《浜松中納言物語》⑦ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃一
浜松中納言物語
平安時代の夢と転生の物語
原文、および、現代語訳 ⑦
巻乃一
平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。
三島由紀夫《豊饒の海》の原案。
現代語訳。
《現代語訳》
現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。
原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。
濱松中納言物語
巻之一
七、母宮と三の御子、お慕いすること留まらず、濱松の女、夢に出でくること。
人の声も響かずに、のどかなる雑談の折の、御子母宮にお話されるそのさまも、どちらが中納言の君かもわからない瓜二つの御有様、まさに比翼の鳥と、あまりにも不安におもわれて、人々のお噂になるのも覚めやらないが、母宮の物悲しい御心情なども知る身であれば、自らは何も気付かなかったように振舞って、日ごろも申し出ないままに過ごすのだけれど、御子は、おん自らは日本の人に過ぎない。
この中納言の君、この御子の日本にあらせられた前世の子であらせられる。
御対峙されれば、御君の、おん自らのただ一人のお子であらせられるがゆえにも、三の御子は、たぐいもなく切ない思いに身も焼かれ、九品の望みもこの焼かれる想いにひかされて、こう再び生まれてきてしまったものなのだろうとお想いになっておられる。
ならばこそ、中納言の御君も、三の御子のご存命の噂をお聞きになって、朝廷もひき留めれば、中納言の君の母宮も命も尽きるとばかりにおすがりになったけれども、それでもお振り捨てになられて三年の暇を申し渡されて、はるか大陸にまで渡っていらっしゃったのである。未知なる異国の国の人と、いたずらに親しく睦んでと、日本に残された人々は想われないでもないのだが、前世の心が引き合わせるがままに、常にときを同じうしたく、ただ、あはれに想われていらっしゃるのを、間違っても疎ましく想ってはいけない。
中納言の君のご滞在もひさしくはなかろうものならば、日本へお帰りになって後の名残りの寂しさを想われる御悲しみの深さは、いまでもすでに想い遣られると、御子の、涙を浮かべていらっしゃるのを母宮は、あはれにも、口惜しくも想われて、何の言葉もなく見守って差し上げるしかない。比翼連理、まさに二人で一つの人であるということは、見ればわかるというものだけれども、かくまでも縁が深いものとは。
母宮も御子も、中納言に親しんだのは、もちろんその容姿のめでたくも美しくいらっしゃるが故でもあるのだが、実に、見るたび、睦むたびに、この人のこの国より去って後、いかに《あはれ》であろうかと、ただ心は痛く苛まれるのも、ただ、かくも深き縁の人であればこそ、なのだ。
宮仕えに伺っては、それこそ誉れに違いなく、御帝を思い遣られる御心もふかくて、引き立てられ時めかせていただいてまさに喜ばしいばかりなのはそうなのだけれども、自らの故に、親さえ世の中に辱められて、いまやもの侘しくも宮中を離れ、深い山にお篭りになっておいでなのだった。
御后、我が身さえ内裏のうちに参上することもおぼつかず、昔、上陽宮(やうやうきう)に日を暮らし眺めた人のように、この所に閉じ込められて心細くも消え入りそうな御心持なさっているのだが、御后の目の前におわされて、類なくよく物事の機微を知り、おとなしく気品を持って成長される御子に、それ以外の万象のいまや痛々しいばかりではあっても、ただ、御子の美しくおわしますことだけを、すべての頼りに生きておられれば、その御二方、心にひとしくしく強く強く焦がれて思っておられるのは、同じお一人の方であるに他ならない。
ましてや実に、ただ、《あはれ》にも切実なる、前世の因縁のこともあれば、人目に見苦しくもあるでしょうから、こちらからお迎えなどしないようにしましょうと心使われて、とはいえ、御后ご本人もまた、その、御子の前世の人と睦まじたく想う心には変わりなく、御子の語られた前世のでのことなどお聞きになって後はさらに、何を憚ることなどあろう、これは宿命にほかならぬものと、そう言ってお仕舞いになりたいとさえ想われはするのだが、なんにしても、なんとも解しがたい宿命のいたずらかと忌々しくて、この院にのみ引き篭もって、中納言の御君とばかり睦んでいると人の口にのぼって仕舞えば、いずれにしてもよからぬ身の上に追い込まれることは必定なのだから、御子の御為、御君の御為にもなりはしない御后ご本人の真情をは、かたくお噤(つぐ)みになっていらっしゃる。
中納言の御君、かのような御二方の真情など気付きもやらで、在りし日の御姿をご拝見させていただくのは喜びながらも、とはいえ、なかなかに親しく打ち解けてこられようとしない、御后の醒めたたたずまいの言の葉挙動のふしぶしに、時に、日本に在りし日にすこしだけ睦んだ女に似ていなくもなく想われて、心に浮かぶ、かつて、故郷の忘れられることなどなかろうには違いないが、いつの間にか夢の心地に気は紛れて、それでも望郷の念など薄らいでいくかも知れないが、と、嘆息されるそのときに、大将殿のあの姫君、心苦しいばかりに物思いに耽られ、ただ、目に映る万象に眼差しを捨て置きになられたままになさっている傍らに、御君、近寄られて、私の心だって、この女想う心を、最早捨て去ることなど出来ないものだよと想われていれば、夢見られ、夢見て伝わる想いは女を泣かしめた。姫君の、
たれにより
涙の海に身を沈め
しをるゝ海士(あま)と
なりぬるとか知る
...誰のせいで、涙の海に沈んでしおれるしかない海女(あま)になってしまったとお想いなの?
と歌われたのを、ただただ《あはれ》に、私だってほろほろと涙をこぼしているものをとお想いになれば、涙の海に、御君御みずからもお沈みになって、身も心も浸りこみ、溺れさえして耳にその潮騒の聞こえた気さえしたが、ふと、夢醒めて、にもかかわらず、その名残は身に、ただ添って離れることなく想われて、日本と大陸と、こうも遥かに引き裂かれても、その女、それでも遥かに想い遣っておられるというならば、いかに悲しい御心であろうか、想い遣りもなく親しめて仕舞って、すぐに遥かに遠ざかってしまったのを、いかに切なく想っておられるだろうかと想い遣る涙は、いまや夢どころか現(うつつ)にもあふれて止められもせず、
ここ、日本の御津の浜松、その松の契りの枝に、今宵こそ私が恋いしくて泣くのだろう、夢に、現れたよ、
日のもとのみつの濱松
こよひこそ我を恋ふらし
夢に見えつれ
と、それでは、と、別れた朝の、もはやこのまま忍び逢い続けるわけにもいくまいと想われた、その女の想いつめた風情も、いまだ心には残っているものだと思い出されるが、大陸で、もしも生き絶えることのなかったものなら、あの濱松に帰られて、このときの女の想いをほぐしてやらねばならないだろうと、とはいえ、いかにしたものだろう?
式部卿の宮がいたものだから、よけいに愛しく想ったものだったのかなと、取りとめもなく一人想いを散らされる。
《原文》
下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。
なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。
濱松中納言物語
巻之一
人も聞かず、長閑(のどか)なる御物語の序(ついで)に、御子母后に申したまふやう、二さうの人などおどろおどろしう、人の言いなし侍るも、はかばかしからぬ身には、愚(をこ)なるやうに侍れば、日頃もえ申し出でず侍るも、自らは日本の人にてなむ侍りし。この中納言、前(さき)の世の子にて侍りき。唯一人侍りしかば、類なく悲しく思ひ侍りしにより、九品(くぼん)の望みもこの思ひにひかされて、かく生れまうで来るとなむ覚え侍る。中納言もかくなむ侍ると傳へ聞きて、おほやけも限りなく惜しみ、母も命絶ゆばかり悲しみけれど、猶ふりすてゝ、三年が暇(いとま)を申して渡りまうできたるなり。されば知らぬ国の人を、うちつけに親しく睦び、思ふ様にもこそ人も思ひ侍らめども、昔の心の覚え侍るにより、常に見まほしく、あはれに覚え侍るを、御心にも疎くな思し召しなさせ給ひそ。久しくも侍らまじかんなれば、帰りなむ後の名残の思さなむ、兼ねて思ひ侍るとて、うち泣かせ給ふに、后もあはれにあさましく思されて、などてか今まで、みづから一人には仰せられざりける。二さうの人に御座(おは)すとは、おのづから見奉れど、かくまでは思ひもよらずこそ侍りつれ。中納言にむつび給ふは、見る目のめでたく侍ればとこそ思ひつるを、實(げ)に見る度に、この人の帰り給ひなむ、いかにあはれならむと、すゞろに覚え侍りつるも、かく浅からぬ人に侍りければにこそ。宮仕へ仕りては面目ありて、さるべき人々を思ひやむ事なく、ひき立て侍らむこそ本意(ほい)あるべきに、みづからの故に、親も世にはしたなめれ、ありわびて、深き山に籠り侍にけり。我が身も百敷(もゝしき)の内にもえ侍らはず、昔しやうやうに詠(なが)めけむ人のやうに、この所に閉ぢられて心細くあるかひなき様に侍れど、御前のいとよう物おぼし知り、おとなしく御座すに、さりともと唯一所(ひとところ)を、今は萬(よろづ)に頼み奉り慰めて侍なれば、いかにもにもおぼし召さむ人をば、同じ心にこそおもひ侍らめ。まいて實にあはれに悲しき事にも侍るなれば、人め見苦しうあるまじうは、見えむかひもしぬべくなどなど申し給ひて、後はいとゞ、我もいみじう覚ゆる方様の人と思しつるだに哀れにむつましかりつるを、まいて此の御子の思し宣ふ様(さま)など聞き給ひて後は、何(なに)の人めにも恥ぢず、みずから物など宣はまほしけれども、いかなるふしもがなと、あさましう忌々(ゆゝ)しき上に、この院にかく離れ居て、日本(ひのもと)の中納言をなむ、かたらふといふ事出できなば、身のいたづらにならむはさる事にて、御子の御為、中納言のためいみじかるべければ、さも宣さず。中納言はかく思すらむとも知り給はず、ありし御さまを又見奉る事もがな、さりとも氣近く物うち宣へらむ氣色言の葉は、少し見し世の人に似給はじかしと、心に懸け奉りて、故郷の思ひ忘るゝ間なけれど、自(おのづか)ら紛るゝ心地するに、大将殿の姫君、いみじく物思へる様に詠(なが)め思しいりたる傍に寄りて、我も心に離るゝよなき悲しさをいふと思すに、うちなきて、
たれにより涙の海に身を沈めしをるゝ海士(あま)となりぬるとか知る
と宣ふを、いみじう哀れに、我もほろほろと泣くと思ふに、涙におぼほれて、うち驚きぬるなごり、身に添へる心地して、かう遥かに思ひやるよならば、おほよそにてもあらず、思ひやりなう氣近く見なして、程なく遥かになりにしを、いかにおぼすらむと思ひやる涙は、現(うつゝ)にもせきやる方なくて、
日のもとのみつの濱松こよひこそ我を恋ふらし夢に見えつれ
今はと別れし暁、忍びあへずおぼしたりし氣色も、らうたげなりしなど思ひ出づるに、もし命絶えなくては、行きかへり、この程の怨みとくばかり、いかで見え奉らむ。式部卿の宮おはしましにけむ、さらばいとほしうもあるべきかなと、ことことなく思し続けらる。