2015年最後の日記は
今年は、年始から岡山での個展 「水の音-Ver.Z-」フランスでの二人展 「Ayami Nakamura & Yumi Ishikita EXPOSITION 」私の一門の展覧会 「玉葉会書作展」現代アートのグループ展 「鞆の浦 de ART展」など、主立ったものだけでもかなりのボリュームの展覧会を開催しました。これに書道分野で恒例となっている「読売書法展」「書芸院展」「柏葉展」「正筆展」や展示依頼を受けた細かな企画展など加えると自分でもよく動いたなぁと思います(笑)中でも、初のフランス展は本当に刺激的で、心躍る経験でした。それらはその都度日記にも書いてきましたが、今日は、そのほかにどうしても書き記しておきたいことがあるのです。上に挙げた自身の活動は表現であり、いわば”アウトプット”ですが、今年はそのアウトプットが充実していた以上に、自身が表現に触れる”インプット”が充実していた一年でした。日本国内のみならず、海外(もちろんフランス!)の展覧会を見に行けたこと、たくさんの文章や、たくさんの詩(詩人にも会っちゃったし!)に触れたこと。中でも、今年の三大発見というべき出会いがあったのです。 *一つは、以前日記にも書いた「鶴図下絵和歌巻」に見える本阿弥光悦の「劔」の文字。当時、美術界のトップクリエイターであり、有能なアートディレクターでもあった本阿弥光悦が記した、あまりに洒落た当て字。刀剣の目利き・研ぎ師として名を成していた本阿弥家。その本阿弥家の光悦が「けん」の音に当てた「劔」の文字。
当時この和歌巻を目にした人達が「光悦め、そうきたか」と、ニヤリ笑うであろうその感覚を時代を経てなお味わえたことに、「ああ、なんという幸福だろう!」と興奮した大発見でした。NHK「日曜美術館」でも言ってない(笑)、解説書にも載っていないけど、この「劔」の文字の持つ意味は、きっと想像以上に大きいと思うのです。 *そして二つ目。滋賀県のミホミュージアムへ見に行った伊藤若冲の「象鯨図屏風」。"陸上最大の象"と"海中最大の鯨"という組合せ、また"象の白"と"鯨の黒"の対比が印象的な名品中の名品ですが、これを直に見たからこそ分かった「白」の存在があるのです。本当の「白」は象にあるのではないということ。
墨の魔術師(って勝手に呼んでるけど。笑)若冲は、この画面全体にあらゆる濃度の墨を駆使して、壮大なこの屏風を完成させています。一見白く見える象にも、そして広い余白に見える背景にも全て、ごくごく薄い墨がのせてあり、その絶妙な濃淡が画面全体に立体感と奥行きを生み出しているのです。但し、この画面の中で唯一、完全なる「白」があるのです。それは、"鯨の潮"。広大な画面の中で唯一の「白」。そのため、直に見たときに、鯨の潮だけが強く際だちすさまじい勢いで吹き出しているように見えるのです。「白」というのは、こんなにも少量で、こんなにも強い使い方が出来るのかと感歎のため息が出た発見でした。ああ!「日曜美術館」で井浦新の隣に座って、この話したかった!(笑) *そして三つ目。それは漱石の『こゝろ』。大学時代からいろんな文庫本で何度か読んだにもかかわらず、何かぼんやりとした消化不良感が残っていた作品。それを初めて、うちにあった初版復刻版で読みました。そして、今まで文庫版では完全に抜け落ちてしまっていた大事なものに触れることが出来たのです。
この小説は、"私"と"先生"のやりとりそして若き日の"先生"と友人"K"とのやりとりが描かれます。"先生"は"K"を自殺に追いやったのは自分だとずっと抱えてきた自身の罪を遺書という形で"私"に託して自らもまた死を選びます。若き日の"先生"と"K"との間には三角関係になった"お嬢さん"という存在がありそれは後に"先生"の妻となってずっと側に居るわけですが、そういう存在がありながらも女性の描写があまりに薄いせいか日本でも海外でも「同性愛」の話だというとらえ方が一部に根強い作品です。また、当時の漱石の精神状態などに言及して、一種の鬱状態だったと捉える解釈も多く見られます。ただ、私にとってはその解釈がなにか釈然としない。というか、たとえそういう側面があったとしても、主題としては浅い・・・。ですが今回、初版復刻版を読んだことで私の中で納得できる発見がありました。初版本はその序文に漱石自身の言葉で『こゝろ』は本の装丁も全て自ら手がけた初の作品であることがはっきりと記されています。そして、見返しをめくったその場所には、漱石みずからが刻した印影があるのです。
ars longa , vita brevis.(アルス ロンガ、ウィータ ブレウィス)もともとはギリシャ語で「学芸は長く、人生は短い」という意味ですが"Ars"というのが"Art"の語源になっていることも考えると、漱石の当時の受容としては「芸術は長く、人生は短い」という意味に取ってよいと思います。それを見たときに、「ああ!」と声を上げるほどこの小説の輪郭がくっきりと見えてきたのです。『こゝろ』は、漱石の芸術論そのものだったのだと。小説を書くということは、あるいは表現するということは、あるいは芸術ということは、一人の人間の命が消えてもなお残るもの、自らの生き血を浴びせかけて、それを浴びた人間に新たなる命を宿すことなのだと。それは究極のエゴイズムであり、表現者が抗うことの出来ぬ欲求であるのだと。そして芸術は続いていくのだと。 -肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。 -私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。漱石の後期三部作といわれる名作だけに、あらゆる出版社から文庫版が出ていますが、私はそれが大切なもの《装丁・印・序文》をごっそり欠落させた形で伝わっていることをただただ悔しく思います。本という表現媒体が如何に当時大きなものであったのか、本を作るということにかけるそのエネルギーは、今以上であったことはいうまでもありません。ですから、その抜け落ちてしまったものにも、漱石は細心の注意を払って《表現》を試みたに違いないのです。今回、初版本を手に取ったことで得た発見は私にとって大変大きなものでした。ああ!NHK教育「100分で名著」でこの話したかった!(笑)***今年の私の三大発見。自分の目で見たからこその発見。それが、《書》と《画》と《文》と、私の愛する三つのジャンルに渡っての大きな出会いであったこと。それは本当に幸せな一年だったのだなぁと思います。来る年もまた、美しいものに沢山出会い、沢山発見のある一年でありますように。