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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン〜ラジヴィル1世からの招待状と学者リヒテンシュタインからの招待状とは…〜フレデリックの夢は何処へゆく〜

2023.08.29 11:28

♬イメージ画像♬

ベルリン王宮(19世紀頃)の前のフレデリック青年🎶

🍀イメージ動画付き🍀


フレデリックが18歳の青年の頃のことだ。

ポーランドの田舎にあるサンニキのプルザクス家で夏の間過ごしていた。

それから、9月に入りワルシャワに戻ったフレデリックはワルシャワ劇場でオペラ鑑賞をしながらワルシャワ高等音楽院の学生生活を謳歌していた。親友ティティウスから書簡を受け取ったフレデリックは返事を書いた。

ちょうど、ベルリンへイタリアの作曲家スポンティーニのオペラを鑑賞に行こうとしていたフレデリックだった。

親友ティティウスに興奮気味に書簡を書いたフレデリック…

「私があなたとあなたのお母さんからの連絡をどれほど待ち望んでいたか、

そしてあなたの手紙を受け取ってどれほど嬉しかったか、あなたは想像が出来ないかと思います。

それから私はサンニキのプルザクス家で夏の間ずっとそこで過ごしていました。

滞在がどれほどまでに楽しかったかは

言うまでもありません。

あなたはそこに行ったことがあるので知っているからです。

私はすぐに家に帰るところだったので、あなたの手紙にすぐには返事できませんでした。そして今、私は狂ったようにこの記事を書いています。」

フレデリックはティティウスの母親からこれから旅に行くためのお金を受け取りお礼の返事を書いた。そしてティティウスの書簡には

フレデリックが望んだ招待状が同封されていた。

「なぜなら、自分に何が起こっているのか本当にわからないからです。夏の間はサンニキのプルザクス家でずっとそこで過ごしました。

今日はオペラを鑑賞するためにベルリンへ出発します。駅馬車で行きます。

自分の忍耐力を試すために。」

フレデリックに宛ててヴィルヘルム・フォン・ラジヴィル皇太子からフレデリックに招待状が届いたのだ。親友でありパトロンであるティティウスのお膳立てがあったからである。ティティウスを経由してフレデリックに招待状は同封は届けられたのだ。

ラジヴィル皇太子はチェロの名手でもある。その彼に、ピアノ三重奏曲ト短調作品8をフレデリックはこの新作をお土産に引っ提げて貴族社交会へ乗り込んで行こうと意気込んでいた。

ラジヴィル家はワルシャワ王国のスポンサーであり、貴族社交界の中心的な 役割で、ベートーベンもラジヴィル家に招かれ序曲op.115運命の祝日を献呈していた。他には

フェリックス、メンデルスゾーンはピアノ四重奏曲op.1を献呈し、ゲーテは戯曲ファウストを捧げていた。

そこへ新星のフレデリック・ショパンが現れて人気を攫ってしまおうというもくろみなのだ。

フレデリックが招待されたのはヨーロッパの学者達が集う会議の伴う晩餐会だった。

「それはすべて、ヨーロッパのあらゆる機関からの科学は猿のように集うことか

から始まりました。」

フレデリックは学者達を猿に例え罵った。

つまりそれは、フレデリックは猿の前で演奏するのは内心は嫌なのだ。芸術がわかる科学者は尊敬するが芸術のわからぬ科学者は猿だと思っていたフレデリック…

「最初にスイスの州で、次にミュンヘンで開催された会議の例に倣い、著名なフンボルト氏の議長の下で開催される自然科学会議にヨーロッパの科学者が出席する。

プロイセン国王は彼の大学に最も著名な人々を招待する権限を与えたのだ。」

フレデリックはワルシャワの学者ヤロッキ教授と共に晩餐会に出席することになっていた。

「ヤロッキ [ワルシャワの動物学教授] はベルリン アカデミーの元学生で、

彼は後に博士号を取得し、動物学者として招待されました。ベルリンには科学者のために200の部屋が予約されており、科学者たちは一緒に食事をするなど、ドイツらしい取り決めがされている。

ヴェラム(高級な羊皮紙)に印刷された招待状も含め、すべてが壮大なスケールで行われる。

もちろん、スポンティーニは《コルテス》や《オリンピア》を披露するだろう。いずれにせよ、ヤロッキの友人であり教師でもあるリヒテンシュタイン(ドイツの動物学者)は、この大会の幹事を務めているが、かつてウェーバーの親友だった。彼はシング・アカデミーのメンバーで、(エルネマンが私に思い出させてくれたように)その音楽団体の会長ゼルターと非常に仲がいい。ベルリンをよく知る人たちは私にこう言った。

リヒテンシュタインと知り合いになることで、ベルリンで最も重要な音楽家たちと知り合いになれる。

私はそこでポズナン出身のラジヴィル1世に会いたい(いったい誰がそれを疑えるだろう?

彼はスポンティーニと親友だからだ。

ヤロツキと一緒に滞在するのは2週間だけだが、

少なくとも一流のオペラを聴くには十分な期間だ。

アーノルド・メンデルスゾーンとハンケはベルリンのピアニストで、後者はフンメルの弟子である。

ワルシャワのニュースについてのあなたのリクエストにお答えしなければなりません。」

フレデリックは、ベルリンで活動するには

ラジヴィル1世に先ず気に入られなければならない、それにはヤロッキ教授の友人リヒテンシュタインと知り合いになることが近道だと

考えた。そうすればオペラ作曲家スポンティーニにも近づくことが出来て、スポンティーニの親友でもあるラジヴィル1世に紹介してもらえ一石二鳥だとフレデリックは期待に胸を膨らませた。

フレデリックが望んだ通り、リヒテンシュタインはフレデリックを快く自宅に招きベルリンの音楽家にフレデリックを紹介すると約束してくれた、そして、動物学者の会議にフレデリックを招待してくれたリヒテンシュタインだったが、フレデリックは場違いな集まりで居心地が悪かった。そして、リヒテンシュタインは多忙だったためフレデリックと会話する暇がなかった。フレデリックはベルリンの様子を見聞きし自分の音楽を試せないことを悟り他の地へ向かうことを密かに決心していた。

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アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ

について、

【2019.10.12 01:16

pianist由美子uno  ピアノコンテンツ ブログ記事に掲載

~ショパンの肖像、パトロンのラジヴィウ~】

アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ

1775年6月13日 ヴィリニュス - 1833年4月17日 ベルリン)

ラジヴィウ一世の肖像画

ヴィルヘルム・ヘンゼル[(1794年7月6日 - 1861年11月26日)ドイツの画家

ルイーゼ・ヘンゼルの兄弟、フェリックス・メンデルスゾーンの姉のファニーの夫。]

によるリトグラフ1810年頃。



マルティン・ハインリヒ・カール・

リヒテンシュタイン(1780年1月10日 - 1857年9月2日)ドイツの医師、探検家、動物学者、植物学者、生物学者、ベルリン大学教授、昆虫学者、鳥類学者、動物コレクター


父親は動物学者のアントン・アウグスト・ハインリヒ・リヒテンシュタイン(1753-1816)。

リヒテンシュタインはイエナとヘルムシュタットで医学を学び1802 年に博士号を取得した。1802 年から 1806 年には、南アフリカに旅行し、南アフリカ喜望峰総督の主治医となる。1810 年ベルリンに動物博物館を設立しました。1811年ベルリン大学で初の動物学の教授となり1820年21年、1826年27年、1840年41年に学長を務めた。1810 年『Reisen in südlichen Africa』を出版した。1813 年にヨハン・カール・ヴィルヘルム・イリガー(1775-1813) の後任としてベルリン動物博物館 (現在のベルリン自然史博物館)の館長に就任。

1841 年彼は、ベルリン動物園の設立に伴い、プロイセン王フリードリヒ ・ヴィルヘルム4世にキジの飼育を寄付するよう説得した。

彼は特に、フェルディナンド デッペ(1794-1861) が持ち帰ったコレクションに取り組んだ。

✳︎1828年フレデリック・ショパンがベルリンを訪問した際にリヒテンシュタインはショパンを快く自宅に招き入れ、ベルリンの音楽家にショパンを紹介すると約束した。ドイツの動物学者の会議にショパンも入場できるようにリヒテンシュタインは取り計らった。

ガスパレ・ルイージ・パシフィコ・

スポンティーニ

(1774年11月14日 - 1851年1月24日)

イタリアの古典派オペラ 作曲家、指揮者

国籍:イタリア


スポンティーニは5人兄弟の貧しい家庭に生まれ育った。父親はスポンティーニを兄弟たちと同じように司祭にさせようとした。しかし、彼は音楽的を示していた。1793年から1795年まで、ナポリのトゥルキーニ音楽院でジャコモ・トリット、そしてドメニコ・チマローザに師事した。

イタリアでオペラ作曲家として名を馳せた後、彼は1803年パリに渡り、1804年からオペラ・コミックの作品『ミルトンとジュリー』で最初の成功を収め、その後皇后の室内作曲家に任命された。 

1805年フランス帝国宮廷作曲家に任命された。1807年ジョゼフィーヌ皇后のために『ヴェスタの巫女』を作曲。パリ・オペラ座で初演されケルビーニやマイアベーアから傑作と称賛され、ベルリオーズやワーグナーからも崇拝された。

1809年にナポレオンに気に入られたスポンティーニは、コルテスのアステカ征服史を題材とした『フェルナン・コルテス』を作曲した。彼は、リアルな再現を試み、16頭の馬を舞台に登場させるなど舞台芸術の演出の大規模化を実現させた。

『オランピ』(1819年作曲、改訂1820年および1826年)では成功しなかったため、王政復古後のフランスを去り、プロイセンに渡りベルリンで宮廷楽長ならびにフォルクスオーパーの指揮者となった。

1820年、彼はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の招きでベルリンに移り住み、ロイヤル・オペラ・ハウスの音楽総監督および第一楽長に就任し、シング・アカデミーの会員となった。プロイセンの国歌を作曲した。1841年まで音楽監督であった。1842年5月31日、プロイセンの科学者と芸術家から選ばれるプール・ル・メリット勲章が与えられた。その後、彼は再びパリに戻り、 1850年に 生まれ故郷のイタリアのイェージに戻り1851年にその生涯を閉じた。