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Kazu Bike Journey

埼玉県 (14/04/23) 蓮田市 (13) 平野地域 上平野

2023.04.15 12:00

平野地域 上平野 (かみひらの)



今日が蓮田市の史跡巡りの最終日になる。残りは上平野村と高虫村の二村となった。昨日の走行ログデータが消えてしまったので、昨日走っただいたいのルートをもう一度走ってデータを残す事にした。その為、朝早く8時前に出発し、根金、井沼、駒崎経由で今日の最初の目的地の上平野に向かう。



平野地域 上平野 (かみひらの)

鎮座地の上平野は、その名が示すように、元荒川右岸の平野部に位置する農業地域になる。元の名は平野村であったが、江戸時代に元荒川の下流にも同名の村があり、元荒川の上流にある事から上平野と改名している。 いつ改名したかは定かでは無いが元禄年間 (1688 ~ 1704年) 以前であることは確かだ。

上平野村は室町時代には太田庄に属し岩槻城付きの村であった。江戸時代初期に書かれた古文書には室町時代末期に平野村が戦場となり、それまでの住民たちが兆散し、村人のいな かった期間があり、江戸期に入って幕府によって各地から12軒の百姓が集められたとある。1590年 (天正18年) 岩槻藩高力氏から青山氏、阿部氏と代わり、1629年 (寛永6年) には幕府直轄の天嶺となり、貞1685年 (貞享2年) に再び岩槻藩松平伊賀守に属すのだが、 1697年 (元禄10年) に再び天嶺になる。1797年 (延享4年) に一橋家領となり、明治維新まで続く。明治2年に小菅県、明治3年には浦和県、明治4年には埼玉県の所管となり、明治維新の混乱期を経ている。


大字上平野の人口推移は下のとおり。1989年には人口が大きく増加しているのだが、この背景はわからなかった。


資料に記載されている上平野の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 平源寺、上寺跡
  • 神社: 八幡神社
  • 庚申塔: 2基  馬頭観音: 0+1基


上平野 訪問ログ



道標

見沼代用水沿いの自転車道を上流に進むと、畑の道に石柱があった。これは1676年 (延宝4年) に造られた道しるべで角柱の左側面に「くき さつて」と刻まれている。柱には坐像が浮き彫りされているのだが劣化が激しく何を浮き彫りしていたのかは分からない。


道祖神

見沼代用水自転車道理を更に上流北に進み池田橋のすぐ西の道沿いに祠があった。その祠の中に角柱と2足のわらじが吊るされている。1833年 (天保4年) に造立された道祖神で笠付角柱に「道祖神」と刻まれている。道祖神は村を守るために村の入り口に置かれていたので、ここがかつての村の境界だったのだろう。


平源寺

道祖神の南には平源寺がある。浄土宗岩槻市加倉浄国寺の末寺で、元和年間 (1615 ~ 1629年) の頃、僧源栄が開山したと伝わる。慶安2年には江戸幕府より寺領7石5斗の御朱印状を賜っている。朱印地は寺社の私有地ではなく公領という扱いだったが、領内の租税は免除され、収益は全て寺社が享受していた。寺領7石5斗は当時では広い土地ではなく、ここからあがる作物収入は寺の維持には不十分なものだっただろう。明治6年には太政官がフランスの学制にならい「学制」がしかれたときに、この平源寺は上平野学校として使用された。男58人女17人の児童数で始まっている。この学制発布の際には全国で江戸時代に寺子屋が置かれていた寺や神社の多くが学校として使用された。山門の前には平野学校開校記念碑 (写真右上) が100周年で設置されている。

寺の入り口には二つの巡礼塔が置かれている。

  • 六十六部巡礼塔  (左) - 右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像で、台石に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれ、廻国巡礼記念として1800年 (寛政12年) に造られている。
  • 三十三所巡礼塔 (右) - これも廻国巡礼記念で同じ年の1800年 (寛政12年) に造られている。山角柱に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が刻まれ、「奉納 西国三十三所為二世安楽」と刻まれ墓塔を併設している。

墓地を入った所には定番の六地蔵が置かれている。

墓地の奥の塀の前に6枚の板碑が並べられている。一つを除いて作られた時期は不明でそれぞれには梵字や経文が刻まれている。向かって左から

  • 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (中左)
  • 板碑の右側に観無量寿経の偈の「若人造五逆得聞六字名 火車自然去華台即来迎」(中中)
  • 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (中右)
  • 蓮華座 (下左)
  • 南北朝時代 1368年 (應安元年) とかなり古い板碑で阿弥陀三尊を表す梵字と真言 (下中)
  • 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (下右)

読誦大乗妙典供養塔

道祖神の所まで戻り、そこに流れる見沼代用水の池田橋を渡った対岸に墓地があり、その入り口に二つの供養塔が置かれている。向かって右側の塔は読誦大乗妙典供養塔で、経典読誦記念として1756年 (宝暦6年) に造られ、隅丸角柱に釈迦如来を表す梵字のバクと奉読誦大乗妙典供養塔と刻まれている。


馬頭観音 (未登録)

もう一度、道祖神まで戻り、そこの西側の道を北に行くと馬頭観音があった。資料には掲載されていない。山形柱形の塔に馬頭観世音と刻まれて、側面には天保4年 (1833年) と造立日が刻まれている。


庚申塔 (17番)

馬頭観音 (未登録) の道を北に進み見沼代用水にかかる北浦地橋の手前に鳥居と少し大きめの祠があった。祠の中には明和年間に造立された駒角柱形の庚申塔が置かれ、瑞雲を伴う日輪、月輪、青面金剛立像が浮き彫りされている。地元では大切に信仰されており、庚申様と呼ばれ、足や歯が痛いとき、この庚申様に塩をかけ、その塩を患部につけると御利益があると言われている。正月に、餅・米・水を奉納し、2月に庚申講を行なっているそうだ。


上寺跡 (宝蔵寺跡)

見沼代用水を上流に向かい、折戸橋で南へ上平野の鎮守の八幡神社を目指して行くと県道77号線との合流手前に墓地がある。上寺 (かみでら) 跡という。77号線を渡った所が上平野の鎮守の八幡神社なので別当寺だったのではと思ったが、やはりそうで当時は上平野八幡神社など上平野の諸社の別当寺をつとめていた。正式には真言宗智山派で安養山宝蔵寺というのだが、通称上寺で通っていた。政府は、明治元年に神仏判然令 (神仏分離令) を発布し、神道をもって祭教政一致を目指し、寺院と神社を分離する政策をとった。寺を廃する意図はなかったのだが、これがきっかけとなり全国で廃仏毀釈運動が起こり、多くの寺院は廃寺となった。この宝蔵寺も廃寺となった一つ。現在では墓地が残り、寺院跡は地域の集会所とその前に広場がバスロータリーになっている。

墓地の入り口には1803年 (享和3年) に造立された六地蔵菩薩立像が置かれ、百地蔵の札が各地蔵につけられている。左から香炉を持つ地蔵、数珠を持つ地持地蔵、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ鶏亀地蔵、幡を持つ法印地蔵、合掌する宝性地蔵、天蓋を持つ地蔵が並んでいる。

墓地には数体の地蔵尊も置かれている。また墓地の東側バス置き場の塀沿いに幾つもの石塔が並べられている。一番前には宝篋印塔 (写真右) が建っている。1772年 (明和9年) に造られた金剛五仏塔になっており、上部正面に不空成就、右側面に阿弥陀、背面に宝生、左側面に阿閦の各如来を表す梵字が刻まれ、塔身自体が金剛界大日如来を表している。左側面塔身下部には「如来 一切 全身舎利之塔」と刻まれている。

後方の石塔を向かって右から見て行くと

  • 阿弥陀如来 (写真右) - 1694年 (元禄7年) 造立の舟形石塔に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」を刻み、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像が浮き彫りされて。
  • 六十六部巡礼塔 (中) - 廻国巡礼記念で1624年 (寛永元16年) に造られた笠付角柱形石塔に、釈迦如来を表す梵字「バク」と「奉納経六十六部供養」の文字が刻まれている。
  • 阿弥陀如来 (左) - 1685年 (貞享2年) 造立の阿弥陀如来像で、舟形の石材に梵字「ア」を刻み、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。
続いて四つの墓塔が置かれている。この寺の僧の供養塔の様だ。向かって右から

  • 墓石 - 1784年 (天明4年) に造られた僧の耶旭の山角柱墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
  • 墓石 - 1748年 (延享5年) に建てられた僧の知空の隅丸角柱形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
  • 墓石 - 1740年 (元文5年) 造立の隅丸角柱に大日如来の真言「アビラウンケン」の梵字が刻まれている。
  • 墓石 - 1740年 (元文5年) に建てられた僧の知筭の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
  • 無縫塔 - 1719年 (享保4年) に造立されたもの
  • 五輪塔 - 1706年 (宝永3年) 空輪、風輪、火輪、水輪、地輪すべてが残っており、各々を表す梵字が刻まれている。
  • 墓石 - 1690年 (元禄3年) に建てられた僧の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
  • 墓石 - 1677年 (延宝5年) に造られた僧の慶遍の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれ、本体下部には開敷の蓮華が浮き彫りされている。


御玉霊神

上寺跡 (宝蔵寺跡) の東、県道77号線 (行田蓮田線) 沿いに祠が置かれている。中に石塔が安置されている。1784年 (天明4年) に造られた御玉霊神が祀られている。昔、困った人を助けた人物を祀っており、概地元ではカナブツ様と呼ばれている。正月に鏡餅を奉納し拝まれている。


庚申塔 (18番)

八幡神社への入り口の木の根元に庚申塔 (18番)  がある。1687年 (元禄10年) に造立された舟形石塔が道路拡張工事でこの場所に移されている。石塔には瑞雲を伴う日輪、月輪、六臂の山王権現立像、三猿が浮き彫りされている。蓮田市ではこの山王権現の庚申塔が幾つかある。山王信仰も根強かったのだろう。地元では山王さん、庚申様と呼ばれているそうだ。


力石

庚申塔 (18番) の側には2基の石塔が置かれている。兵庫県西宮市の住民が昭和10年に奉納した敷石供養塔塔で「参道敷石」と刻まれている。もう一つは伊勢参宮記念碑になる。この2基の石塔の前に落ち葉で隠れていたのだが、落ち葉を取り除くと力石が出てきた。4つあるようだが、その中でわかるものには、1700年 (元禄13年) の「納石三十二貫目 (約120kg)」、1757年 (宝暦7年) の「奉納 三十〆目 (113kg)」、1717年 (享保2年) の「奉納 力石 廿八〆目 (約105kg)」と刻まれている。


八幡神社

このあたりは綾瀬川に沿った地域で字上綾瀬と呼ばれ、昔から集落があった。(下綾瀬もある)

この上平野八幡神社は応神天皇 (誉田別尊 ほむたわけのみこと) を祭神として上平野村の鎮守だった。創建時期は不明だが、徳川家康が関東入国した安土桃山時代、慶長年間 (1596 ~ 1615年)  に上平野村が開発され、村の開発と同時に八幡社が創建したと考えられている。1873年 (明治6年) に村社に列格、1907年 (明治40年) には字長島谷の雷電社と字上綾瀬の須賀社 (祭神 素佐之男命) を合祀している。1944年 (昭和19年) に八幡社を八幡神社と改めている。

境内社としては、資料によって様々なのだが、愛宕神社、稲荷社、天王社、天神社、雷電社の名が見える。長島谷村の雷電社は本殿に須賀神社と共に合祀されているので、愛宕神社、稲荷社、天王社、天神社の四つになるのだろう。境内には祠が三つあった。その内の一つには稲荷明神と天神社が祀られている。祠の中には石塔があるのだが、その前に紙垂 (しで) が置かれて正面が見えない。写真には資料にあったものも合わせて載せている。

  • 稲荷明神 (写真左)  - 1770年 (明和7年) に元荒川河岸近くに豊作祈願で造立されたが、周辺の作物の出来が悪かったので、ここに移したと伝わる。地元では「おいなりさま」と呼ばれている。
  • 天神社 (写真右) - 1835年 (天保6年) に学業成就祈願の為に造立された笠付角柱に菅原道真坐像と梅の木が浮き彫りされている。地元は「天神様」と呼ばれている。

残りの二つの祠が愛宕神社と天王社になるのだが、どちらかは分からなかった。

こちらには大黒天像が置かれれいるいるのだがどちらだろう?

境内にはその他に1914年 (大正3年) 奉納の社寺型手水鉢があり、その両脇に1915年 (大正4年) 奉納の石燈籠が置かれている。また遥拝所と書かれた拝所があるのだが、どこへ遥拝する場所なのかは分からなかった。

この八幡神社では、かつては、夏の悪疫退散の「天王様」の行事で、神輿の後を山車が巡行していた。その後、八幡神社の祭典後に大天狗、小天狗、獅子がて獅子の頭を担いで全氏子の家をねり回る形に変わっている。戦前は、上平野の祭り囃子は良く知られており、桶川や白岡、菖蒲などからも祭りに来ていたし、八幡神社の参道にテキ屋たくさん並んでいた賑やかな祭りだった。残念ながら、太平洋戦争で中絶して、それ以降行われなくなってしまった。近年になり、ようやく復活し、神社本殿に大天狗・小天狗・獅子を飾り、軽トラックに祭囃子の録音再生機材を搭載し、上平野の地区内を祭囃子の演奏をスピーカーで流しながら巡行する形になってなっている。今では、氏子の減少や祭ばやしも人数が集まらなくなり、祭りを縮小し人形と神輿のみ飾ってお祭りをしている。


この後、蓮田市の最後の訪問地の高虫を巡る。高虫の訪問記は別途。



参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)