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Kazu Bike Journey

埼玉県 (13/04/23) 蓮田市 (10) 平野地域 根金

2023.04.14 05:30

元荒川 (白岡市)

平野地域 根金 (ねがね)

上の地図は4月13日の走行ログがiPhoneアプリの不具合で消えてしまったので4月14日の走行ログを使っている。



今日から蓮田市の北部の平野地区を訪れる。平野地区については後述するが、宿から元荒川の東岸沿いの道を通り根金地区の北まで向かい、そこから根金地区を北から南へと巡って行く。



元荒川

元荒川の東岸は南新宿までは蓮田市なのだが、八幡橋の手前から白岡市になる。元荒川東岸沿いは戸建て住宅街となっており、川沿いの道は桜並木となっており、落ち着いた雰囲気だ。この川沿いにある史跡を、白岡市内のものだが、掲載しておく。


八幡の渡し、八幡橋

元荒川にかかる八幡橋は蓮田市貝塚村と白岡市の境になる。この八幡橋の場所は大正時代までは、橋は架かっておらず「八幡の渡し」が置かれていた八幡の渡しは、「かわばたの家」と呼ばれた早川家が運営していた。1883年 (明治16年) 頃に隠居仕事として渡船業を始めたと伝えられている。1910年 (明治43年) に白岡駅が開業し、白岡駅周辺の商家を中心に近隣の有 志の援助を受けて、1923年 (大正12年) に八幡橋 (写真右下) が架橋されて八幡の渡しは廃止された。現在の橋は1994年 (平成6年) に架け換えられたもので、橋長72mとかなり長い橋になる。


白岡さくらロード、茅の渡し

この川沿いの道は白岡さくらロードと呼ばれている。桜並木の道だが、残念ながら桜の時期は過ぎてしまった。白岡さくらロードを北に走ると、元荒川と星川が合流する手前にも渡し場跡があった。この渡し場は「茅野の渡し」と呼ばれていた。八幡の渡しと同じく、1923年 (大正12年) に八幡橋が架橋されて以降、次第に利用者は無くなり廃止されている。



平野地区

平野地区は明治22年に成立した平野村の地域になる。平野村は明治22年4月に、高虫、上平野、駒崎、井沼、根金の五村を合併して誕生している。合併に際して、高虫村外四村とやや地形を異にして交通的にも不便であった中柴山村と荒井新田村を除く五村の合併案で進められた。新村名は選定については、五村の中で旧上平野村が比較的大村であったことから、その旧村名をそのまま踏襲することとし、上の頭字を省略して単に「平野村」と命名されている。

現在の平野地域は蓮田市域の北西部に位置し、元荒川と綾瀬川沿いの農地とその間の集落地からなる地域で、農地、元荒川、綾瀬川、見沼代用水など、豊かな田園環境が残っている。地域のほとんどが農地と集落地なのだが、その中に国道122 号沿道及び高虫西部地区等を工業・流通業務系ゾーンとしている。

平野地区は蓮田市の約28%の面積を占めているが、人口は9%となっている。農村地区の性格が出ている。先に訪れた閏戸地区と同様にこの平野地区も人口は減少傾向にある。高齢化率も増加傾向だ。閏戸と異なっている点は閏戸では子供の人口割合は横ばい状態だが、平野地区が減少傾向になっている。将来に人口減少が加速される事が予想される。この地域も集合住宅が少なく、長男以外の子供が独立した際の住居に問題がある。住民の不満は道路、バス、鉄道などの交通手段が高くなっている。



平野地区の最初の訪問地は根金地区


根金 (ねがね)

中世には根金は岩槻領属し、本村の閏戸村の中の一村だった。1696年 (元禄11年) に上閏戸村から分村独立して根金村となり、1772年 (安永2年) には開拓された根金新田村の二村が誕生している。1874年 (明治7年) に根金新田村は事務経費などの節約を図るため、本村の根金村への合併を申請し、新しい根金村となった。旧根金村を本田、旧根金新田村を新田と呼ぶ様になった。明治22年に上平野村、駒崎村、井沼村、高虫村と合併し、平野村の一部となる。昭和29年に平野村、黒浜村、蓮田町が合併し、新しい蓮田町となり、根金は蓮田町の大字根金となっている。

根金 (ねがね) の名の由来については不明なのだが、蓮田市地名誌 (1992 中里忠博) では、根岸と呼ばれるところは、山あるいは川に面した土地でもあった事から、根岸の転化としている。柳田国男は根岸を根小屋とおなじく、軍政的な集落とみている。人口の自然増加のため沼地を開墾して新田としたため、二つ小名が各自に館を構えて兵傭を事とする際、家来と農夫を手近くその下においたと考えられる。これらの地名は応仁の乱後室町時代中期とされている。 この地は井沼城から清水沼 (城の水堀を兼ねていたと思われる) を隔てた地であり、家としての農夫に開墾を奨励して切り開いた土地と考えられている。

また、別の説もある。古老の話によると土の中から大きな砂金の塊が出土したとか、根金新田村の鎮守の稲荷神社はカナクサ山の上に祀られているという話も伝わっている事から、今より1200年の昔この根金地区ではで砂鉄を採るための「カンナガシ」が行われ、根金村の大地に堆積していた土砂を掘り出しては砂鉄と土や砂とに分けて砂鉄を採集していたと考えられる。土の中 (根) から砂鉄 (金) を採集していたことから「根金」の地名が起ったと の説もあるそうだ。


根金の人口状況は以下の通り


資料に記載されている根金の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 法性院跡、旧薬師堂
  • 神社: 根金神社、根金稲荷神社
  • 庚申塔: 3基  馬頭観音: 2基

庚申塔 (22番) は撤去されたようで見つからず



根金 訪問ログ


八幡の渡し跡に架けられた八幡橋から元荒川にはここの新根金橋までは橋が無い。かなり距離がある。自動車が無いと蓮田市と白岡市間の移動は大変そうだ。


法性院跡

県道87号線 (上尾久喜線) を南に進んだ所に墓地がある。この辺りは根金の北部で皿田と呼ばれ地区になる。ここにはかつては法性院という寺があった。この後訪れる根金稲荷神社の別当寺だった。法性院の開山は真智と伝わり、1700年 (元禄13年) の寂であることから、その頃に創建されたものと推測される。法性院は武蔵国足立郡別所村 (現埼玉県北足立郡伊奈町) の法光寺を本寺とする真言宗の寺院だった。明治時代の神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺になっている。今は墓地だけが残っている。墓地に入った所には定番の六地蔵が祀られている。この六地蔵は造立時期は不明だが救済祈願、子育て祈願で建てられたもの。向って左から数珠を持つ地持地蔵、天蓋を持つ陀羅尼地蔵、合掌する宝生地蔵、香炉を持つ法性地蔵、幡を持つ法印地蔵、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ鶏亀地蔵の立像が丸彫りされている。

墓地内には墓の他、村内にあった石仏が集められている。

  • 地蔵菩薩 (右) - 1725年 (享保10年) に少年の供養のために造立された舟形石塔に、拱手の地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (中) - 1721年 (享保6年) に少女の供養のため造立された舟形石塔に、合掌する地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (左) - 1692年 (元禄5年) に男性の供養のために造立された舟形石塔に、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 阿弥陀如来 (右から2番目) - 1716年 (享保元年) に禅定尼(仏門に入った在家の女性)の供養のために造立された舟形石塔に、右手が施無畏印、左手が与願印を結ぶ阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。
  • 聖観音 (左から2番目) - 1680年 (延宝8年) に禅定門 (仏門に入った在家の男性) の霊位として造立された舟形石塔に未敷の蓮華を持つ聖観世音菩薩立像が浮き彫りされている。建てられたものです。
  • 聖観音 (左端) - 1674年 (延宝2年) 禅定尼 (仏門に入った在家の女性) の霊位として造立された舟形石塔に合掌する聖観世音菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 如意輪観音 (右端) - 1701年 (元禄14年) に女性の霊位として造立された塔に輪王座を組む如意輪観世音菩薩坐像と蓮華座が浮き彫りされている。

力石

民家の横に無造作に力石が二つ置かれている。近所の人と話すといつ頃からあったのかはわからないのだが、自動車が停める事ができなく邪魔だと言っていた。力石の一つには

「奉納 力石 廿九〆目 (約107kg)」の文字が刻まれている。


旧薬師堂

県道87号線 (上尾久喜線) を更に東南に進むとここにも墓地がある。ここはかつては薬師堂が建っていた場所になる。

墓地入り口を入った所塀の前に幾つもの石仏が並べられている。

  • 地蔵菩薩 (右下) - 1766年 (明和3年) に根金新田村、駒崎村、貝塚村、平野村、上閏戸村、高虫村、中閏戸村、内宿村、下閏戸村、羽貫村、井沼村、神木村、根金村中により建立され、石塔には左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩立像と蓮華座が丸彫りされ、台石には「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」と法華経の偈句が刻まれている。
  • 六地蔵 (右上) - 集められた石仏の中に六地蔵があるのだが一体欠いており、頭部が欠損したものも三体ある。左から香炉を持つ法性地蔵、幡を持つ法印地蔵、天蓋を持つ陀羅尼地蔵、合掌する宝生地蔵、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ鶏亀地蔵の立像が丸彫りされている。
  • 仏頭 (左下) - 六地蔵の前に石仏の頭部だけが残っている。六地蔵の頭部ではなく、螺髪なので釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来等のどれかと思われる。
  • 阿弥陀如来 (下中) - 1675年 (延宝3年) に大法師盛忠の菩提を弔うために建立されたもので、舟形石塔に、金剛界大日如来を表す梵字「バン」が刻まれ、阿弥陀如来立像と蓮華が浮き彫りされている。
  • 聖観世音菩薩 (中) - 1815年 (文化12年) に禅定尼 (仏門に入った在家の女性) の霊位として建てられたもので、舟形石塔に未敷の蓮華を持つ聖観世音菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 如意輪観音 (左) - 1733年 (享保18年) に禅女の霊位として造立されたもので、石塔には輪王座を組み、右手は思惟、左手に未敷の蓮華を持つ如意輪観世音菩薩坐像と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (右) - 1717年 (享保2年) に権大僧都法印春永の供養に造立されたもので舟形の石材に、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている。


根金神社

先程訪れた薬師堂やこの根金神社周辺が根金村が始まった所になる。現在の地図では西浦と記載されている。この根金神社の創建時期は不明だが、昔は根金村の鎮守としての久伊豆神社だったと考えられている。どのような経緯かは書かれてはいないのだが、江戸期のいつ頃からかから十羅刹社 (じゅうらせつしゃ) と呼ばれるようになり、根金村の鎮守としては信仰されていた。明治7年に根金村と根金新田村が合併し新しい根金村ができた際に、旧根金村の村社の根金神社と旧根金新田村の村社だった稲荷神社のどちらかを新しい根金村の鎮守とするかを協議し、神仏分離・廃仏毀釈の直後で、仏教色の強い社名の十羅刹社を村社とすることをはばかり、新田の稲荷社を村社とすることになり、十羅刹社は稲荷社に合祀された。現在の根金神社は、昭和27年に、玉敷神社より大己貴命 (おおなむちのみこと) を分霊して設立したものだが、氏子の意識の上では、先祖より祀り伝えた十羅刹社の存在が大きい。その影響なのか、祭神は大己貴命 (おおなむちのみこと) と十羅刹女 (じゅうらせつにょ) を祀っている。


根金稲荷神社

畑の向こうに根金の鎮守の森が見える。根金村の守り神を祀る根金稲荷神社だが、昔はこの地域、新しく開拓した根金新田村の鎮守だった。根金新田村の集落はこの神社の西側にあり (現在の地図では東浦戸記載されている)、この辺りは村民の農地が広がっていた。創建年代は不明だが、ただ根金新田村が成立したのが1698年(元禄11年)であること、別当寺の「法性院」の開山の真智が1700年 (元禄13年) の寂であることから、この神社も、その頃に創建されたものと推測される。この神社は、元々は開拓者の九十郎が創建した屋敷神で、九十郎の子孫である内村家が管理していたが、後に村人の信仰を集め、村の鎮守になったという。1876年 (明治9年) に近代社格制度に基づく「村社」に列せられている。境内には根金1区2区の自治会館が置かれている。根金は4つの区に分かれている。1区と2区が旧根金新田村の範囲だったのだろうか?

境内、社殿斜め前には境内末社の天満神社 (写真上) が置かれ、菅原道真を祀っている。もう一つ祠があるのだが、ここでは何の神を祀っているのかは分からなかった。また、境内には稲荷大明神と刻まれた石塔も三基置かれている。これも詳細は不明だった。


芥川龍之介の撰文碑 (勤儉奉公)

根金稲荷神社の参道への入り口鳥居の横に芥川龍之介による自撰自筆の碑文が大正6年、芥川龍之介が25歳の時に建てられている。龍之介と親交のあった蓮田市出身の関口平太郎 (当時33歳) の善行をたたえている。平太郎は根金地区の農家に生まれたが、幼いころに病気を患い、足が不自由になったため、按摩師になった。子どものころから、困っている人を見過ごせない心の優しい人物だった。自身の困難にもかかわらず、明治38年に東北地方が大飢饉に襲われた時、子どもたちに学用品を、平野村や岩槻町の子供達に就学奨励金を贈ったりしていた。その行為に対して、村の人たちは平太郎の郷里の根金神社の境内に関口氏の顕彰碑を建て、後の人々に功績を伝えることにし、芥川龍之介氏に依頼して実現したもの。平太郎は東京都新宿区で按摩業を営んでおり、一時期、近所に住んでいた龍之介が平太郎の治療を受けたことによって、二人は知り合い、以来、二人の親交は龍之介が35歳で亡くなるまで長い間続いた。全国で数少ない龍之介の碑文の中で、これは最も古いものとされ、さらに自撰自筆の碑はこの稲荷神社の石碑だけという。

碑文は以下の通り

皆さんこの華表を奉献した人は明治三十年から三十八年まで岩槻町で 按摩をしてゐた人であります。この人が生まれつき情深い人だと云ふ事は三十八年東北地方に大飢饉があった時に率先して筆墨紙教科書などの義捐品を集めて凶歉地へ送ったと云ふのでもわかりませう。これは東北地方の小學校の生徒が飢饉の為學用品に差支へるのを救うと思ってしたのです。それからこの人は三十九年に東京へ出 て色々の辛い目苦しい目に會ひながら一心に按摩の家業を勵んでとうとう大正五年には平墅村の就學奨励資金に百圓を岩槻町の同資金に五十圓を寄附するやうな身分になりました。その外色々な救恤事業に盡悴した事は云ふまでもありません正直の頭に神宿るとはかう云ふ人の事でありませう。この感心な人と云ふのは明治十七年四月十日 埼玉縣南埼玉郡平野村字根金に生まれた廣庵関口平太郎君の事であります。
大正六年九月一日 文學士芥川龍之介撰并書
蓮田


庚申塔 (22番) (不明)

資料に記載されていた庚申塔 (22番) を地図にしたがって探すも見つからなかった。近所の人に尋ねると、はっきりとはしないのだが、宗教関係で撤去された様な事を言っていた。下の写真は資料から借用。


馬頭観音 (10番)

1817年 (文化14年) に馬の供養塔として山角柱形の馬頭観音が民家の庭に置かれ、石塔には「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれている。道しるべにもなっており、右側面に「此方 はら以ち 此方 い王つき」、左側面に「此方 こうのす をけが王」、台石に「きさ (い) くき さつ (て) すぎ (と)」と記されている。


百箇所巡礼塔 (7番)

墓地の中に1774年 (安永年) に造立された櫛角柱形石塔が置かれ、石塔には八臂の千手観世音菩薩坐像が浮き彫りされている。湯殿山、月山、羽黒山の出羽三山を祀っている。また、「西国、秩父、坂東百箇所順礼供養塔」の文字が刻まれており、廻国巡礼塔も兼ねている。この地域の住民の先祖が氏神として祀ったと伝わっている。盆と正月に、供え物を供え拝んでいるそうだ。


庚申塔 (20番)

江戸時代 1821年 (文政4年) 造立の角柱形石塔の上部に瑞雲を伴う日輪、月輪が浮き彫りされ、その下に「庚申塔」の文字が刻まれ、台石には三猿も浮き彫りされている。道しるべを兼ねており、左側面に「くき せうぶ さって道」の文字が刻まれている。


馬頭観音 (11番)

庚申塔 (20番) のすぐ側の道端に小さな祠があり、その中には1734年 (享保19年) に造られた馬頭観音で駒角柱石塔に馬口印を結ぶ「馬頭観世音菩薩」坐像が浮き彫りされている。


庚申塔 (21番)

畑の畦道に祠が建てられて、その中に江戸時代 1841年 (天保12年) 造立の駒角柱形庚申塔が納められている。石塔には瑞雲を伴う日輪、月輪が線刻され、その下に「庚申塔」の文字が刻まれている。


旧根金地区訪問の後は、西隣の旧井沼村の史跡巡りに移る。旧井沼村の訪問記は別途。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)