《浜松中納言物語》② 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃一
浜松中納言物語
平安時代の夢と転生の物語
原文、および、現代語訳 ②
巻乃一
平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。
三島由紀夫《豊饒の海》の原案。
原文と、現代語訳。
《現代語訳》
現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。
原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。
濱松中納言物語
巻之一
二、《三の御子》との会見、歓待のこと。
唐の帝の宣旨がおりて、御帝の内裏の承願殿というところにお召しになられたので、中納言の御君、よろんで参上なさる。
帝は御歳三十あまり、顔かたち、言うに言われず麗しくも愛でたくていらっしゃる。
帝、中納言の御君をご覧になれば、その御すがたは比類もない。
周囲に集っておられた大臣公卿ら、なんと日本の国の豊かなることか、このような人がおられようとは、と驚嘆されて、そのむかし、《かうやうけん》にお住まいになられていた《はくかん》こそは、この世に類無き容貌の、その尽きもせぬ名声をとどろかせていたものの、咲き誇る花の愛嬌もこぼれんばかりに、みごと調われたこの御すがたの麗しさは、更にぬきんでて美しいことだとその美の品定めさえしてしまう。
題を出されて、文をおつくりになり、音曲などを遊ばされるにしても、この広大なる唐の国にも、この人に勝ろう人などいはすまい。
中納言の御君の、この国の人々の文化など、ぜひ教えてくださいますようにとおっしゃるけれども、この濁世の中に不意に花開いた奇跡のように美しい御方であれば、この上、この国ごときの何を御君にお伝えし、差し上げればよいものかと、帝さえもが思い惑って、ただただ、この美しい御方を、朝に夕ににご歓待なさるのに、御君、お秘めになられている憂いのことなどもしばし忘れられ、満たされぬ想いもあえて捨て置く。
三の御子は内裏の近く、その周縁の、《かうやうけん》というところに、めずらしくも美しい宮をおつくりになられて、そこを御里になさっておられる。
母宮もごいっしょにお住まいになられるという。
三の御子の御消息があった。三の御子は、中納言の御君をお呼びなされたのである。
中納言の御君、限りもなくお喜びになられて、参上なされるのだった。
その宮のさま、ほかの宮どもにも比べようなく、言うに言われぬすばらしさ、池に川にと張られた水の色、石のたたずまい、庭のおもむき、植林の景色も、それはもう、ただ、美しい。
中納言の御君、御殿に召しいれられなさった。
三の御子の御歳七つか八つばかり、美しくて、麗しくて、その黒髪も滴り落ちそうなきらめきにてあらせられる。
在りし日の懐かしい父君の御かたちではあらせられないながらも、その麗しさ、《あはれ》にも、これほどまでにと目を見張られこそすれ、ただ涙、こぼれる心地さえされるのだった。
御子もお察しされたのだろう、御気色を変えられて、通り一遍のご挨拶などすまされたのちには、ぶしつけに言葉をかけるなどされず、昔を忘れも出来ないままに、こうしてまた、出会えた奇跡の《あはれ》さを、文にしたためなさって賜るに、涙よ、止まらぬかと念ずるかいもなく、その御涙、とどまることを知らない。
そのお返しの文にお書きになられて、かさなり渦巻く雲の遠き、遠き群れの浪間を飛び越えて、はるかに参上したいま、生を隔て、御かたちをお変えになられたとはいえ、御父君は《あはれ》に懐かしく、故郷、あの海の向こうの日本の国でともに過ごしたかつての日々を想う心は、とても忘れ得るものではなかったのだったと、ただ、ただ、懐かしい御心をお見せになれば、御子も耐えられずに想いはあふれる。
唐に渡った旅の次第を語り聞かせられるに、まだ日本を発つ前に、中納言の御君の御后の、ご出発をご心配されて思いまどわれたことなどご覧になった折には、さすがに唐の国になど行けたものではあるまいと、さすがの御君もお諦めなされもしたものだったが、それでもやはり口惜しく想えて、道のどれほど荒れて険しかろうとも、この身朽ちてもそれが何ほどの、と想い決められて、さあ、行こう、旅立とうよと、想いたてられたものことの、なんと大変なご決断をなされたものだったかと、よろづの家臣どもも、気色ばんで、なんとも頼もしくも嬉しい御方だと想われているその表情を、三の御子は、《あはれ》に限りなく心動かされておいでになるけれども、人目を憚って、そのことをあえて顔色に出そうとはされないのを、いかにも優れたお人柄よと、中納言の御君、尊してたてまつる。
母宮は心からときめかれ、御子のご歓待も並々ではなく片時も話そうともされないのだが、かくも御君をご歓迎される《かうやうけん》のみやびなる日々のなかで、心のどかとばかりにはいられもせずに、憂いのもたげること多いものの、御君をお慕いする御こころ最早とどまることなく、御帝には言い逃れされつつ、おひきこもりがちにもなられる。
《原文》
下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。
なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。
濱松中納言物語
巻之一
帝の宣旨(せんじ)下りて、内裏の承願殿といふ所に、召しありて参り給へり。帝三十余許りにて、顔かたち、いみじく麗しくめでたうおはします。中納言のありさまを御覧ずるに類なし。そこら集ひたる大臣公卿、日本はいみじかりけり。かゝる人のおはしけるよと驚きて、古(いにしへ)かうやうけんに住みけるはくかんこそは、我が世に類なき容貌(かたち)の名をとゞめたるも、愛敬(あいぎやう)のこぼれるばかりに匂へるかたは、更にかゝらざりけりと定めけり。題を出して、文(ふみ)を作り、遊びをして試みるにも、この国の人に優るはなかりけり。この人の事をこそ見ならひとむべかりけれど、この国の事とては、何事をかは中納言に傳へならはすべきと、帝も思(おぼ)しめし驚きて、唯この中納言を、朝夕にもてあそびなづさひ奉るに、いみじう憂へを休め、思ひをのぶる事に思へり。三の御子は、内裏の邊(ほとり)近く、かうやうけんといふ所に、面白き宮造りて、そこをぞ御里にし給へる。母后も諸共に住み給ふ。御子の御消息(せうそく)あり。限りなく嬉しく参り給へり。所のさま、外(ほか)よりもいみじくめでたく、水の色、石のたゝずまひ、庭の面(おも)、梢のけしきもいみじう面白し。こなたに召し入れらる。御年七つ八つばかりにて、美しうて、麗しく鬢づらゆひさうぞきておはす。ありし御面影(おもかげ)にはおはせねど、哀れにさぞかしと見奉るに、涙もこぼゝ心地し給ふ。御子も御氣色かはりて、大かたのことども仰せられて、詞(ことば)には宣はで、昔を忘れぬに、かく逢ひ見つるよしのあはれを書きて賜はせたるに、いみじう念ずれど涙とまらず。その御返しの文、雲の浪煙の浪と、遥かに尋ねわたりて、生(しょう)を隔て、かたちをかへ給へれど、あはれになつかしく、故郷を恋ふる心も、忽(たちま)ちに忘れぬる心をつくりて見せ奉るに、御子もえ堪へ給はず。上(うへ)なんどの思し惑ひしを、さしあたりて見し折は、などかゝる事は思ひしよりけむと、悔しうおぼえ、道のほど遥かに心細く、いかになりぬる身ぞとおぼえしを、いでや思ひたゝざらましかば、いかにいみじういぶせからましと、よろづこの御衆にては、慰みてたのもしう嬉しと思へる氣色を、御子あはれにかぎりなく思ひたれど、人目には、その事をおぼし顔にもかけ給はぬを、かしこういうにもおはするかなと見奉る。母后いといみじうときめき、御子のおんおぼえも優れて、片時見奉らでもえおはせざりけれど、かばかりおもしろう遊びよくおぼさるゝかうやうけんにも、心のどかにもえおはせざりけれど、中納言に、常にむつれまほしく思されければ、言ひ遁れつゝ、里がちになり給ひぬ。
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