楽器が先か、音楽が先か(Ryoshiro Sasaki)
Yamaha CP-70で奏でている音楽が聴きたい。
それだけの、理由で最近はCDを買い漁っている。
今のところ、手元にある最近購入したCP-70の音が聴けるアルバムは、Keaneのファーストアルバム”Hopes and Fears”、同じくセカンドアルバム”Under the Iron Sea”、Leon Russellのライブ盤”Live at Gilley’s”、Little Featのライブ盤”Waiting for Columbus”くらいなのだけれど、70年代から80年代にかけてのポピュラー音楽のライブ盤のピアノパートの多くはYamaha CP-70で演奏されていることが多いという。
ちょっと前までは、同じようにRhodesピアノで演奏されているジャズのアルバムばかりを買い漁っていた。Rhodesピアノで演奏しているとクレジットに記載されているジャズのCDは結構多くて、手元にあるピアニストがリーダーのアルバムだけでも、Hampton Hawsの”northern windows plus”、Bill Evansの”From Left to Right”、同じくEvansの”The Bill Evans Album”、Steve Kuhnの”Trance”、Ahmad Jamalの”Freelight”、Don Friedmanの”Hope For Tomorrow”、Herbie Hancockの”Mwandishi”、Barry Milesの”White Heat”等がある。サイドマンがRhodesを弾いているアルバムを含めると枚挙に暇がない。それらのアルバムを買った動機は、他でもない「Rhodesピアノの音が聴きたい」からである。
音楽の好みは人それぞれだろうし、どんな音楽を選んで聴いているかもそれぞれだろう。私の場合、音楽を聴く動機の多くを占めるのが「この楽器で奏でられている音楽を聴きたい!!」という気持ちである。上記のCP-70やRhodesにハマる前は、Hammond B3オルガンものや、ペダルスティールギターものの音楽ばかり聴いていた時期もあった。とにかく、「その楽器」の音楽を無性に聴きたくなるのだ。
何故、それらの楽器の音楽を聴きたくなるかの理由ははっきりしている。それらの楽器を「近頃買った」か「無性に欲しい」からである。素敵な音楽を聴いて、それらの音楽の演奏に使われている楽器が欲しくなる、という流れではなく、それらの楽器を「買った」もしくは「欲しい」ということに始まり、さてそれではそれらの楽器で奏でている音楽を聴こう、という流れになる。楽器の自己目的化である。
このところYamaha CP-70で演奏されているCDばかりを購入しているのは、他でもない、最近Yamaha CP-70(正確にはYamaha CP-70B)を買ったからである。
Yamaha CP-70という楽器は、もうずいぶん前に販売終了となってしまい、今となっては知っている人も少なくなったかもしれないけれど、かつてはライブステージ、練習スタジオに設置される「ピアノ」の定番であった。私が学生だった頃ぐらいまでは「ピアノ」がある練習スタジオと言えばだいたいCP-70が置いてあった。一方、Rhodesピアノが置いてあるスタジオは「ピアノがあります」という言い方ではなく「ローズがあります」という謳い文句で宣伝していた。
CP-70はいわゆるエレクトリックピアノ(エレピ)である。当時ヤマハはこの楽器をエレクトリック・グランドピアノと称していた。その呼び名の通り、電気で音を増幅させる小さなグランドピアノともいえる。
今日では、本物のグランドピアノを使える特殊な状況を除いて、ライブステージや練習スタジオで弾く「ピアノ」は、ほとんどの場合デジタルシンセサイザーに入っているピアノ音源か、デジタルピアノ(キーボード)を使って演奏されるが、80年代の中頃ぐらいまではそういう便利なものはなくて、ステージ上のピアノと言えば、アコースティックピアノ(多くの場合グランドピアノ)か、エレクトリックピアノかしかなかった。
エレクトリックピアノの歴史は案外古く、1920年代の終わりにベヒシュタイン社がネオ・ベヒシュタインというエレピを作っている。私も一度ベルリンの楽器博物館で現物を見たことがあるけれど、大きさは小型のグランドピアノぐらいあって、作りはグランドピアノそのもので、とても持ち運びができるような品物ではなかった。50年代にWurlitzer社がモデル110を出し、これは小型で持ち運びが可能であった。60年代になるとハロルドローズがフェンダー社と共同開発でFender Rhodesピアノを発売し、エレクトリックピアノは一般的になった。
この度我が家に来たCP-70はそれらのエレクトリックピアノから10年以上遅れて登場した。WurlitzerやRhodesの音がアコースティックピアノの音とはかけ離れたサウンドであるのに対し、CP-70は限りなくアコースティックピアノの音に近いエレクトリックピアノである。なぜなら、WurlitzerやRhodesは弦ではなく鉄板や、鉄の棒をハンマーで叩いてそれをピックアップで拾い音を発するのに対して、CP-70はピアノの弦をハンマーで叩きその音をブリッジに組み込まれたピエゾピックアップで拾いプリアンプで増幅し音が出る仕組みになっているからだ。鍵盤のアクションもグランドピアノと同じ、ダブルエスケープメントアクションが採用されている。
CP-70を弾いてみると、確かにグランドピアノのタッチに近い。グランドピアノのハンマーがフェルトでできているのに対し、CPのハンマーはゴムでできているため、すこし「ボヨ〜ん」としたタッチになるけれども、確かにアコースティックピアノと遜色のない感触である。70年代後半から80年代に多くのミュージシャンがステージでCP-70もしくはCP-80(CP-70は73鍵、CP-80は88鍵)を愛用したのもうなずける。
グランドピアノのタッチと音色を再現できるデジタルピアノが一般的になった今日では、CPの必要性はほぼなくなってしまい、ネットオークションでCP-70は粗大ごみ同然の値段で取引されている。そういうこともあり、なんだか不憫に思い、それではオワコンになってしまったCPを見直してやろうと思い購入に至った。アコースティックではないけれど、自宅に小さなグランドピアノが来たのだ。鍵盤楽器はほとんど弾けないのだけれど、また鍵盤楽器を買ってしまった。4台の「ピアノ」が書斎を占拠しているので、私の書斎はライティングデスク以外のスペースがほぼ鍵盤楽器に埋め尽くされてしまった。
CP-70を手に入れたので、上記の事情で私は今CP-70で演奏されているアルバムを探しては買って聴いている。
CP-70はRhodesと違って、アルバムのクレジットに楽器の名前が書かれていることが少ない。たいていの場合「Electric Piano」としか記載されていない。「Electric Piano」とすら書かれていないで、単に「Piano」としか記載されていないことも多い。まあ、確かに何も知らされずに聴いているとCPの音だとは気づかないことも多い。普通のアコースティックピアノかと思って聞き流してしまっていることもある。
そんなこともあり、CP-70が使われているアルバムを探すのは難しい。CPを弾いているだろうと踏んで、アルバムを購入してみて、普通のアコースティックピアノで演奏されていて「がっかり」することもある。逆に、なんとなく自宅にあったCDを聴いていて、図らずもCPの音色が聞こえてきて「嬉しい」なんていうこともある。これでは、なんのために音楽を聴いているのかわからなくなるのだが、そもそもよく考えたら音楽って「何かのために」聴くようなものでもなかったような気もする。
最近では、なんとなくCPに対する嗅覚が鍛えられてきて、なんとなく「この人のこのあたりのアルバムを聴いたらCPで演奏されているだろう」という勘が冴えてきた。「Piano」とクレジットに書かれているCDを購入して、家に帰って聴いてみたらCPだったなんて時は「当たった!」と、妙に嬉しかったりする。
職場で最近CP-70を買ったという自慢話を先輩にしてみたところ、調律師の先輩社員が嬉しそうに反応してくれた(私はピアノ屋で働いている)。
CP-70ですか!! 懐かしいですね〜。若い頃、テレビやライブ会場の調律の仕事の9割ぐらいはCPの調律でしたよ。あれは、持ち運びできるからみんな使ってましたね。ピアノの調律って聞いて現場に行くと大抵CPの調律でしたよ。
先輩は、20代の駆け出しの調律師だった頃を懐かしそうに改装しているようだった。
彼の他にも、CP全盛の頃に調律をしていた方や、CPの残り火があった頃に調律をしていた方は、概ねCP-70の話をすると懐かしそうな顔をして、CPの調律の苦労話をしてくれる。私のCP-70は職場でのコミュニケーションの潤滑油としての役割も担ってくれているようだ。調律師の方に限らず、音楽好きが集まっている職場なのでCP-70の知名度は世間一般よりも高いようだ(とは言ってもCPを知っている人は3〜4名ほどしかいないけれど)。CP-70の話をして、懐かしそうに反応してくれる方々がいると、なんとなく仲間(CP保存委員会?)が増えたような気がして嬉しい。
エレクトリックピアノに関わらず、楽器というのは概ね総てが栄枯盛衰の歴史を持っている。そして、今は衰退してしまった楽器というものが世の中には数多く存在している。そしてそこには常に、私のように廃れてしまった楽器を偏愛する方々が存在する。
それらを語り始めると長くなってしまうので、また別の機会にするけれど、トランペットも、ギターも、フルートもかつては一般的だったのに、今は廃れてしまった様式ものがある。そして、それらの廃れてしまった楽器達を今でもこよなく愛用している奏者やコレクターが存在する。
アコースティックピアノも、あまり知られてはいないがその例に漏れず栄枯盛衰の歴史がある。現在の鉄骨に弦を張るタイプのピアノ(モダンピアノと呼ばれている)になる前のピアノはチェンバロのようで、鉄骨フレームや支柱を持たず、ハンマーも現在のようなフェルトのハンマーではなく、木に皮を巻いたハンマーだった。この楽器は現在ではフォルテピアノとかドイツ語でハンマークラヴィアなどと呼ばれている。私の職場にも、会社の偉い人の趣味で、このフォルテピアノが何台かあり実物を見たりすることがあるのだけれど、どうも華奢な楽器で、鍵盤も浅く、音もなんとも儚く小さな音がする。
今、これを書きながら、アンドレアス シュタイアーが伴奏するフランツ・シューベルトのWinterreise(冬の旅)のCDを聴いている。シュタイアーが弾いている楽器は1825年ウィーンのヨハン・フリッツ製作のフォルテピアノだ。
先日、職場にフォルテピアノが出してあって、少しだけ触ってみた。さすがに「欲しい」とまでは思わなかったけれど、とても「気になった」。気になったので、このシュタイアーの「冬の旅」のCDを引っ張り出してきて聴いている。
シューベルトは、この歌曲集のどの曲もピアノのイントロから始まるように書いている。それらのピアノの前奏部分はどれも、静かで暗く、まるで呟くかのようだ。この前奏部分こそフォルテピアノ独特の音色がよく合っている。シューベルトは最晩年(とは言っても31歳だけれど)にこの曲を書いている。もしその時代のピアノが、モダンピアノのように大きく力強く、ドカーンとした音色が出る楽器であったら、病を患い瀕死のシューベルトはおそらくこの曲を書けなかったのではないだろうか。「このか細く、儚い音色こそ、フォルテピアノの真骨頂だ!」などと思いながら、私はフォルテピアノで奏でられる音楽を聴くためにこのCDを聴いているのだということに気づく。
あぁ、フォルテピアノ衝動買いしないように気をつけなきゃ。