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粋なカエサル

「ルネサンス絵画の創始者マザッチョ」

2018.08.06 00:30

  1年ほどでドメニコ・ギルランダイオの工房を離れた少年ミケランジェロが学んだ場は、メディチ家の古代彫刻コレクションだけではなく、「ルネサンス芸術のアトリエ」と言われたサンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂に残されたマザッチョの壁画だった。ルネサンスの巨匠たちすべてが手本と仰いだという偉大な天才マザッチョ。絵画におけるルネサンス様式の確立を高らかに宣言しているブランカッチ礼拝堂壁画から3点を取り上げる。

 ①「楽園追放」  両手で顔を覆って慟哭するアダムと胸に手を当てて悲しみに顔を歪めるエヴァ(ケネス・クラークは「西洋美術で並ぶものなき悲劇的イメージ」と表現した)。彼らの背には神の怒りを示す光の矢が放たれ、頭上では剣を手にした天使が雲に乗って、堕罪者がこれから「額に汗して」働かねばならぬ「呪われた土」を指さしている。神が誘惑者である蛇に語った「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(『旧約聖書』創世記3章15節)という酷烈な言葉をこれほど彷彿させる表現はほかに見当たらない。この絵の発想源については、さまざまに推測されてきたが、エヴァのポーズは明らかに「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれるタイプの古代彫刻(例えば「カピトリーノのヴィーナス」【カピトリーニ美術館】や「メディチのヴィーナス」【ウフィツィ美術館】)から着想を得たと考えられる。しかしこのような既存のモチーフを巧みに活用する能力以上にこの作品を生み出させた背景は、マザッチョの人間の生存そのものへの深い洞察にあったと思う。それこそがミケランジェロの人間省察と響き合うもので、彼がこの作品の忠実な模写素描に取り組んだ理由だろう。

②「貢の銭」  ブランカッチ礼拝堂壁画の連作の中でもっとも有名な作品。画面は青い空と遠い山々を背景とした広大で空気に満ちた空間として表現され、一人一人の人物はそれぞれの意志を持ち重みとボリュームとを持った固有の存在として描かれている。ヴァザーリが言う「足の爪先で浮いていたような人間が、ここではじめてしっかりと大地の上に立つようになった」のだ。つまりそこでは、透視図法と明暗による肉付法を自由に駆使して、重みとボリュームのある人間の肉体を現実に存在する通りに描き出されている。 この作品についても、ミケランジェロは税を払うペテロ像の模写素描を残している。

③「病人を癒す聖ペテロ」  聖ペテロが若き聖ヨハネを従えて貧しげな路地裏を静かに歩いてくる。病に苦しむ人々が救いを求めて家の外に出てくるが、ペテロは何もせずただ彼らの前に静かに歩みを進めるのみ。ところが、彼の影が病んだ人々の上を過ぎると、不思議にも病は癒され、苦しみが消えて行った。その様子をマザッチョは、路傍の奥から前方へと、既に全快のもの、いま癒えて合掌するもの、活力を取り戻してようやく身を起こした者、いまだ立つこと能わぬ者というように、ペテロのもたらす効力の過程を明瞭に描き分けた。しかも、病者たちの性格表現、存在感は二人の聖人に劣らず確固としている。そのような表現を可能にしたのは、マザッチョの人間存在への深い洞察、生きとし生ける者への共感だったろう。それなくして、このどこか芝居じみた奇蹟の場面をこれほどリアルにそして力強い感動に満ちた人間のドラマとして描くことはできなかっただろう。ブランカッチ礼拝堂壁画が、近代絵画への第一歩と賞賛される理由は、単に遠近法やフレスコ画の技法上のことだけではないのである。


 マザッチョはなぜこのような革新的絵画を描くことができたのか。なぜ、現実から遊離した知性や感覚偏重の流れを断ち切って、真に市民的な絵画を創造することができたのか。『マザッチョ ルネサンス絵画の創始者』のなかで佐々木英也はこうまとめている。

「この世界の直截な把握をめざす冷徹堅固な写実精神(レアリスム)、自然の観察を基礎とした溌溂たる想像力、人間存在への深い洞察また共感である。経験と知識、ひろく「生活」をわがものとし、自らを世界の「尺度」たらしめんとする意思—―これを要するにフィレンツェ共和国を隆盛へ導いた当代商工市民の能動的合理主義あるいは実証的精神が、わが画家においても制作の根本を支えていた。」

 (マザッチョ「楽園追放」ブランカッチ礼拝堂)

(ミケランジェロ「マザッチョ『楽園追放』のデッサン」ルーヴル美術館)

(「カピトリーノのヴィーナス」カピトリーニ美術館)

(「メディチのヴィーナス」ウフィツィ美術館)

(マザッチョ「貢の銭」ブランカッチ礼拝堂)

(マザッチョ「貢の銭」 部分 ブランカッチ礼拝堂)

(ミケランジェロ「マザッチョ『貢の銭』のデッサン」ミュンヘン国立版画美術館)


(マザッチョ「影で病人を癒す聖ペテロ」ブランカッチ礼拝堂)

(ブランカッチ礼拝堂)