映画『じゃじゃ馬ならし』を観ました。断食を経験して五感や六感が変わってきた♪
イタリアの旅♪はやいもので、イタリアから日本に戻って、もうすぐ3週間になります。断食を経験できて、とてもラッキーでしたが、ナチュラルプラクティスを実践していると、みなさん会うごとに、成長していて、とても魅力的になっています。(注、ナチュラルプラクティスとは、システムオブナチュラルヘルスのセミナーのひとつで、身体にエネルギーを与えるあらゆるプラクティス(実践法)の事です。)今日は、キネクラブジャパンで、映画と夕食の会がありました。今夜の映画は、「じゃじゃ馬ならし」システムオブナチュラルヘルスの第二部の教材にもなるということで、希望者でこの映画を観る事になりました。
じゃじゃ馬ならし [DVD]
(2010/10/27)
エリザベス・テイラー、リチャード・バートン 他
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キャタリーナとペトルーチオの出会いは、とても一方的だった。従順で、おとなしい美人の妹は、多くの男性の憧れのもとなのに、誰も求婚することができなかった。なぜなら、姉がまだ結婚していなかったため、妹が結婚するわけにいかなかったのである。妹に恋をする者たちは、この姉カタリーナをなんとか、嫁に出したかった。そこへタイミングよく荒くれ者のペトルーチオがやって来た。父親も、手を焼いていたカタリーナが嫁に行くなら、いくらでも持参金をだす事を知ったペトルーチオは、即決で、結婚することを決めてしまう。なにはともあれ、町中の人にとって厄介者の娘がいなくなることで、平穏の日々がおくれて安堵できると思ってか、町中がこの結婚を祝ってくれることになった。出会いは、お互いにまったく興味を持たなかった二人が、次第に引かれ合っていくくだりの描写が、シェイクスピアの喜劇としての見所でしょう。お互いのかみ合っていなさそうにみえる会話の、行間には、引かれ合う気持ちの磁力を感じます。
以下の文章は、シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」を、小田島雄志氏の訳で読みました。というブログを書いている、奈津さんのブログから転載させていただいています。まずキャタリーナですが、最初の彼女の乱暴ぶりは同性から見ても常軌を逸しており、対照的におとなしい妹ビアンカの求婚者に悪態をつくわ、ビアンカを殴るわ、単なる男嫌いというレベルではありません。しとやかなビアンカばかりが父に可愛がられることへの不満で、始終誰かに八つ当たりしているという状態です。 そこへペトルーチオがやってきます。ペトルーチオの目的はキャタリーナと結婚すれば手に入る持参金ですが、キャタリーナのじゃじゃ馬ぶりを聞いた彼は思わずこう口にします。うむ、なかなか生きのいい娘さんらしい!聞いただけで今までの十倍も好きになった。ああ、一刻も早く会って話をしたいものだ!(原文)Now, by the world, it is a lusty wench;I love her ten times more than e'er I did:O, how I long to have some chat with her! この台詞はわざとではなく自然に出たものという感じが私はするのですが、ペトルーチオはもともと気の強い女性が好みで、「金目当て」と公言しつつも、無意識のうちにキャタリーナに興味を持っていたんじゃないかと思うのです。実際、彼は淑女のビアンカには全く興味を示していません。 そしてキャタリーナに会ったペトルーチオは勝手に彼女を「ケート」と呼び、一方的に結婚を決めてしまいます。ペトルーチオ 待てよ、ケート、逃げなくたっていいだろう。キャタリーナ いいかげんにしないと怒るわよ、さあ、放して。ペトルーチオ 放すものか。きみはなんてやさしい人だろう。 暴れん坊の高慢ちきのむっつり屋と聞いていたが、 噂ほどあてにならないものはない、本物のきみは、 明るくって楽しくってこの上なく愛想がいい、 おとなしくってかわいくって春咲く花のようだ、 その顔ではしかめ面などできやしない、その目では にらもうったってむりな話だ、その唇では腹を立てた 小娘みたいに噛めるものか。(原文)PETRUCHIO Nay, hear you, Kate: in sooth you scape not so. KATHARINA I chafe you, if I tarry: let me go. PETRUCHIO No, not a whit: I find you passing gentle. 'Twas told me you were rough and coy and sullen, And now I find report a very liar; For thou are pleasant, gamesome, passing courteous, But slow in speech, yet sweet as spring-time flowers:Thou canst not frown, thou canst not look askance, Nor bite the lip, as angry wenches will, この場面のペトルーチオの立て板に水のような褒め言葉は実際のキャタリーナとは正反対のことをわざと言っているのですが、これが彼女には衝撃だったはずです。それまで、周り中から「お前は妹と正反対の乱暴者、嫁のもらい手などない」と言われ続け、自らもふてくされてヤケになっていたのですから。 そして極め付けが、結婚式直後のペトルーチオのこの台詞です。だがこのかわいいケートだけはおれが連れて行く。いや、おどそうが、地団太踏もうが、にらもうが、やきもきしようがむだだぞ。おれのものは断じておれのものだ。そしてこの女はおれの所有物だ。おれの家財道具だ、おれの家具調度だ、おれの家邸(いえやしき)だ、おれの畑だ、納屋だ、馬だ、牛だ、ロバだ、おれのなんでもかんでもだ。この女に手を出せるものなら出してみろ、このパデュアでおれにたてつこうとする思いあがったやつには、いつでも相手になってやる。(略)かわいいケート、おまえに指一本ふれさせるものか、たとえ百万人こようとおれが身をもって守ってやるぞ。(原文)But for my bonny Kate, she must with me. Nay, look not big, nor stamp, nor stare, nor fret; I will be master of what is mine own: She is my goods, my chattels; she is my house, My household stuff, my field, my barn, My horse, my ox, my ass, my any thing; And here she stands, touch her whoever dare; I'll bring mine action on the proudest he That stops my way in Padua....... Fear not, sweet wench, they shall not touchthee, Kate: I'll buckler thee against a million. 「この女はおれの所有物だ」(She is my goods) という台詞だけ読むと、女を物扱いするなんて最低だこの男、と思いそうになるのですが、その後を読んでいくと、「おれの○○だ、△△だ」と並べたて、しまいには「おれのなんでもかんでもだ」、すなわち「ケートはおれにとってすべてだ」と言っているのです。一見男尊女卑の所有物宣言が、いつの間にか熱い告白になっているんですね。ここまで言われて感動しない女性はいないでしょうし、単なる財産目当てでここまでの台詞が出てくるとは思えません。キャタリーナは自分を初めて結婚相手として見てくれたペトルーチオに魅かれ、ペトルーチオも金目当てのはずが無意識のうちにキャタリーナに惚れこんでしまっているのです。
どうですか。女性は、男性から見た目だけではなく、内面も理解してもらっていると感じたら、嬉しいですよね!劇中では、内面と外見についての会話がそこかしこにあります。外見をいくら飾り立てても、本質をごまかすことはできません。素晴らしい衣服は、内面から輝くスピリットです。質素な装いで、財産をもっているほうが、豪奢な装いで、豊かにくらしているように見せるよりよいと、ペトルーチオは、キャタリーナに言っています。最後の場面が、クライマックスで、夫と妻の関係について、カタリーナが「妻が夫を侮辱することは、王権や国を否定することになり、妻として、家来が王に仕えるように、敬意を持って夫に仕えるべきです」といって、他の妻たちにその模範をみせるところが圧巻です。システムオブナチュラルヘルスの「女性学」でも、女性とは何か?という講義のなかで、女性は、柔らかく、男性を光りに例えると、女性は影や闇であり、とてもフレキシブルな存在です。男性のように、力を誇示したり、組織化する、戦うことには、向いていません。この物質社会は、とても男性向きな社会でした。でも、形は固持しようとすればするほど、多くのエネルギーを消費してきました。今、そういったエネルギーの破壊現象が起きています。これからやってくるアクエリアス(水瓶座)の時代は、女性的感覚で生きていく時代になるでしょう。リフレクソロジールームママキッチン