義という側面があったということができる。もちろん、そのような平田の学問の方法は『古事記伝』における本居の言語研究と注釈を前提として可能になったのであって、その意味では、本居と平田は絶妙な取り合わせであったのである。