埼玉県 (14/04/23) 蓮田市 (13) 平野地域 上平野
平野地域 上平野 (かみひらの)
- 道標
- 道祖神
- 平源寺
- 読誦大乗妙典供養塔
- 馬頭観音 (未登録)
- 庚申塔 (17番)
- 上寺跡 (宝蔵寺跡)
- 御玉霊神
- 庚申塔 (18番)
- 力石
- 八幡神社
- 稲荷明神、天神社
今日が蓮田市の史跡巡りの最終日になる。残りは上平野村と高虫村の二村となった。昨日の走行ログデータが消えてしまったので、昨日走っただいたいのルートをもう一度走ってデータを残す事にした。その為、朝早く8時前に出発し、根金、井沼、駒崎経由で今日の最初の目的地の上平野に向かう。
平野地域 上平野 (かみひらの)
鎮座地の上平野は、その名が示すように、元荒川右岸の平野部に位置する農業地域になる。元の名は平野村であったが、江戸時代に元荒川の下流にも同名の村があり、元荒川の上流にある事から上平野と改名している。 いつ改名したかは定かでは無いが元禄年間 (1688 ~ 1704年) 以前であることは確かだ。
大字上平野の人口推移は下のとおり。1989年には人口が大きく増加しているのだが、この背景はわからなかった。
資料に記載されている上平野の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 平源寺、上寺跡
- 神社: 八幡神社
- 庚申塔: 2基 馬頭観音: 0+1基
上平野 訪問ログ
道標
道祖神
見沼代用水自転車道理を更に上流北に進み池田橋のすぐ西の道沿いに祠があった。その祠の中に角柱と2足のわらじが吊るされている。1833年 (天保4年) に造立された道祖神で笠付角柱に「道祖神」と刻まれている。道祖神は村を守るために村の入り口に置かれていたので、ここがかつての村の境界だったのだろう。
平源寺
道祖神の南には平源寺がある。浄土宗岩槻市加倉浄国寺の末寺で、元和年間 (1615 ~ 1629年) の頃、僧源栄が開山したと伝わる。慶安2年には江戸幕府より寺領7石5斗の御朱印状を賜っている。朱印地は寺社の私有地ではなく公領という扱いだったが、領内の租税は免除され、収益は全て寺社が享受していた。寺領7石5斗は当時では広い土地ではなく、ここからあがる作物収入は寺の維持には不十分なものだっただろう。明治6年には太政官がフランスの学制にならい「学制」がしかれたときに、この平源寺は上平野学校として使用された。男58人女17人の児童数で始まっている。この学制発布の際には全国で江戸時代に寺子屋が置かれていた寺や神社の多くが学校として使用された。山門の前には平野学校開校記念碑 (写真右上) が100周年で設置されている。
- 六十六部巡礼塔 (左) - 右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像で、台石に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれ、廻国巡礼記念として1800年 (寛政12年) に造られている。
- 三十三所巡礼塔 (右) - これも廻国巡礼記念で同じ年の1800年 (寛政12年) に造られている。山角柱に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が刻まれ、「奉納 西国三十三所為二世安楽」と刻まれ墓塔を併設している。
墓地を入った所には定番の六地蔵が置かれている。
- 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (中左)
- 板碑の右側に観無量寿経の偈の「若人造五逆得聞六字名 火車自然去華台即来迎」(中中)
- 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (中右)
- 蓮華座 (下左)
- 南北朝時代 1368年 (應安元年) とかなり古い板碑で阿弥陀三尊を表す梵字と真言 (下中)
- 阿弥陀如来を表す梵字のキリーク (下右)
読誦大乗妙典供養塔
馬頭観音 (未登録)
庚申塔 (17番)
上寺跡 (宝蔵寺跡)
墓地には数体の地蔵尊も置かれている。また墓地の東側バス置き場の塀沿いに幾つもの石塔が並べられている。一番前には宝篋印塔 (写真右) が建っている。1772年 (明和9年) に造られた金剛五仏塔になっており、上部正面に不空成就、右側面に阿弥陀、背面に宝生、左側面に阿閦の各如来を表す梵字が刻まれ、塔身自体が金剛界大日如来を表している。左側面塔身下部には「如来 一切 全身舎利之塔」と刻まれている。
後方の石塔を向かって右から見て行くと
- 阿弥陀如来 (写真右) - 1694年 (元禄7年) 造立の舟形石塔に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」を刻み、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像が浮き彫りされて。
- 六十六部巡礼塔 (中) - 廻国巡礼記念で1624年 (寛永元16年) に造られた笠付角柱形石塔に、釈迦如来を表す梵字「バク」と「奉納経六十六部供養」の文字が刻まれている。
- 阿弥陀如来 (左) - 1685年 (貞享2年) 造立の阿弥陀如来像で、舟形の石材に梵字「ア」を刻み、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。
- 墓石 - 1784年 (天明4年) に造られた僧の耶旭の山角柱墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
- 墓石 - 1748年 (延享5年) に建てられた僧の知空の隅丸角柱形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
- 墓石 - 1740年 (元文5年) 造立の隅丸角柱に大日如来の真言「アビラウンケン」の梵字が刻まれている。
- 墓石 - 1740年 (元文5年) に建てられた僧の知筭の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
- 無縫塔 - 1719年 (享保4年) に造立されたもの
- 五輪塔 - 1706年 (宝永3年) 空輪、風輪、火輪、水輪、地輪すべてが残っており、各々を表す梵字が刻まれている。
- 墓石 - 1690年 (元禄3年) に建てられた僧の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれている。
- 墓石 - 1677年 (延宝5年) に造られた僧の慶遍の舟形墓塔で梵字「ア」が刻まれ、本体下部には開敷の蓮華が浮き彫りされている。
御玉霊神
上寺跡 (宝蔵寺跡) の東、県道77号線 (行田蓮田線) 沿いに祠が置かれている。中に石塔が安置されている。1784年 (天明4年) に造られた御玉霊神が祀られている。昔、困った人を助けた人物を祀っており、概地元ではカナブツ様と呼ばれている。正月に鏡餅を奉納し拝まれている。
庚申塔 (18番)
力石
八幡神社
境内社としては、資料によって様々なのだが、愛宕神社、稲荷社、天王社、天神社、雷電社の名が見える。長島谷村の雷電社は本殿に須賀神社と共に合祀されているので、愛宕神社、稲荷社、天王社、天神社の四つになるのだろう。境内には祠が三つあった。その内の一つには稲荷明神と天神社が祀られている。祠の中には石塔があるのだが、その前に紙垂 (しで) が置かれて正面が見えない。写真には資料にあったものも合わせて載せている。
- 稲荷明神 (写真左) - 1770年 (明和7年) に元荒川河岸近くに豊作祈願で造立されたが、周辺の作物の出来が悪かったので、ここに移したと伝わる。地元では「おいなりさま」と呼ばれている。
- 天神社 (写真右) - 1835年 (天保6年) に学業成就祈願の為に造立された笠付角柱に菅原道真坐像と梅の木が浮き彫りされている。地元は「天神様」と呼ばれている。
残りの二つの祠が愛宕神社と天王社になるのだが、どちらかは分からなかった。
こちらには大黒天像が置かれれいるいるのだがどちらだろう?
この八幡神社では、かつては、夏の悪疫退散の「天王様」の行事で、神輿の後を山車が巡行していた。その後、八幡神社の祭典後に大天狗、小天狗、獅子がて獅子の頭を担いで全氏子の家をねり回る形に変わっている。戦前は、上平野の祭り囃子は良く知られており、桶川や白岡、菖蒲などからも祭りに来ていたし、八幡神社の参道にテキ屋たくさん並んでいた賑やかな祭りだった。残念ながら、太平洋戦争で中絶して、それ以降行われなくなってしまった。近年になり、ようやく復活し、神社本殿に大天狗・小天狗・獅子を飾り、軽トラックに祭囃子の録音再生機材を搭載し、上平野の地区内を祭囃子の演奏をスピーカーで流しながら巡行する形になってなっている。今では、氏子の減少や祭ばやしも人数が集まらなくなり、祭りを縮小し人形と神輿のみ飾ってお祭りをしている。
この後、蓮田市の最後の訪問地の高虫を巡る。高虫の訪問記は別途。
参考文献
- 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
- 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
- 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
- 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
- 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
- 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)