佐藤造機の守成者
昭和初期の佐藤造機全景
廉氏、健市氏の年回忌にちなむ
東出雲町揖屋に本社を置く『三菱マヒンドラ農機株式会社』。その前身『佐藤造機株式会社(旧名、佐藤商会)』では、創業者の佐藤忠次郎氏と2代目の廉(きよし)氏が社長、嗣子の健市氏も副社長を勤め、親子3代で社業を支えました。
内馬地区に残る佐藤忠次郎生家跡
揖屋移転後の佐藤家本宅(佐藤忠次郎記念館)
郷土の偉人として名を馳せる忠次郎氏に比べて、廉氏や健市氏について語られる機会がだんだんと少なくなってきたように感じる昨今ですが、今年は廉氏の五十回忌、健市氏の三十三回忌に当たります。
この機会に、在りし日のご両名のお人柄などを偲ぶとともに、かつての『佐藤造機株式会社』(以下、佐藤造機)の栄枯盛衰について振り返りたいと思います。
社業の全盛〜廉氏による徳治〜
「夏草の しげきは憎し たのもしし」。
これは生前に俳句に親しんだ佐藤廉氏の句作。会社の全盛から凋落までに深く関わったその人生を踏まえると、より情趣が深まるように感じます。
廉氏は広瀬町の出身。その人格を見込まれて忠次郎氏の娘婿となり、1944(昭和19)年、忠次郎氏が享年58歳で急逝すると、その跡を継いで取締役社長に就任。終戦によって、戦時統制から民需拡大への転換が図られる中で、新たな時代の舵取りを担うことになります。
それまでの「強いリーダーの下に集う地方の技術者集団」から、前島長右衛門氏や石倉忠之助氏(健市氏の実父)といった当時の執行役らとの合議協働による「トロイカ体制」を構築。やがて8部門50課2,200人余りの従業員で構成される企業として成熟し、戦後に県内産業の多くが伸び悩む中、全国の農機具メーカーで井関農機と並ぶ最大手として、また当時山陰では唯一の上場企業として、島根が全国に誇る大企業に成長させました。
その大きな鍵となったのが、『全購連』との提携でした。
『全購連(全国購買農業共同組合連合会)』は、『農業協同組合(農協)』の購買部門の全国組織で、昭和47年に発足した『全国農業協同組合連合会(全農)』の前身となった団体です。
戦時統制で休眠状態だった全購連が昭和23年に再発足すると、昭和26年大口の取引を開始。販売と技術の両面で提携して、最盛期は全購連として扱う農機具のおよそ半分、耕耘機に至ってはおよそ70%がサトー製でした。
「会社の真価は2代目の功績次第」と言います。廉氏には、初代が生み出した財産を守りつつさらに発展させる、「守成」の才能がありました。もしかしたら、忠次郎氏が見込んだのもそういう天賦だったのかもしれません。
忠次郎氏の座右の銘を廉氏が筆者した「佐藤十訓」
そのお人柄も文字通り〝清廉潔白〟な人士で、「怨みに報いるに徳を以てす」を信条とし、中央財界での交流においても多くの信頼を得ます。この時に知遇を得た中に、当時の『三菱重工業株式会社』社長・牧田與一郎氏がいました。サトー製農機のエンジン供給元として両者は提携を深めますが、これが後に佐藤造機が苦境を迎えた際の「救いの一手」になります。
昭和46年、佐藤造機は業績の悪化からの自主再建を断念、会社更生法の適用を申請します。負債総額は190億円、戦後2番目(当時)の大型の経営破綻として国会でも取り上げられ、また一報が流れると一斉に東出雲から街の灯りが消えた、と言われるほどの衝撃をもたらしました。失意のうちに昭和50年、廉さんは死去されました。
「時代の歯車」が狂い出す
業績悪化にはいろいろな要因や背景が挙げられます。
まず、国が減反政策に転じたこと。
戦後、農業技術は向上し米の生産高は拡大しましたが、所得水準が上がり食生活が多様化したことで消費量が落ち、米の在庫が増加していきました。これを受けて政府は、昭和45年ごろから本格的な米の生産調整(減反政策)を開始。それと比例して農機具を買い控える気運が進みます。
これまで佐藤造機が貢献してきたはずの農業技術の向上が、結果として減反の遠因になったのだとしたら、皮肉という他ありません。
そして最大の強みだった全購連との提携も、この時点では「アキレス腱」となった、との指摘もあります。
一つは、全購連からの前渡金への依存が高く、メインバンクとの関係が希薄だったことで思うようなサポートが得られなかったこと。
また販売ルートを全購連に依存したことで、自社による販売戦略の主体性が損なわれていました。
社内では中長期的展望として、他社に先駆けてコンバインの開発に成功していました。しかし当時の市場では、後発だった久保田鉄工(現在のクボタ)のバインダーが爆発的に売れていました。
コンバインは、刈り取りから脱穀まで一貫作業できますが、バインダーは刈り取って束ねるだけで、言わばコンバインでできる工程の一部しかできません。それでも大型で高価なコンバインにはまだ農家も手が出しづらい状況でした。
そのため全購連はバインダー製造を強く要求。やむを得ず開発が不十分だったバインダーの製造に乗り出します。
ところが1970年、このバインダーに「結束不良」の欠陥が見つかり、修理に全社あげて対応したことで経営が一気に窮迫しました。(皮肉は重なり、このあと農機具の主力はバインダーからコンバインへと移っていきます。)
機械メーカーとしては優秀でも、特に経営面で高度経済成長後の「時代の歯車」を調整することができなくなっていました。
余談になりますが、現在国内の農機具メーカーの売上高は、1位がクボタ、2位がヤンマー、3位が井関農機。三菱マヒンドラ農機は5位となっています。
このうち、井関と三菱は創業から農機を作る専門メーカーで、昭和中期までシェアを二分していました。方やクボタとヤンマーは、元々は鋳物や動力(エンジン)の製造メーカー。つまり異業種からの新規参入でしたが、今ではそちらが優勢になっています。
現代でも、例えばカメラはそれまでの専門メーカーがシェアを落とし、新規参入組の電機メーカー・ソニーやパナソニックが優勢になっているのに似た状況かもしれません。
話を戻しますが、佐藤造機の再建に当たり、その責任母体となったのが牧田氏が率いる三菱重工でした。販売会社として『三菱機器販売会社』が設立され、佐藤造機は生産メーカーとして再出発を図ります。
そして管財人として再建計画に尽力したのが、「会社再建の神様」と謳われた実業家の早川種三氏。昵懇だった牧田氏が、強く要請したためでした。
徹底した合理化を断行した早川氏ですが、同時に社員や企業風土を守る努力を厭わず、従業員への給料の遅配は一切なかったと言います。
そして全購連が取引を見直す動きがあると聞くと、こう訴えたと言います。
「現在の佐藤造機は痩せた豚です。それを殺してもロクに肉も取れない。まず太らせる。親豚を太らせて子を産ませるのです。そのためにはエサ(注文)が必要です」。
この例え話に感心した全購連側も、全面的に再建支援に乗り出します。
創業家のあり方〜健市氏のケジメ〜
実はこの頃、早川氏は、「健市氏を社長に就任させる機会を求めている」と発言しています。
その健市氏は廉氏の養子となり、「社長の御曹司」として慈育されました。生来の人懐っこさもあって、長じてからも「健ちゃん」と親しみを込めて呼ばれていました。
佐藤造機に入社して副社長だった昭和46年に会社更生法適用が申請され、健市氏は三菱機器販売に異動します。妻・澄子さんは「無念だったと思うが、それを押し殺してこれ以上周りに迷惑が及ばないよう、佐藤家の人間としてのケジメをつけようとしていた」と振り返っておられます。
再建計画が進み、昭和54年にこれが完了すると、翌年佐藤造機と三菱機器販売会社が対等合併し、社名を『三菱農機株式会社』に変更します。
結局健市さんは、早川氏が密かに願った社長職に就くことなく三菱機器を退社、生活の拠点を東京に定めます。その後も「利用してはいけない」との思いから、自身が「佐藤造機創業家の出身」だとを吹聴することはなかったと言います。
その一方で、こんな話も漏れ伝わっています。
ある時帰省していた健市氏が『まちの駅 女寅』に立ち寄って名物の「三傑せんべい」(おそらくですが、陣幕久五郎、市川女寅、佐藤忠次郎の「東出雲の三傑」をデザインしたもの)を買って東京に帰って、封を開けると、なぜか「佐藤忠次郎」のせんべいだけが入っていませんでした。健市氏がそのことを当時の町役場に電話して伝えると、役場の担当者の方が慌てて完品のせんべいを郵送したと言います。健市氏の佐藤家への想いが伝わるエピソードです。
先の早川氏による「健市氏を社長に」との発言からも伺えるように、元々再建計画に当たっては、関係者に「佐藤造機と佐藤家を守ろう」という温情がありました。
実際、佐藤家は社業に関するほとんどの資産を返還しましたが、社業そのものと、佐藤家が揖屋平賀と東京に持っていた私宅は保全されました。
これには責任母体が三菱重工だったことも影響していると思われます。
旧財閥の「三菱グループ」には、伝統や創業家を尊重する社風がありました。生き馬の目をぬく産業競争において、先代・廉氏の「怨みに報いるに徳を以てす」とした処世や健市氏の高潔な振る舞いがもたらした因果が、牧田氏や早川氏との巡り合わせではないでしょうか。
不思議なことに、健市氏の子息である雅洋氏も、同じグループ名を冠した『三菱自動車』に就職。縁故ではなく、実際は数ある候補の中から、偶々自宅近くに販売店があったから、という理由だったそうですが、佐藤家と三菱との縁を感じずにはおれません。
今なお続く佐藤造機
また資本提携などによって協業し、平成27年から変更された社名にもその名を含むインドの財閥系企業『マヒンドラ&マヒンドラ』も、三菱同様伝統を重んじる社風だったことも僥倖でした。
よく「佐藤造機は倒産した」と言われますが、実際には社業が潰えることなく、従業員も継続雇用した上で経営再建が果たされています。後に存続会社として合併した際に佐藤造機の名は表看板から消えますが、その歴史や企業風土が途切れることなく、今でも街全体に「ものづくりの精神」が受け継がれていることは、創業家3代のご遺徳とも言えます。
佐藤家の墓所は、現在の本社工場を眼下に見守るような近くの高台にあって、今なお関係者の墓参が絶えません。
往時の佐藤家は、大檀越として宗淵寺の護持に多大な貢献をいただきました。
かつてお寺の参道前に用水路があり、その上に「極楽橋」と称した橋がかかっていました。これも佐藤廉氏より寄贈されたものでした。
その後、用水路が地下化されたのに伴って、極楽橋は撤去されましたが、廉氏、健市氏親子の年忌に当たって、そのご遺徳を偲んで再び架橋したいと、現在計画を進めております。
新しい山門が出来上がる頃には、合わせて極楽橋も再建され、皆様を境内に導き入れてくれると思います。
『極楽橋』再建予定図
(住職 記)
参考文献 『佐藤造機50年の歩み』
『地域産業発展史―島根県編―』 公益財団法人 中国地域創造研究センター 編
『新 島根の群像』 若槻福義 著
『再建の神様』 江上剛 著
『交渉力の時代』 藤田忠 著
『会社再建の神様 早川種三 管財人のもとで』 伊藤益臣 著
『日本農業機械市場の歴史的展開過程とその分析』 保木本利行 著