光琳さんに会いにいく
- 諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。 - (谷崎潤一郎 『陰翳礼讃』)現代の生活に、『陰翳礼讃』に描かれるような暗がりは少なくなってしまったけれど、その美しさは、なぜか「知っている」、そう思えるのです。私にとって"美しい"という感覚は、どこかで必ず"畏れ"という感覚と結びついています。明確にそれを意識した最初の記憶は、学生の頃。祖父母の暮らす平家谷の、社に生う大きな大きな赤い藪椿でした。西側に山を持つ社は、少しでも日が翳ると薄闇に沈み、ものの輪郭が定かではなくなります。ちょうどその時間。椿の深い緑の葉は薄闇とごくごく近い存在になり、枝々の花だけが浮かび上がり、そして、足下には赤く淡い光を発するように、一面に敷き詰められたような落花。この世の物とは思えないその光景に、背中をそっと撫でられるような感覚に襲われたのを覚えています。その時、私の中で一番強く感じる"美しさ"はピカピカに明るいものではなく、薄闇の中の椿のように"畏れ"という感覚を伴うものなのだと知ったのです。いつかその感覚を形にしたい、その憧れが作品を生み出す動機になるのだと思います。そして、少しずつ、それが頭の中で像を結びつつあります。だから、見たかったのです。光琳の燕子花図屏風を。それと並ぶ蔦の細道や紅白梅図を。実際に日本画に取り組んだから生まれる疑問や、感歎を持って。あの金屏風はただピカピカに明るいという類のものではなく、まさに谷崎のいうような美しさを持つものだから。そして、それはきっと陰翳の中で畏れと繋がるものだから。さすがに日帰りでの東京はきつかったけど、根津美術館の街中とは思えない涼やかな笹の音や(隈研吾さんの建築、好き)実物の燕子花が咲く庭や(これは返って作品の凄さを知らせてくれるけれど)そういうものを合わせて、大事な記憶になりました。********************************尾形光琳300年忌記念特別展「燕子花と紅白梅」光琳デザインの秘密2015年4月18日(土)~5月17日(日)根津美術館http://www.nezu-muse.or.jp/********************************・・・ただ、こういう強行軍すると、必ずお熱がでるのよね( ;´Д`)何処かに体力売ってないかな(笑)