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集●"働かせ改革"を撃つ 明治維新で人々は幸せになったのか

2024.05.10 11:41

http://gendainoriron.jp/vol.15/feature/f11.php 【集●"働かせ改革"を撃つ 明治維新で人々は幸せになったのか】より

明治維新と天皇制の150年 —1—

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

今年、2018年は明治維新150年、政府はなにやら祝賀行事をやろうとしているが、盛り上がらないことはなはだしい。アベノミクスはうまくいかず、森友学園問題をはじめとして政治家と官僚に対する不信感が絶頂に達しているなかで、国民も明治維新150年を祝おうという気にもならないのではないか。わたしにはそれよりも、人々のあいだに歴史への関心が薄まっているような雰囲気が気になる。本稿では、明治維新と天皇制の150年について抜本的に見直すために、連続していくつかのテーマをとりあげ、今回は明治維新そのものを再評価する手掛かりとしたい。

1.明治維新で良いことはあったのか

明治維新はアジアで唯一成功した近代化への革命であって、そのために日本は植民地にならずにすみ、先進国として発展した、明治維新はすばらしかったという認識は、国民のあいだでは、いや、アジアの民衆のあいだでも圧倒的多数派である。アジア諸国から日本へ来る歴史系の留学生にも、「日本の近代化、経済的発展から学びたい」という者が多い。「あなたの国を侵略することによって経済的に発展したのですよ」といっても、なかなか問題意識は変えてもらえない。わたしと多くの関心を共有する先輩研究者からでさえも、明治維新をプラスに評価する意見しか聞かない。封建制国家から中央集権国家へ変わったことは、必然ではあろうが、わたしはあえて「発展」とか「前進」とかは呼ばない。それは生産力発展史観への疑問からであるが、そこを譲って中央集権国家の成立を前進だとしても、それ以外に明治維新で良いことはあったのだろうか。

経済的発展によって「先進国」になったということは、日本の場合、帝国主義化して植民地を収奪し、植民地分割戦争を行なったことと同義である。先進国になったことを賛美し、侵略戦争を悪いこととして反省し批判するという矛盾を、人々は自分のなかでどのように処理しているのだろうか。もちろん侵略戦争と認めたくない人も少なくないのだろうが、おもしろいエピソードをひとつ。山口組三代目組長田岡一雄が人権派と呼ばれた遠藤弁護士に左翼と右翼の違いを質問したときに、前の戦争を侵略戦争だというのが左翼、それを認めないのが右翼だと答えると、田岡組長は「じゃあ俺は左翼だ、あれは侵略戦争に決まっている」といったという。これが一般的な認識ではないだろうか。

明治維新が成功したかどうかは、それによって人々が幸せになったのかどうかが唯一の基準であるということは、承認してもらえるだろうか。「国家としての発展が国民の幸福である」という論者とは、別の議論が必要となる。

幸せになったと考える最大の根拠は、やはり生産力の発展であろう。大量の消費が可能になり、江戸時代にくらべると餓死者は減ったというものである。大量消費は資本制の発展によるものであるが、欲望を肥大化させることが資本制発展のカギであり、大量消費の是非については、ここでは論じない。ただ、江戸時代にくらべて餓死者が減ったというのはおそらく事実であろう。もうひとつ、職業選択の自由をあげる人もいるが、これは誰でも働かせることができるという資本家による「雇用の自由」がより本質である。現在であっても、職業選択の自由はまったく形式化しているといわざるをえない。

2.最大の不幸としての兵役

一方で最大の不幸は、徴兵制によって、江戸時代は戦争と無縁であった人々が、国家によって殺され、また殺人者とされたということである。戦死者と被災して死亡した人数は310万といわれる。これは江戸時代の餓死者より多いだろう。日本兵が殺した人数は数千万人。兵士の民衆としての戦争責任は指摘されることは多いが、殺人者とされたことの苦しみが論じられることは比較的少ない。戦場で殺し、殺されることの恐怖が精神のバランスを失わせ、復員しても元の生活に戻れない人々の存在は、ベトナム戦争、イラク戦争で注目されるようになり、アフガン・イラク戦争の米兵の復員兵のうち、PTSDで苦しむ者は派遣された200万人のうち50万人という説もある。

日本でも報道は少ないが、15年戦争で精神に傷を負って戦傷病者特別援護法(1964)で治療中の人数は、1978年段階で1107名(共同通信社調べ)、現在でも終戦を認識できず入院を続けている人がいる。これらの人々を「未復員兵」(精神的に復員できていない)と呼ぶが、TBSの吉永春子がドキュメンタリー番組や著書『さすらいの未復員』で世に知らしめた功績は大きい。また自衛隊のイラク派兵で自殺した隊員の数は56名とされるが、100名に上るという説もある。

また、徴兵制は国民に対して平等であったわけではない。最初の徴兵令では代人料(400円→700円)を納めた者、戸主、北海道に本籍を持つ者などは逃れられた。男子のいない家への養子が流行し、夏目漱石は北海道へ戸籍を移して徴兵を逃れた。これらの公的な徴兵逃れ制度はやがて廃止されたが、志賀直哉は裏から手をまわして、耳が悪いことにして逃れた。

このように、明治維新を経て、民衆は国家によって殺され、殺人者の立場に立たされたのである。これほどの不幸は、ほかにはない。餓死者は減ったかもしれないが、強い国家、強い軍隊を作るには、国民が「健康」でなければならない。厚生省はそのような目的で1938年に設置されたことを忘れてはならない。

3.小作人と労働者はなぜ生まれたか

日常生活においてはどうだったのか。比較対象が江戸時代であり、維新後も統計が確立するのは、たとえば最初の国勢調査が1920年であるように、かなり後になるので、変化を正確に述べるのは容易ではない。

ここに興味深い記事がある。現在の労働組合の源流である友愛会の機関紙『友愛新報』第3号(1913年1月)に、東京帝大出身で日本の監獄制度を作り上げた内務官僚小川(河)滋次郎の「労働神聖論」が掲載されている。小河は鈴木文治との縁で、友愛会に協力しており、前年12月の友愛会例会で労働者に対して話されたものである。全体の趣旨は、労働が神聖であることを労働者自身が社会に理解させ、労働者が富国強兵の原動力とならなければならないというものであるが、そこにあげられている「日本は果して一等国?」という疑問を掲げて引いているデータがおもしろい。なお日本は日清戦争の勝利で「極東の憲兵」、すなわち欧米の帝国主義の代理人としてアジア諸国を監視する役割を負わされ、さらに日露戦争で「一等国」と呼ばれるようになり、後の欧州戦争(第一次世界大戦)で五大国に数えられるようになる。

小河はまず、外国貿易高、貯金額が少なく、「世界の三四等国とさへ肩をならべることが出来ない」としたうえで、年間自殺者数が一万一千人で、ドイツ一万二千人、フランス八千人、アメリカ三千人、急増しているロシアで四千人と、日本の自殺者数が多いことを指摘する。次に年間死産者の数。ドイツ六万四千人、フランス三万九千人に対して、日本は十五万四千人と「世界無比である」という。離婚数が第1位というのをどう評価するかはここでは置いておく。犯罪者数が日本は年間八万人で、イギリスは一万五千人など、他国は「極少数である、つまりは人民が悪い」といって、人民の自覚をうながすのであるが、小河の下す評価は別として、これらの数字は、人民がいかに苦しんでいるかを示している。

江戸時代には、スラム、戦前の用語でいうと「貧民窟」は存在しなかった。スラムの形成は日清・日露戦争期である。これは、資本制と地主制を確立させるために、政策的に作られた。言いかえれば、労働者と小作人を産み出すためである。

明治六年の政変でただ一人の陸軍大将である西郷隆盛をはじめ、士族陸軍が鹿児島へ移った。山縣有朋が設計した「国民皆兵」の徴兵令を、山縣失脚後、桐野利秋らの反対を押さえてこの年に施行したのは西郷隆盛である。西郷が士族陸軍を鹿児島へ連れて帰ったために、日本陸軍は徴兵制軍隊にスムースに移行できた。

しかし大久保政権は、地租改正事業、これも西郷らの留守政府が実施したのだが、始まったばかりで、税収はわずかである。しかし、西郷との戦争のために、陸軍を確立し、武器を購入しなければならない。そのために政府は紙幣を大量に印刷した。その結果は、当然のインフレである。西南戦争後の1881年、松方大蔵卿は紙幣を回収し、デフレ政策を実施した。物価、米価は下落した。高校の授業を思い出してほしい。「地租は地価の3%を金納で」と丸暗記させられたはずである。地価は地券の裏に明記されており、現在の評価額のように、あるいは相場のように刻々と変動したりはしない。米価が下がっても、変わらない額の地租を、米を売って納めなければならない。米価が下がると、中小零細農民には、納税が難しくなる。

明治維新によって、はじめて土地を売るという概念と制度が成立した。江戸時代の土地は誰のものだったのかという議論は興味深いが、ここでは触れない。松方デフレによって納税できなくなった農民は土地を売って、小作人になる。ここに地主制が成立する。小作料は地租プラス地主の利益だから、当然地租より高額である。小作人の生活は、小作人になる前より厳しくなる。小作人の次男以下は、農村では食べていけない。やむなく都市へ出るが、仕事も住む家もない。スラムが成立すると同時に、低賃金でも働こうとする。当時の工業は繊維産業が主で、求められたのは女子労働力であった。男が働ける職場、工場は僅かであった。資本家の側からいえば、徹底した低賃金で労働力を確保できたのである。      労働力の析出過程、日本資本主義の原始的蓄積過程を教科書的に見てきたが、松方デフレ下の農村の惨状は、たとえば北村透谷の作品、労働者の暮らしは有名な著作が多く、スラムの状況については興味本位のものも多いが新聞記事(『明治新聞集成編年史』、『大正新聞集成編年史』など)をみてほしい。

4.江戸時代と比較して

江戸時代の農民の暮らしはどうであったか。学校教育ではいまだに「生かさず、殺さず」的に教えている教師も多いようだが、研究者の世界からは、佐藤常雄・大石慎三郎『貧農史観の見直し』(講談社現代新書、1995年)をはじめとして、江戸時代の農民は徹底的に収奪されてきたという見方を修正してほしいというアプローチが続いている。また江戸時代後期・末期の被差別民についても、農業以外の生業にもついていた彼らが、商品経済の発展によってゆとりある暮らしをしていたことが強調されるようになっている。1855年の岡山藩渋染一揆は、被差別民に対して出された倹約令が一般民とは別のものであったことに対する被差別民の闘いであり、撤回をかちとった。被差別民に対する倹約令のなかに、絹の着物を着るなという項目があったことが注目される。

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社、1998年)は、幕末・明治初期に日本を訪れた西洋人が、日本の庶民とその暮らしぶりを著作のなかでいかに賛美しているかという例を、これでもか、これでもかとうんざりするほど集めた著作であるが、幕末の庶民の暮らしは、英米等との通商開始(一般的には「開国」といわれるが、江戸時代は鎖国していなかったというのが圧倒的多数派)による経済混乱はあったとしても、もう少し長いスパンでみれば、貧農史観は改められなければならない。

すでに本誌WEB版第1号「『黒船以来の総決算』を」にも述べたことと重複するが、江戸時代、特に後期の日本列島の文化は、豊かな内容を持っていた。当時のことであって正確な統計はないが、幕末には識字率が40%、江戸に限定すれば90%以上であり、当時江戸とならんで世界の2大都市であったロンドンでは15%であったことと比較すると、日本の識字率は世界で突出していたといえる。

欧米との通商開始以降、最大の輸出品となった生糸は、「生糸と軍艦」といわれたように、生糸の貿易収入で日本は軍艦を購入し、軍備を拡大した。世界から称賛され、当時のパリのファッションを支えた日本の生糸の品質は、江戸時代に準備された。江戸時代初期の生糸は低品質で、高級品は中国から輸入していたことを思い起こせば、江戸時代を通じて日本の製糸業は大きく成長したことになる。

幕末・明治初期に日本を訪れた西洋人が感嘆したように、日本の街も村も清潔であった。清掃を担当したのは被差別身分の人々であったが、また、日本に限らないが、アジアがリサイクル文化であったからでもある。アジアの農業は人糞を肥料その他に利用し、価値あるものとして交換されたが、 ヨーロッパの都市では路上に放置された。日本の道路では草履で歩けたが、ヨーロッパではハイヒールが必要であった。

兵庫県赤穂市のわたしが生まれ育った家の前を流れていた水路で、水遊びをしたり魚を取ったりして、わたしは川と認識していたが、実は17世紀に赤穂浅野家が整備した上水道であり、生家の台所にも大きな甕があって、砂やシュロなどで漉して飲んでいたことを記憶している。徳川家康は江戸の町づくりを設計する際、神田上水など六上水を整備した。これはパリよりも早く、また給水範囲も広い。維新後も東京市民はそれに満足していて、東京では逆に近代的上水道への切り替えが他地方よりも遅れたほどである。

「『黒船以来の総決算』を」を参照していただきたいが、華岡青洲の医学、関孝和の数学、平賀源内や田中久重の諸技術は世界的なレベルであったし、芸術の分野でも浮世絵は世界に衝撃を与えた。また西洋人で明治初頭に初めて東北、北海道を旅行したイギリス人女性イザベラ・バードは、女性が一人で旅しても、無礼な目にも強奪にも盗みにもあわないと証言し、新潟から山形へ峠を越えて見た風景を東洋のアルカディアと讃嘆した。

5.西郷隆盛の近代化論

ではなぜ多くの日本人は、ペリーの黒船を見て、「日本は遅れている」と勘違いしたのか。ペリー以前にもロシアやイギリスが日本に通商を求めて来ていた。その態度は紳士的であり、幕府の対応によって退去していた。しかしペリーは応じなければ軍事力に訴えると脅迫した。徳川日本は平和国家であったから、幕府も大名も海軍力を持たなかった。実は遅れていたのは軍事力だけであったのだが、前項で述べたように、日本は諸分野で豊かなものを持っていたにもかかわらず、それを認識することができず、軍事力に目が行ってしまい、またペリー流脅迫外交をスタンダードだと考えてしまったのである。そして幕府も明治政府も海軍力増強にまい進した。

わたしは松浦玲の主張を支持して、西郷隆盛は征韓論ではなかったと考えているのだが、明治六年の政変で大久保政権が成立し、富国強兵・殖産興業の政策を追求することになった。それが一般的には「近代化」といわれるが、わたしは「西洋猿まね産業化」と呼びたいし、また帝国主義への道であった。学校歴史教育では明治六年の政変について、西郷が征韓論であり、大久保は内治派であったと教えられるが、その翌年に大久保政権は琉球支配を実現するために台湾に出兵し、さらにその翌1875年には朝鮮半島内部にまで入り込んで江華島事件を引き起こし、強引に朝鮮を開国させた。ペリーと同じやりくちである。大久保を内治派と教えるのはやめてほしい。

「『黒船以来の総決算』を」では、中江兆民が「西洋は野蛮である」と考えていたことを紹介したが、西郷は中江よりも先に同じことを指摘していた。『南洲翁遺訓』に収録されているが、「文明とは、道の普く行はるるを言へるものにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何をか文明と云ひ、何をか野蛮と云ふや。少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の国に対しては、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、然らずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりと云ふ可し」とある。中華体制を支持するわけでは決してないが、中国を中心とする朝貢冊邦体制にくらべて、帝国主義・植民地体制が軍事力で押さえつける、野蛮なものであることは自明である。

岩倉遣外使節でアメリカの次にイギリスを訪れた大久保は、空が工場の煙で覆われていることをすばらしいと西郷に書き送っているが、西郷はそのような工業化のありかたを賛美することについて「何故に電信鉄道の欠くべからざるものなりやと云ふ点に注意せず、猥りに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず……一々外国を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限となるの外なし」(『南洲翁遺訓』)とたしなめている。やはり『南洲翁遺訓』には、「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我国の主体を居ゑ、風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥り彼れに倣ひなば、国体衰頽し、……匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす」とある。何でもかでも模倣すると、徳も廃れて、結局は欧米の支配を受けるようになってしまうぞという趣旨である。西郷はまるで1945年を予測していたようである。

もちろん西郷は近代化に反対したのではない。政府主流が岩倉遣外使節で欧米を訪問しているあいだ、地租改正事業と税制、徴兵制、学校制度を整え、人身売買を禁止し、神社仏閣の女人禁制を廃止したのは、西郷を中心とした留守政府であった。西郷はあくまでも、日本が主体性を持って、ゆっくりと近代化すべきだと主張したのである。

明治維新は必然ではあったけれども、それによって日本という国家が発展したと考えることは、日本の帝国主義化を肯定することである。資本主義は人々の欲望を肥大させて消費を拡大することによって発展する。そうしなければ資本家はもうからない。消費が拡大することを幸福とする価値観はすでに否定されている。民衆が侵略戦争に動員されたことは、最大の不幸であった。そして天皇制国家は、「これが日本文化である」という均質的な「文化」を創作して国民に強制し、文化を貧困なものにした。さらに太平洋戦争中に捏造した、「天皇が将軍を任命して政治を委嘱し、幕府を開かせた」という皇国史観は、現在でも歴史教育を貫いており、天皇家が世界でもっとも長く続く家柄であるとの幻想をふりまいている。(続く)