五眼で世界を観る
Facebook山地 弘純さん投稿記事
この世界の捉え方を変える5つの視点『五眼で世界を観ること』
https://ameblo.jp/anzac76/entry-12355169978.html?fbclid=IwAR2kG3NvAGT-SLO-Th8shyjqa1GRbxKhbnNHDJarWEdsV_h6dzp06SniliM 【五眼で世界を観ること】より
我々がこの世界で生きていくうえでもっておくといい五つの視点があるといいます。
つまりこの五つの視点である『五眼』を備えて世界を観ることができれば、この世界の捉え方が変わるというのです。
五眼は、次の五つです。
一、仏眼・・・法界体性智
二、法眼・・・大円鏡智
三、慧眼・・・平等性智
四、天眼・・・妙観察智
五、肉眼・・・成所作智
仏眼 法界体性智
まず一つ目の眼(仏眼)で見通すのは、「この大いなる宇宙は一つの生命体である」ということです。
これを『法界体性智』といいます。
真言宗では「大日如来」と言っていますが、「絶対神」と言っても、「ワンネス」と言っても、遠藤周作さんのように「たまねぎ」と言っても、なんでもありかなと思います。
そのパーフェクトな宇宙の計画性のもとに我々は生かされています。
我々に起こることは全体の中で起こるべくして起こっていることを想いますと、「すべてはうまくいっている。なるようになるさ。」という気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。
自分ではどうにもならないから仕方なしに選ばされているという無意識的なものではなく、意識的に「委ねる」ということを選ぶということです。
なるようになった。なんとかなった。そんな体験の繰り返しが、宇宙への信頼を強化していくことを、自分自身確信しています。
(大宇宙そのものである大日如来)
法眼 大円鏡智
二つ目の眼(法眼)で見通すものは、「この宇宙の中のすべてのものたちは宝珠であり、互いが互いを写し合う鏡になっているのですが、その大円鏡の外から世界を観るようにすると、他者を通じて本当の自分というものを知ることができる」ということです。
これを『大円鏡智』といいます。
「他者は自分を写す鏡」という言葉もメジャーになってきました。
例えば相手に対する怒りが湧いてきたときに気づくことができるのが、「〇〇すべき」「〇〇せねば」という自分の価値観です。
その価値観をはずしてみて、その下に隠れている自分の本当の気持ち、過去の自分の何を重ねていたのかを見つけ出してやると、次に味わえる感情や行動パターンが変わっていきます。
自分の中にあるものを他人は写してくれるのです。
鏡の中の世界では反射しあって自分に気付けず、相手を悪者にするだけになりかねませんので、自分と他人を鏡の外で眺める観照者の眼を養うことでしょう。
それが「鏡の法則」、いやそれを越えた「マジックミラーの法則」と言われる所以です。
自分が実は投影した過去に生きていて、今を生きれていないことにも気付いていけるはずです。
(大日如来の鏡)
慧眼 平等性智
三つ目の眼(慧眼)で見通すものは、「全ての存在は平等である」ということです。
これを『平等性智』といいます。
「我心、仏心、衆生心は三心平等である」という言葉を弘法大師も残されているように、私たちの心は神や仏とさえ同等のものなのです。
神や仏を自分は下から崇めたてまつるというのではなく、もし神仏を崇めるならば自分も同じように崇めることが大切だと思います。
自分の心はイカしてるけど、あいつの心はイケてない。あのお方は素晴らしいけれど、私はカス。などという上下格差などなく、平等性な心をもっているということです。
しかし自分は下で相手は上であるとか、自分が上で相手は下であるとかいう態度でコミュニケーションを取る人がほとんどかと思われます。
上下はありません。
見上げることも見下すこともなく、自分も神仏も他の人も同じように扱いたいものです。
「扱う」なんて言葉、神仏に失礼じゃない!と思う方は、「奉る」に変換していただいて、どうぞ自分も他の人をも奉っていただければ平等でいいのではないでしょうか。
私たちは大宇宙の仏「大日如来」とまったく同じものを兼ね備えています。
例えるならば仏はキラキラと輝く金剛石(ダイヤモンド)で、私たちは金剛石の原石であると表現されます。
等価だとわかっていただけますか?
僕は年上の方でも、有名な方でも、へりくだらずに、かといってないがしろにすることなく、敬意をもって対等に接させていただいているつもりです。
もちろん年下に対しても然りです。
(平等性を表す胎蔵界曼荼羅)
天眼 妙観察智
四つ目の眼(天眼)で見通すものは、「全ての存在はみんな違う」ということです。
これを『妙観察智』といいます。
人は平等性ですが、みんな同じ形ではありません。
見た目もそうですが、発揮する特性も、考え方も価値観も違います。
同じということにのみ目がいってしまいますと、自分が思っていることは他人も思っているに違いないという錯覚も起こしやすいのだと思います。
自分と他人の心の宇宙はそれぞれが違うということを、大切にしたいものです。
自他の心の境界線を守り、しっかりとお互いに認め合いましょう。
(区別性を表す金剛界曼荼羅)
三つ目と四つ目の眼を併せ持った時の表現が、金子みすゞさんの「みんなちがって みんないい」世界ですね。
比較、区別の眼は悪いものではありません。
そこに上下が付いてくるから関係性に歪みが生じますので、「対等であるという眼」をしっかりと並べた上で「比べる眼」を使えばいいのだと思います。
弘法大師はこの二つの曼荼羅を並立させました。
陰陽の統合です。
金剛界は男性性、胎蔵界は女性性として捉えられますので、夫婦のパートナーシップにも応用することができます。
・・
男女の性質の違いを知り、お互いを認め合うというパートナーシップに生かせることにおいても、この二つの曼荼羅が並び立つ世界の素晴らしさを感じます。
肉眼 成所作智
五つ目の眼(肉眼)で見通すものは、「全ての存在が誰一人余すことなく絶妙に繋がっていて、お互いが助け合い、支え合い、凹凸がぴったりとはまりあって世界は構成されている」ということです。
これを『成所作智』といいます。
教える人も教えられる人があってこそ役に立てます。つまり教えられている方も教える人の役にたっているのです。
介護される存在になってしまったとしても、それを介護したいと願う人のお役にたっています。
「私がいなくなったとしても世界は変わらない」と思ったことは誰でもあるのかもしれませんね。
おそらくきっといなくなったらいなくなったでそこにまた誰かがぴったりとはまり、変わらず世界は回っていくのでしょう。
でも今ここにいるということは、そこで影響される人が必ずいるということです。
「存在するだけで役にたっている」ということをしっかりと観じながら、自分のやりたいこと、好きなこと、得意なことを表現するというだけでいいのでしょうね。
自分がやりたくないことはやりたいって人にうまく頼りながら、自分にできないことはできる人にうまく任せながら、自分のやりたいことをしていくこと。
それでこそ、ぴったりとパズルのピースががはまっていくかの如く繋がっていく世界を実感できることでしょう。
五眼の妙相を具足する
一から五の順番に眼を開くのがポイントです。
大いなるいのちを源にした我々の命。
その全体意識から縮小していき個の意識へと潜り、再び拡大していくこと。
それは創造主たる仏から始まる安心感をスタートに、孤独たる自分自身の中心性を突き詰め、今度は自覚的に宇宙へと統合していくというプロセスなのかもしれませんね。
大いなるいのちとしてすべての存在が見えない根っこで一つに繋がっていて、そこから伸びた一人一人の茎があって、一つたりとも同じもののない個性あふれる蓮の花を咲かせます。
すべては上も下もなく平等な価値なのだけれども、姿形も心も同じものは一つとしてなくて、それぞれが凹凸があるからこそぴったりと相互供養の働きが作用し合い、完璧なる宇宙の循環を構成しているのです。
これが真言密教でいう『五眼の妙相を具足する』という五つの視点で観た世界です。
さらに我々真言僧は、この五つの眼をイメージした印を結ぶのです。
僕はまだまだ知識からの解釈が多いのですが、でもだいぶそこに実践体験が加わってきて、世界の見え方が変わってきていると実感してるんですよ。
みなさんも、もしよかったら採用してくださ~い。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
仏教は「この世で生きることは苦だ(一切皆苦)」と説いています。
サンキャ哲学も「楽そのものもすぐに苦にかわるので苦である」としています。
パタンジャリもヨガスートラで「全ては苦である」と書いています。
人生は思い通りにならないことが起きます。
恋愛の破綻、家庭の崩壊、離婚 倒産、破産、退職 親しい人との死別 中傷や非難、嘲罵
強制、束縛、いじめ 友達の裏切り 才能や能力の限界、人間関係の喪失 病気や怪我による体の苦しみ 肉体は必ず老いて衰え最後は死にいたります。生老病死の四つの苦は誰も避けることができません。しかし誰もがこの四つの苦と直面せず避けようとします。
マインドはあるがままが嫌いです。自己イメージに合わないことが起きるのが嫌なのです。
生老病死は痛みや恐れがあるのでマインドは避けて逃げようとします。
思考を使って感情を感じる通路を封鎖して直面しないようにします。
なるべく楽に通り抜けようとして、それに向き合おうとはしません。
生老病死を否定的に捉えると苦しみが増します。苦悩を避けることはできません。
そして苦悩には終わりがありません。生きている限り苦しみは繰り返し訪れます。
すでに起きてしまった事は受け入れるしかないのです。しかし、人生には到底受け入れがたいことが起きます。その時に自我の死と再生が起きます。
世の中には病気や人生の失敗などの困難を経験して、深みのある魅力的な人物になった人が大勢います。
苦悩は人の苦しみを感じ取れる共感能力を育てます。
自己中で思いやりに欠けていた人が相手の立場で物事を考えられるようになった人も大勢います。
自分の不完全さを認めて、受け入れると相手の不完全さも認めることができるようになります。
苦悩は心を豊かにさせ、人を成長に導くことができます。
生老病死は偽りの自我に気づかせてくれるチャンスでもあります。
自我の枠組みにゆらぎがおきると過去に否定したエネルギーと再び出会います。
死のイメージは過去に植え付けられた記憶からもたらされた実体のない恐れです。
すべては過ぎ去るのであらゆる事象に実体がありません。
その衝動に気づいて、あるがままに受け入れることが出来れば、統合された自我の再生が起きます。
生老病死を新しい自分に再生させるイニシエーション(通過儀礼)と理解して、それとしっかり向き合い自覚して直面すれば、意識の変容が起きます。
この世界には宇宙全体を貫く命の流れともいうべき潮流が在って、
その生命潮流にたいする信頼を持つ事が出来れば、
より幅のひろい自己の全体性を取り戻す事ができるでしょう。