温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第120回】 羽根田治『ドキュメント 単独行遭難』(ヤマケイ文庫,2012年)
子供の頃、「登山遠足」が正直なところ好きになれなかった。山道を延々と登り続けるのが楽しいと思えなかったし、級友よりもペースが遅くなりがちで、先生たちから励まされるのが妙に嫌だった記憶がある。心の傷とまではいわないが、子供心にも登山は向かないと思い込むことになった。
山を登るのが苦手ではないと思えるようになったのは、大人になってからのことだ。きっかけは、仕事の一環として山に登ることを求められ、登山装備一式を用意して、わりと本格的な登山に挑んだことだった。有難いのはそのときに山のプロが同行しており、色々と教わりながらの道すがらで、体力的にも問題なくクリアーできたのがよい経験になったのだろう。山には時折登るようになったが、その流れから山岳部出身の山の達人や、山岳地帯での行動のプロまで色々な友人にも恵まれもした。
山のプロから登山に関連する本を専門に扱うヤマケイ文庫の存在を教えてもらい、気が向いたときに適当に選んで読むことにしている。登山についての知識や技術を授けてくれる専門書、ガイド本、体験記など幅広く扱うこの文庫のなかでも、登山のリスクについて扱った本などは大いなる学びを与えてくれる。『ドキュメント 単独行遭難』(羽根田治・ヤマケイ文庫)はそうしたなかの一冊だ。
本書は、一人での登山、「単独行」で直面した7つの遭難事例を軸に構成されている。山に通じたライターの羽根田治氏が、登山に単独行で赴き遭難しながらも生き抜いて帰還できた人たちにインタビューをして、遭難者の目線で入山、登山、事故、遭難、生存の努力、救出(脱出)までを活字にしている。特に専門的な知識がなくても読める本であり、読み終えるまでにさほどの時間を要しない。
これら遭難事例については、遭難した人たちの登山についての知識や技量といった問題もあるが、共通していえるのは、ほんのわずかな油断、過信、思い込み、手抜かり、判断ミスなどが遭難への引き金となっている。本書のなかの事例を2つここで取り上げたい。
最初の事例は50代の男性登山者で奥秩父・唐松尾山のケースだ。男性はいつも必ず提出していた「登山届」を慣れから今回は怠り、日帰り登山のつもりで家族には行き先だけを口頭で伝えるに留めている。過去に何度か登った山で、登山道も熟知しているとの思い込みもあり、男性は登頂後も地図もほとんど確認していない。下山時、山頂から稜線をたどっているなかで、北側斜面と南側斜面をある所で間違って進むというミスをおかした。南下するべきところ、北上してしまっている認識を本人は持たないまま動き続け、ある地点でトレースが消えていても「たぶんこっちでいいのだろう」と深く考えずに沢を下り続けた。途中で何かおかしいなと感じながらも、腕時計に装着されているコンパスで進行方向すら確認しないで下り続け、ついには日没となり行動不能となっている。
十分な防寒着もないままビバークすることになったが、夜の冷え込みは厳しく一晩中震えが止まらずほとんど眠ることもできなかった。日帰り想定だったため食料も限られており、翌日はほとんど何も食べることなく動き始めたが、沢を下り始めて数時間が経つ頃には、沢が大きく広がり両岸にはついに辿れるところが無くなる。それ以上前へ進むのが困難な事態になって初めてコンパスを確認し、まったく見当違いの方向を延々と進んでいた事態に男性は気づく。呆然とするあまり全身から一気に力が抜けてその場にへたり込んで何時間もそこから動けなくなった。
正気が揺らぐと人間の精神は脆いもので、そこから男性は幻覚・幻聴に何度も襲われている。再度ビバークをして翌日どうにか気力をとりもどし、沢を登り始め、食料も乏しいなかで時間をかけて登り続けた。ようやく尾根上の高台らしきところにたどり着き、携帯電話をオンにして救援を頼み、結局ヘリで救出されている。後に自らの過信が遭難の原因だと反省しながら次のように語っている。
「下っていった沢は、瓦礫の灰色、急流や雪の白、倒木の薄茶色だけの世界で、暖色系等の色彩は皆無でした。自然のなかで、人間はまったく無力であることを痛感しました。ひとつ間違えれば、取り返しのつかない惨事となるところでした」
もう1つの事例は30歳男性登山者で秩父・両神山のケースだ。男性は日帰り行程で登山を計画し、服装や装備はミニマムであった。家族にはガイドブックを示して登る山を軽く示した程度であり、いつもは提出していた登山届も、この時に限って登山道入り口でポストを見落とし提出していない。男性は山登りを始めて数年だったが、その間に書籍やネットで登山に関わる知識をつけ、遭難前の半年ほどはジム通いで体力を錬成していたという。
両神山ではトレーニングの効果を実感しながら登頂し、下山も同じコースを選択するつもりでいたが、途中で気持ちが変わり別ルートを選んでいる。新たなルートで時折迷いなが進んでいる途中、沢の斜面で足元が突然滑り、側にあった枝をつかもうとするも叶わずに、次の刹那に一気に斜面を40メートルも転がり落ちた。
「真っ先に思ったのは、「とてもまずいことになった」ということだった。次に体を起こし、どこかケガをしていないか、全身のチェックにとりかかった。大きな痛みはどこにも感じなかった。幸い頭も打っていないようだった。次に足を動かそうとしたときに、左の足先がぶらんぶらんの状態になっているのが目に入った。「これは間違いなく骨が折れている」そう思ったとたん、突然激しい痛みが襲ってきた。その痛みに耐えながらズボンの裾をめくってみると、靴下が血で赤く染まっていた」
男性はパニックになりそうなのをどうにか押し留め、ザックを背負ったままの体で手と無事な右足を使って這いずりながら平坦な場所まで移動した。ケガの状態を確認するべく痛みを我慢してどうにか登山靴を脱ぐと、左足首と脛の間から骨が飛び出しており、「開放骨折」の状態となっていた。
血が噴き出してこそいないが傷口からリズムを打つように流血しており、男性は開放骨折の応急処置に自信がなかったが、Tシャツの切れはしで傷口をあてがって縛り、さらには傷口の上をもっていたヒモできつめに縛って止血を試みた。その後で、登山靴も靴下も痛みからもう左足に履かせることはできなくなったので、ビニール袋をかぶせて防寒処置とした。
携帯は持っていたが圏外だったので、とりあえずバッテリー温存のため電源を切った。次第にあたりが暗くなってきたので、周辺を通りかかっているかもしれない登山者に向けて、ホイッスルを吹き、転がり落ちてきた斜面の上をめがけてヘッドライドの明りを振るなどしたがなんの反応もかえってこなかった。
結局、男性がこの場から救出されたのはそれから2週間先のことだ。その間、この場をほとんど動くことが出来なかったが、限られた場所で生き抜くための描写が生々しい。翌日に痛みをこらえながらも左足をみると出血は止まっておらず、傷口からの出血は続いていた。出血が止まらなければ失血死につながると考えた男性は、持参していた登山ナイフの刃を焚き火で時間をかけて熱し、それを傷口に押し当てるという処置をとった。それを出血が止まるまで何度も繰り返すことになったが、闇に包まれた山中に男性の絶叫だけがこだましたという。
二日目以降、体力があるうちにその場を少しでも脱出できないかと考え、数時間かけて沢から僅かに離れた斜面に移動しただけで終わっている。そのころから、傷口を確認すると無数のうじ虫がたかりはじめていることに気づいたが、飲み水をセーブするために手で払っている。遭難から四日経つと手元にある食料が飴玉二つくらいとなり、何かしらカロリーを取らなければ思い、そこにいた蟻、ミミズを口に入れ、コケなども食べてみたという。
「遭難五日目には、極限の喉の渇きを覚えるようになっていた。ペットボトルに溜めてあった尿も飲んだ。とにかく水がないのが致命的だった。逡巡している場合ではなく、滑落するのを覚悟で斜面を下りはじめ、午後までかかってなんとか沢まで下り着いた。着いたとたん、沢の水をがぶがぶと飲んだ」
遭難五日から十日までは、その場をほとんど動くことなく横になる状態が続き、次第に体力と気力が消耗していくなかで、生理的欲求も放置することになった。左足は腫れあがり、うじ虫は相変わらずたかり続け、傷口からは腐乱臭が徐々に帯びてきた。左足はもうだめだろうと覚悟し、同時に「死」という文字が現実味を帯びて迫ってきたという。
「増水に流されそうになった十日目以降は、ほとんど体の自由もきかなくなり、苦しさのほうが先に立つようになっていた。いっそ死んだほうが楽なのではないかという気がして、自分で命を絶つことができるのだろうかと何度か考えた。だが、舌を噛み切ることなんてとてもできそうになかったし、目の前の沢に身を投げることもためらわれた」
こうした気持ちが沸き起こる一方で、苦しい一日でも翌朝が来て目が覚めると、なんとか生き抜いてやろうという気持ちも湧いた。そして、こうした日々のなかでも、ずっと思い続けていたのは家族や恋人のことで、心配をかけていることを考えては申し訳ない気持で一杯になったという。
登山届もなく家族のあいまいな記憶だけを元にして、捜索を続けていた警察の懸命な努力により、男性は最終的には発見されて救出された。そして、秩父市立病院から埼玉医科大学に移送されて、骨、筋肉、皮膚移植の手術を受けて左足切断の危機もどうにか免れて、一年をかけた治療で回復して仕事にも復帰できたという。
本書の最後(終章)に「単独行についての考察」があり、そこでは本書を著した羽根田氏が同書で扱った7つの遭難事例を、単独行のリスクと魅力、リスクマネジメントといった視座から考察を行っている。著者は、警察、消防、山岳救助関係者などからの単独行ではなく複数人での登山を呼びかける声を紹介し、データをもとに単独行による遭難リスクの高さを指摘している。
他方で、一人で山を登る人たちの言い分、普段の生活から解放されて、自分だけの判断で登山を試みる自由、他者に煩わされることなく己の気持ちに従って楽しみたいといった言い分にも理解を示している。その上で、単独行をする人たちが十分にリスクを認識して、それに備えているかを問題にする。登山計画書作成にあたっての現実的なシミュレーション、状況判断の元になる気象や読図の知識、技術的なバックグラウンド、怪我へのセルフレスキュー、加えて、トレーニングに裏付けされた体力、必要な装備品、この程度のことはリスクマネジメントのために求められるべきだという。
この考察のなかで、ある有名な登山家がトークイベントの際に発言した内容を引用している。そこには次のようにある。
「無線機を持つのは、本当の意味での単独登山とはいわないような気がします。国内で登山するときも、僕は携帯電話を持っていきません。というか、普段から持っていないのですが(笑)。危険は危険、恐怖は恐怖として受け入れたほうが、本来の山登りを楽しめると思うので、できれば持ちたくないのです。その代わり、どんな状況になっても自力で下りてくるという覚悟は持っています」(『山と渓谷』2012年3月号)
私個人が、この発言を読んでいくなかで引っ掛かりを感じたのは次の部分だ。「危険は危険、恐怖は恐怖として受け入れたほうが」、確かに、危険も恐怖も拒否する人間では、厳しい環境でサバイバルできないのでこれは同感だ。しかしながら、それが続いて「本来の山登りを楽しめると思うので・・」に結びついてくるのか、この文脈の流れがピンとこなかった。要するに危険と恐怖を知りながらも「無防備」でいたほうが本来の危険と恐怖を楽しめるということなのだろうか。この解釈が妥当だとすれば、そこには人間が持つ自然への傲慢さが含まれはしないだろうか。
なお、私個人はとしては、危険は危険、恐怖は恐怖として受け入れるが、その上で可能な限りの防備を固めることにしている。登山に際して、携帯電話(予備バッテリー)、ポータブル無線機(免許保有)、場合によっては衛星電話も装備する。余談であるが、哲学者カントはある論文のなかで「人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである」と言っているがこれに同意したい。登山の単独行、一人で色々と向き合う魅力は認めるが、だからといって、人は社会から離れて一人で生きているわけではないし、結局はその社会に戻ってくることになるのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。