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石川淳とポール・クローデル

2018.08.07 11:30

   一  

 石川淳(一八九九―一九八七)はフランス語が堪能だったが、幼時に漢学者の祖父から論語の素読を教え込まれ、現代作家にしては珍しく漢文も自由自在に訓読できたことから、和漢洋に通じた小説家といわれてきた。漢文の素養という文化資本を分配されたことが文学者として石川がユニークネスを獲得することに役立ったことは事実である(1)。しかし彼は漢籍を日本語として訓読したのであり、また同時代の中国に対してフランスやソヴィエト連邦に匹敵するような強い「外国」意識を抱いていたとは考えられないことから、和・漢・洋ではなく、和漢・洋と二項対立的に捉える方がより正確である。彼と漢文世界との関わりについての実証的伝記学的記述には意外な誤りが訂正されないまま現在に至るなどしており(2)、徹底した再検討が必要だが、本稿でわれわれは、石川とキリスト教との関係について検討したいと思う。石川と西欧との関係については、フランス象徴主義及びアナーキズムが取り上げられることが多かったが(3)、これらと比較したとき、キリスト教との関係についての検討ははなはだ不充分と思われるからである。

    二

 石川とキリスト教との関係について考えるとき、フランスのカトリック詩人、劇作家、外交官のポール・クローデル(一八六八―一九五五)との出会いを見逃すわけにはいかない。明治維新の年に生まれたクローデルは、マラルメの弟子でもあるが、オーギュスト・ロダンの愛人となった彫刻家カミーユ・クローデルの弟であり、姉のジャポニズムの影響から日本に対する関心が深かった。外交官となった彼は、中国大使を経て、一九二一年五十三歳から一九二七年五十九歳まで駐日大使を務めた。石川の青春時代、すなわち二十二歳から二十八歳までの間とその時期は重なる。 我が国における関心の持たれ方は、明治の終わりから大正はじめにかけて、上田敏が訳詩上の理論的関心からクローデルに接近した程度であったが、クローデルが駐日大使として来日するとの報道が一九二一年一月になされると、四日後には読売新聞に「新仏大使は詩人ク氏」と報じられ、来日するまでの間に、各紙の熱の籠った報道によって「詩人大使」に対する期待が高められていた。同時に、彼の作品の翻訳や批評も相次ぐようになっていた(4)。後にクローデルはアインシュタイン来日時の日本人の熱狂ぶりについて「日本人は何らかの理由で今日脚光を浴びている人たちに対しては、まるで子供のような好奇心を示す」(5)と記したが、クローデルの来日に対する日本人の熱気には、第一次世界大戦で戦勝国となり、何とか五大国の一員となりおおせた自国を理解し、西欧社会に日本のすばらしさを伝えてほしいという思いもあり格別のものがあったのである。 そうした熱烈歓迎のムードのなかで、クローデルは一九二二年十一月に来日した。もっとも彼は十二年間に及ぶ中国での外交官時代に、一か月の休暇を日本で過ごしており、二度目の来日であった。一八九八年三十歳で果たした一度目の来日のときに、クローデルはマラルメの弟子、そしてカトリック信徒の詩人として啓示的な体験をしている(6)。 来日して二か月後の一九二二年一月十五日、上野精養軒で在京フランス研究団体主催による歓迎会が行われた。石川はこれに出席し、クローデルの講演「フランス文学について」を聴いた(7)。また十二月二日に明治会館で行われたシャルル=ルイ・フィリップに関する講演会も聴いている(8)。 翌年親仏文芸会が編集した記念誌に二十三歳の石川は「ポオル・クロオデルの立場」という文章を書いている(9)。ここで彼は二十三歳のクローデル、「黄金の頭」を世に問うたばかりの「無名の青年作家」、「官界に於いても、第一歩を踏み出したに過ぎなかつた」クローデルの根底に流れるカトリック精神について語り始める。そしてクローデルの「東方所観」「五大讃歌」に言及した後、難解といわれる「作詩論」(詩法)の名高い《万物共―生(コネサンス)》論に言及している(10)。石川が実に丹念にクローデルの作品を読んでいることがうかがわれるが、ここで彼はクローデルの根底に触れることの重要性を指摘している。クローデルは「信仰の明るみの中に居る」。そして「光の外は闇である」。石川はジャック・リヴィエールの「クロオデルの基督教の信仰に従はなければ、最早虚無に走るより外為方がない」という言葉を引き、この文章を「クロオデルか虚無か。――これがわれ〱に残された問題である。(終)」という文章で結んでいる。「虚無」とはニヒリズムのことであり、無神論的アナーキズムのことでもあろう。この文章の中で、石川は精養軒の講演でクローデルが「民衆の為」ではなく「民衆それ自身の立場に」在ってものをいう文学者であるとの言葉を聞いたことを悦びと記している。ここには東京外国語学校在学中から彼が傾斜していた社会主義思想への共感がうかがわれる。 それにしても、末尾の文は、彼がカトリシズムと無神論的アナーキズムの間で思想的葛藤に陥っているようすがうかがわれて興味深い。キリスト教もアナーキズムも和漢・洋の洋のコンテクスト内にあり、その中で対抗的なものなのだが、当時の石川がカトリシズムとアナーキズムを絶対的な二者択一として捉えていた事実は、それだけ両者のもつ引力が強かったことを証しているといってよいだろう。キリスト教は、アナーキズムと共に、若き石川淳においては思想的問題だったのである。 また、注目すべきは、この文章のなかで、石川が「われ〱の眼に映ずるクロオデルは「父」の姿である。」と記している事実である。クローデルを父のように仰ぎ見たのが当時の多くの日本人でもあったことは疑いないが、ここでは筆者石川のまなざしと捉えてよいだろう。石川の実父は政財界に進んだ人であり、文学の世界に進んだ石川にしてみれば、理想の父親像とするにはふさわしくなかったものと考えられる。カトリック精神と文学が一体となったこのフランスの詩人外交官は、若き石川淳にとって、象徴的な「父親」の役割を果たしたといえるのである。石川は、クローデルが日本から次の任地アメリカへと旅立つまで、東京にいる「父」の存在を意識し続けることになる。

    三

  一九二四年に石川は開校二年目の福岡高等学校(現九州大学)のフランス語教師となる。石川はすでにクローデルの友人アンドレ・ジイドの『背徳者』を訳了していたが、赴任直前に「但以理奇蹟解」という文章を発表している(11)。短いが見過ごすことのできない文章である。これは旧約聖書の黙示文学ダニエル書に見られる奇蹟について論究したもので、石川は内村鑑三の研究も参考にしながら、ダニエルが何故獅子に食われなかったかを考察している。石川は仮説を三つ挙げ、一つずつ消去し、第三の仮説を結論とする。それはダニエルを、神でも天使でもなく、第三者の「人間」が護ったというものである。「奇蹟は人間に依つて行はれたのである」。「奇蹟は場合に応じて性質を異にすべきものではない。これよりして、すべての奇蹟は人間に依つて行はれると云ふことが出来る。」「私は論理に忠実であることに依つて、聖書より出発して無神論に到達したのである」。このような強引な理屈を無理矢理につけることで、石川は「ポオル・クロオデルの立場」で自ら提起した問題「クロオデルか虚無か」に後者(ニヒリズム即無神論)を選択するという結論を出したのである。 ところが、興味をそそられることに、福岡に赴任すると、そこで石川はカトリック教会のジョリー神父と同僚になる。「無神論者」石川は教会にも足を運んでジョリー神父と交際するようになり、彼を通してエミール・ラゲ神父とも交際を持つこととなった。知られるように、ラゲ神父は日本カトリック教会の標準訳として長く使われた文語訳新約聖書を一九一〇年に公刊した人である。授業ではクローデルの旧友ロマン・ロランの非戦論やフランス語訳共産党宣言などを用いた石川だが、このときに聖書という書物ではなく、生きたフランス人神父を通してカトリック精神と触れた事実をわれわれは軽く見ることはできない。(12) また、これまで全く注目されたことがないが、この年の十一月二十日、クローデルが十五日間の九州旅行の途次、通訳を務めたジョリー神父とともに福岡高等学校を訪れている(13)。いわば「父」が九州までわざわざ訪ねてきたのである。九州は遠隔地なので東京在住の大使がわざわざ行くことがないので、クローデルは敢て足を運んだのであった。石川もさぞかし驚いたことと思う。しかし当時の石川は、キリスト教よりも社会主義思想に強く引かれるものを感じていた。九州帝国大学経済学部に入学するという考えを同僚に打ち明け、やめておけと助言されたりしている(14)。マルクス主義経済学者になるという思いも当時の彼の胸に兆すことがあったのである。「クロオデルか虚無か」という問いは「キリスト教・文学」対「社会主義・経済学」として石川の内面にせめぎ合っていたと考えてよい。実際、この時期に創作はないのである。 とはいえ、石川は福岡高等学校講師時代に「新フランス評論」を購読していた(15)。ヴァレリーやクローデルと同じくマラルメの弟子であったジイドの『贋金づくり』の一部をそこで石川は読んでいた。ジイドは創作上の方法論に自覚的な小説家であったが、さりとて主題よりも方法を重視した作家であったはいえない。主題はもとより重要であった。そしてその主題はキリスト教と人間という自然との葛藤であった。石川淳はキリスト教徒ではない。けれども、カトリック神父と交際していた石川が、ジイドをキリスト教抜きで受容したとは考えにくいのである。 われわれが特に注意すべきは、石川とキリスト教との関わりが、聖書中心ではなくクローデルから始まり、フランス人神父を通したカトリック教会との関わりであった事実である。「われわれのはうではクローデルさんの信仰を生活に於てつかまへることがむつかしい。われわれが聖書を読むのは、じつは自分で再編集する聖書物語を読んでゐるやうなものさ。聖書はいいと、判りきつたことをいふ。それが自分の恣意の解釈に感心してゐるのかも知れないのだから、判らないはなしだよ。」(16)という言葉は、フランス人神父と親しく交際した結果もたらされた認識である。ここで示されている聖書の自由解釈に関する疑問は、明らかに、それを認めないカトリック教会の立場からのものである。 さて、福岡高等学校着任の翌一九二五年、治安維持法が成立し、文部省による高等学校の社会主義研究会に対する圧力も強くなる。それに伴い生徒による抵抗も強まったが、石川は生徒たちを教唆したとの理由で学校側から辞職を勧告されてしまう。石川は二学期で休職し、翌年三月に辞職に追い込まれる。東京のクローデルも、この時期の文部省の抑圧的な政策について「共産主義を広めたくないという本来の目的とは逆の結果を生んで」おり、共産主義の「研究は禁じられるべきものではありません。」と本国に報告している(17)。世の中にも大きな動きがあった。大正が終わり、昭和に改元された。芥川龍之介が自殺した。そして一九二七年二月、ポール・クローデルも五年間の任期を終え、横浜港から次の任地アメリカへと去っていったのである。左翼活動にも挫折し、カトリック精神からは離れて行き、石川は精神的彷徨の季節を迎えることとなるのである。

     四  

 やがて立ち直った石川は、ジイド『法王庁の抜け穴』や『背徳者』などを訳出するなどフランス文学者として活動を再開し、創作も再開する。一九三七年三十八歳の時に「普賢」で第四回芥川龍之介賞を受賞する。 われわれが興味をそそられるのは、太平洋戦争中は「江戸に留学」(18)をして過ごした石川が、戦後に「聖書もの」の短篇小説を次々と発表した事実である(19)。これらの作品にはキリスト教のイメージや伝説が重要な役割を果たしている。それらは江戸文学による「見立て」の素材として用いられており、実際のキリスト教とは無縁であるというのが通説である(20)。しかし、石川本人はこれを主張したことがない点には注意するべきだろう。素直に読めば、敢てキリスト教と無関係とする必要がないと考えられる作品もある。その一つが「かよひ小町」である。  「かよひ小町」は、以下のような小説である。主人公である語り手は、ある夜、たまたま目についた若い芸者に心惹かれ、彼女と同じ切符を買って電車に乗る。彼女が電車を降りると自分も降り、彼女が入っていった料理屋に自分も入っていく。金を稼ぐために書いた本の原稿料が入った封筒を店の者に渡し、その芸者を呼ぶようにいう。二人は一夜を共にするが、眠っている女の胸元から腋にかけて、赤い斑点があるのを発見して主人公は驚愕する。ハンセン病の兆候に間違いないからである。主人公は、自分がとるべき道は一つしかないと考える。それはこの女と二人でカトリック信徒になり結婚するということである。翌朝結婚を申し込み、女は諾す。教会に行くために二人は電車に乗る。牧場の柵のところで、主人公は女に接吻する。…… 語り手は、自分を「極めつきの俗物だから、体裁を作ることは大好物」と認めているが、「聖心の信仰といふやつは、よつぽどの俗物でなくては編み出せるものではない。」とも考えている。言葉の表面的な浅薄さとうらはらに、ここには信仰に対する真面目な思索があるといってよい。この主人公は、カトリックについての深い知識と教会関係者との関わりがあるふうに設定されている。それがわかるのは、「かつて熊本の、また富士の裾野の癩病院をおとづれたとき、そこで見た人間の肉体の、生きながらくさりはじめてゐる……」という描写から、主人公がハンセン病療養所を訪問したことがあることが明らかにされているからである。作品には具体的な言及はないが、「熊本の(癩病院)」とは、カトリック神父ジャン・マリー・コールが創設したハンセン病療養所待労院のことであり、「富士の裾野の癩病院」とは、カトリック司祭岩下壮一が院長を務めた神山復生病院のことである(21)。特別な関心を持たなければ、一般の社会人が敢えてハンセン病療養所を訪問することはあり得ない。「焼跡のイエス」と同様、主人公は何かのきっかけがあれば教会の信徒となるところまで来ていた人物なのである。従来の作品解釈において、この点は見落とされている。ところで、この主人公はなぜプロテスタント教会ではなくカトリック教会に行こうとするのだろうか。この主人公が教権を承認しているからである。司祭職により洗礼の秘蹟を受け、結婚の秘蹟を受けることの意味を彼は理解している。また、カトリック教会が説くように、パンと葡萄酒がキリストの体と血に霊的次元で実体変化することを認めている。プロテスタント教会は、パンと葡萄酒を、それこそ「単なる象徴」と見るのだが、この物語の主人公はそうは見ないのである。カトリック信徒には制約が多いが「すでにカトリックに帰依するときめたうへは、すこしぐらゐの不便は我慢しなくてはならない。いや、我慢の困難のといふのではなくて、窮屈が自由でしかないやうなぐあひに、不便が便利でしかないやうなぐあひに、生活をあたらしく組み上げなくてはならない。」と彼は考える。要するに、この作品ではカトリック教会との出会いが描かれているのである。地上の教会を通してキリストの命に与ることで肉体を伴った復活を遂げることを主人公は願う。聖書の信仰のみでは救われないとする認識がここには示されている。  イエスとの出会いを描いたとも読める「焼跡のイエス」と「かよひ小町」とは主題的に連続しており、前者の延長線上に後者があることが理解される。そして両者にはイエスから教会へという変化がある。前者では敗戦直後の秩序なき混沌世界に生きる主人公の彷徨える生を破るものとしてイエスとの出会いが描かれていたが、具体的な「わたし」の救済という主題は表だっては扱われていなかった。それが後者では語り手が女と二人でカトリック教会という地上の共同体に帰依するという具体的方途が描かれたのである。 プロテスタント神学者北森嘉蔵は「聖書もの」全般を、あざとい作品として否定的にしか評価していないが、「かよひ小町」についてだけは「最高傑作」「一級品」「技巧主義的戯作者というそしりから免れている」「名品」と絶賛している(22)。それは「ここに登場する神は単なる意匠ではない。石川淳自身が救われたいと思って発している悲痛な声だ」と北森が考えるからである。従来の定説からは許容できない見解といわねばならない。しかし「かよひ小町」を先入観なく虚心に読み、作中のキリスト教の表象を実際のキリスト教と結びつけて受け取る限りにおいて、作者の「悲痛な声」を作品の背後から聴きとることは充分可能であり、またそのような解釈を採ることにより作品の価値が減じることはいささかもない。この作品の「カトリック」を現実のカトリック教会と結びつけず、一つの「象徴」ととらえる論者は「もし必要とあらば、石川淳氏は作中人物をカトリックではなくコミュニスムに「帰依」させて、ぜんぜん別の『かよひ小町』を書いたかもしれないのである。」(23)と述べるが、現実にはキリスト教の表象を用いた作品しか石川は残していない以上、遺憾ながらこの言葉は意味をなさないといわねばならない。石川はこの作品において「コミュニスム」でなく「カトリック」を選択したのである。 クローデルが日本を去った後も長く日本に対する関心を失わず、アメリカ軍による原子爆弾投下と日本の降伏に際して痛切なエッセイ「さらば日本」をフィガロ紙に寄稿したように(24)、石川淳もまたカトリックに対する関心を失わずにいたと考えられる。

    五

  石川淳のキリスト教理解は通り一遍なものではない。「キリスト」と「イエス」、「牧師」と「司祭」の区別。マリア信仰への理解などは当然として、注目すべきはカトリック教会における司祭職に関する理解である。それは「かよひ小町」に端的に表れている。語り手がハンセン病の女との結婚を決意するところだが、「いかなる偽善者のワイセツきはまる司祭にしろ、主のみこころならば、そいつのうすぎたない手からありがたく洗礼を受け、そいつの愚劣退屈な説教をつつしんで聴聞しなくてはならない。」とある。ここで石川は、秘蹟の効力がそれを授ける司祭職の個々の人格の高低には一切左右されないというカトリック教会の考えを語っている(25)。司祭職の役割と人格との関係については、公教要理を学ばなければ普通は知ることがない。石川がキリスト教、なかんずくカトリック教会について、知識の上でという限定を加えても、かなり深い理解をしていたことがうかがわれよう。 戦争中「江戸に留学」をしていた石川が、敗戦直後からにわかに「聖書もの」を書くことができたのも、われわれが見てきたように、若い時期にカトリック教会と生きた人間を通した接点があったからである。そもそも石川が「聖書もの」で聖書から引いてくる話も、日本人一般が常識的に知っているものばかりではない。このように考えてくると、生前の石川が「葬式無用、墓不要、骨は海に撒け」(26)と言い、長年連れ添った夫人の目に「生涯無宗教を通し」たように映ったことは事実だとしても、彼とキリスト教との関係は、軽視することのできないものがあったと考えざるを得ない。事実、「聖書もの」時代は数年間で幕を閉じたとはいえ、『至福千年』(一九六七年)『天馬賦』(一九六九年)などから明らかなように、石川のカトリック教会への知的関心はその後も失われることがなかったのである。


〔註〕

(1)石川淳は昌平坂学問所の儒官であった祖父省齋石川介から論語の素読を受けたが、夫人の回想によれば、彼が自分の子供に熱心に教えたのは論語の素読ではなくフランス語だった。息子が小学校四年生になると、石川は毎日二時間フランス語を教えた(石川活『晴のち曇、所により大雨 回想の石川淳』筑摩書房、一九九三年、八二―八五頁)。なお、加藤弘一氏の証言によれば、活夫人は夫の死後、カトリック信徒になっている。興味深い事実である(http://www.horagai.com/www/jun/iku.htm)。加藤氏は『石川淳 コスモスの知慧』(筑摩書房、一九九四年)以来、一貫して石川における儒学(朱子学)の重要性を主張しているが、他の研究者によって議論が深められているとは言い難い。

(2)『新潮日本文学アルバム 石川淳』(新潮社、一九九五年)で評伝を執筆した鈴木貞美氏は同書十一頁で《明治四十四年四月、本郷東竹町(現文京区本郷一丁目)の私立京華中学校に入学、市電で通学した。/やはり京華中学に進んだ高橋邦太郎と一緒に「友朋堂文庫」「帝国文庫」、「国訳漢文大系」や頼山陽「日本楽府」など和漢の古典や江戸文学、また漱石「吾輩は猫である」、「倫敦塔」などに親しみ(以下略)》と記している。周知のとおり『国訳漢文大成』という叢書はあるが、『国訳漢文大系』という書物はない。渡辺喜一郎氏の『石川淳研究』(明治書院、一九八七年)二五頁に《石川は、高橋と共に影響し合いながら、読書に耽る。『即興詩人』(大正三年、春陽堂縮刷合本)『諸国物語』(大正四年、国民文庫刊行会)の鷗外訳本、「有朋堂文庫」、「帝国文庫」の古典、江戸文学、他に「国訳漢文大系」、頼山陽の『日本楽府』などが二人の共通の愛読書であった。》という記述があるので、鈴木氏は渡辺氏の記述をそのまま踏襲したものと考えられる。しかしながら『国訳漢文大系』ならぬ『国訳漢文大成』(国民文庫刊行会、文学部全二十巻、続文学部全二十四巻、経子史部全二十巻、続経子史部全二十四巻)は石川が東京外国語学校を卒業後の大正十年代に刊行された叢書であるから、中学時代の石川が読むことはあり得ないのである。

(3)フランス象徴主義と石川淳との関係について論じられているのは確かだが、マラルメ及び彼の理知的な側面を引き継いだヴァレリーとの関係については盛んに論じられている一方、マラルメの神秘主義的思考を引き継いだクローデルとの関係については、不思議なことに無視といってよいほど論じられてきていない。検証が必要である。

(4)大出敦「「クロオデルには桂を捧げよ」大正期のポール・クローデル」(『三田文學』第八四巻第八三号、二〇〇五年十一月)及び同氏「報道に見るクローデル」(『日本におけるポール・クローデル クローデルの滞日年譜』クレス出版、二〇一〇年所収。以下『日本におけるポール・クローデル』と略記)参照。

(5)ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の一九二〇年代 ポール・クローデル外交書簡一九二一―二七』奈良道子訳、草思社、一九九九年、四四六頁から再引用。以下『孤独な帝国』と略記。

(6)クローデルの中にいかに多くのマラルメが流れ込んでいるかについては、大久保喬樹『見出された「日本」 ロチからレヴィ=ストロースまで』平凡社、二〇〇一年、六五―一一二頁を参照されたい。

(7)この歓迎会の詳細については前掲『日本におけるポール・クローデル』三八頁の脚註を参照のこと。

(8)前掲渡辺喜一郎『石川淳研究』三二―三三頁。渡辺氏によれば前掲『新潮日本文学アルバム 石川淳』十九頁に掲載されている写真はこの時のもの。中央で腰掛けるクローデルの後方に若き石川淳が写っている。石川には「シャルル・ルイ・フィリップの一語」(『日本詩人』一九二一年十二月号がある。

(9)『石川淳全集』第十二巻二二―二九頁(以下、全集十二、二九頁というように略記)

(10)《万物共―生(コネサンス)》とは、中條忍氏の的確な説明によれば「万物にはそれぞれ過剰な部分と不足する部分があり、それが万物の個性となっているが、万物はそうした過不足をたがいに補い合い、共に生まれ、共に存在し、見事な調和を生み出している、というクローデル独自の理論」である(前掲『日本におけるポール・クローデル』四二七頁)。なお、「詩法」は筑摩世界文学大系『クローデル/ヴァレリー』(筑摩書房、一九七六年)に齋藤磯雄の全訳があるが、渡辺守章『ポール・クローデル 劇的想像力の世界』(中央公論社、一九七五年)四八〇頁、及び前掲大久保喬樹『見出された「日本」 ロチからレヴィ=ストロースまで』八一頁に引かれた第一部『時間の認識』の部分訳を比較するだけでも、齋藤訳には意味のとりにくい箇所があることがうかがわれる。

(11)全集十二、五八―六三頁。

(12)石川淳は、福岡高等学校講師時代「学校へ行く以外にわたしが家の外に出たのは主として丸善へ行くことと天神町の教会にフランス人の神父を訪れることであつた」と記している(「福岡の思出」全集十二、五九一頁)。また「わたしは信者ではなかつたが、ジョリイ神父の年少の友人として、教会にはよく出入してゐた。」とも述べ、ラゲ神父については「決してクリスチャンではないわたしがうつかりフランスの小説のはなしなどをすると、師は空耳をつかつて聞かざるがごとく、数珠を爪ぐりながら天の一方を仰いでゐた。その代り天草の古い殉教者のことに談が及ぶと、師は瞼にいつぱい涙をたたへて、「トレ、フィデエル、トレ、フィデエル」(信仰深き、はなはだ信仰ふかき)と繰りかへしてためいきをついた。」と書いている。石川はラゲ神父が離日する際には教会で会食をしている(「ラゲエ神父」全集十二、三七五―三七六頁)。

(13)前掲『日本におけるポール・クローデル』二八七頁。クローデルは福岡高等学校を訪問した後に九州帝国大学を訪れている。二人の日本人フランス語教師と会い、彼らがかなりよく話せると記しているが、石川と面会の機会があったかどうかは未詳である(前掲『孤独な帝国』三一八―三一九頁)。

(14)前掲渡辺喜一郎『石川淳伝』六頁。

(15)野口武彦氏は『石川淳論』(筑摩書房、一九六九年)四八頁で福岡高校在任中の石川が「新フランス評論」を「東京の丸善から取り寄せて」と記しているが、これは一九一三年に開店した丸善福岡支店の誤りである。瑣末な点ではあるが伝記学的考証上正確を期すために記す。

(16)全集十三、一六九頁。

(17)前掲『孤独な帝国』三九九―四〇七頁。

(18)全集十三、一六五頁。

(19)「聖書もの」とは、「黄金伝説」(一九四六年三月『中央公論』)「焼跡のイエス」(同年十月『新潮』)「燃える棘」(同年十二月『別冊文藝春秋』)「雅歌」(同年同月『新生』)「かよひ小町」(一九四七年一月『中央公論』)「雪のイヴ」(同年六月『別冊文藝春秋』))「処女懐胎」(同年九月―十二月『人間』)「最後の晩餐」(一九四八年九月『文藝春秋』)の八作である。

(20)前掲野口武彦『石川淳論』、立石伯『石川淳論』(オリジン出版センター、一九九〇年、一二九―一五〇頁)、井澤義雄『石川淳の小説』(岩波書店、一九九二年、一一四―一四七頁)などを参照されたい。

(21)参考ながら、クローデルは、福岡高等学校を訪問した二日後に待労院を訪れている(前掲『日本におけるポール・クローデル』二八八頁)。興味深いのは、ハンセン病療養所訪問について、「日記には〈体の変形〉を目にしたときの大使の衝撃が記されているが、外交書簡にはイギリス・プロテスタント系の〈ハンセン病療養施設〉との規模の比較が書かれており、詩作品では信仰の問題が扱われている」という事実である(前掲『孤独な帝国』十一頁)。クローデルは単なる外交官でもなければ、単なる詩人・劇作家、カトリック信徒でもなかったのである。

(22)北森嘉蔵『愁いなき神』講談社学術文庫、一九九一年、二六七―二八五頁。

(23)前掲野口武彦『石川淳論』二五七頁。野口氏は別の文章でも「カトリックへの回心が一編(「かよひ小町」のこと、引用者註)の主題なのではない。」(『昭和文学全集』第十五巻、講談社、一九八七年、一〇二六頁)としている。

(24)クローデルは一九四五年八月七日の日記に米英の学者が原子爆弾を日本で実験してしまったと記し、同月十五日には「日本降伏」とだけ記した。そして同月二十五日に「さらば日本」を「フィガロ」に送った(ポール・クローデル『天皇国見聞記』樋口裕一訳、新人物往来社、一九八九年、一七九頁)。

(25)カトリック司祭岩下壮一は『信仰の遺産』(岩波書店、一九四一年、二二二頁)で「施行者の道徳的高下は、秘蹟の効果とは無関係である。此問題は前述せる如く紀元三世紀に異端者の授けた洗礼や品級の効果に就て論じられ、施行者の異端は秘蹟の効果には無関係であるとの正統説が全教会によつて承認された。(中略)万一秘蹟の効果が施行者の道徳性に依存するならば、これを受くる者は、絶えず施行者の品性を吟味せねばならず、聖者と見ゆる者が内心悪魔であつたり、罪人が実は義人であつたりする世の中では、秘蹟の信用は全く地に堕ちざるを得ないであらう。」と記している。つまりカトリック教会は教理神学上「人効論」ではなく「事効論」を主張するのである。これは第二ヴァチカン公会議以後も同様である。

(26)前掲石川活『晴のち曇、所により大雨 回想の石川淳』三五頁。


*初出:「キリスト教文学研究」29号、2012年(原題「石川淳とキリスト教に関する管見」)