【富高地域 楽器店 事情(昭和~平成)】
富高エリアの楽器店事情をみていきます。
<富高の楽器店(レコード・CDショップ)について>
明治初期に日本へ入ってきた「蓄音機」が、世間に普及し始めたのは明治30年代~40年代頃だといわれています。
明治・大正・昭和初期の富高地域において、蓄音機(レコードプレーヤー)や、SP盤(78回転のレコード)を取り扱うお店があったかどうか、古老に伺ってみましたがハッキリしません。いわゆる「〇〇楽器店」と呼ばれるような専門店は、戦前までの富高新町には無かったのかもしれません。
(※蓄音機という商品は電器屋さんとも関連がありそうですが、電器屋と呼ばれるお店もまた、戦前には無かった可能性があります。これについてはいずれ別項で触れていく予定です。)
<昭和初期(戦前、戦中)>昭和初期の手がかりとしては、富高在住のあるご婦人が「日の丸バス」に勤めていた頃、同僚から不要になった蓄音機を譲り受けた、というエピソードがあります。「日の丸バス」は県北部で大正後期~昭和初期にかけて営業したバス会社で、戦時下の「企業統合」の波を受けて宮崎交通に合併され、昭和20年3月より「宮崎交通 富島営業所」となっています。蓄音機はラッパ型のホーンが付いた立派な品だったそうですが、残念ながら、この譲渡された蓄音機やレコード盤が、どこで販売されていた物なのかは、今となってはわかりません。当時の蓄音機は、風流な趣味を持つ人(裕福な家で、且つ音楽の好きな人)が所有する、かなり珍しい機器だったと思われますが、戦前~戦時中にかけて、富高新町では他にも蓄音機を持っていたお宅が幾つかあったのではないかとは古老の話です。地元に取扱店があったかどうかはさておき、蓄音機やレコードという存在自体はそれなりに町民の間に認知されていたと思われます。
<昭和期(戦後以降)>戦後に関する手がかりとして、歴史書「日向市の歴史」における記述があります。この本には、昭和22年、富高でバレエ研究所を立ち上げた伊 達 小夜子さんが生徒にレッスンを始めた際の苦労話が載っています。その証言によると「レコードもないんです。知人のうちから古くなったオルガンを譲ってもらって、それをひきながらレッスンをしました。福岡までレコードを買いに行ったこともあります。すぐ割れるレコードでしたけど、クラシックのものを見つけたときは、嬉しくて涙が出るほどでした」(本文より引用)。物資に乏しかった終戦直後の苦労がしのばれますが、このように、日向市(当時は富島町)に販売店舗が無くても、県内各地、場合によっては県外へと足を延ばすことでレコードの入手が可能であったことがわかります。
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<昭和20年代~町内に専門店ができる>
戦後、楽器店と呼ばれる専門店がオープンし、レコードを手軽に買えるようになりました。
●「児 玉 楽器店」<蝶ネクタイがトレードマークのご主人が経営>:昭和22年、児 玉 楽器店が中町に出来ました(★=夕刊紙情報より)。日向で最初の楽器専門店であろうと思われます。昭和30年頃に上町へ移転し、昭和62年頃まで駅前のその土地で営業されました。昭和51年に鉄筋コンクリ造りの三階建てとなり、音楽関連商品の販売・展示は主に1階で行い、2~3階では音楽教室やその発表会などが行われたようです(★)。レコードの在庫は市内随一だったと思われますし、扱うジャンルも多彩でした。またピアノなどの楽譜(教則本)の在庫や種類も豊富で、まさに日向を代表する楽器店でした。店長さんは普段からベストに蝶ネクタイを合わせた、さながら音楽家のような服装で店頭に立たれるなど、たいへん洒落た方だったといいます。また骨董集めが趣味だったようで、昭和50年代後半から60年代にかけて上町の店舗の2階には彼の収集した古銭の展示コーナーがあり、そのうち一部は販売もされていました。(追記:児 玉 楽器店の閉店後から何年かの間は、同建物が「(株)西村」支店となっていました。)
●「国 際 楽器店」:上町の繁華街にあったお店。日向店だけでなく、宮崎店もあったようです(S50年頃は宮崎ユニード店も追加)。開店は昭和37年で(★=夕刊紙情報より)、おそらく平成15年(2003年)頃まで、長く営業されました。店内は楽器の展示および販売物品がギッシリあり、壁の棚には楽譜(教本)の在庫もあり、児玉楽器店と並んで本格的な楽器店として存在感のあったお店でした。レコードも置いてあり、児玉楽器店になければここを探す、あるいはその逆、といったようなかたちでレコードコレクターには頼りになるお店でした。昭和50年代後半、地元夕刊紙にレコード売り上げチャートの掲載を任されていました。
●「ミュージック サ ンコー」:地図でみていくと、本町の交差点カドにあった内 山 金物店の南隣のテナントスペースに昭和48年頃から短期間「西 村楽器店」の支店が入居しています。その場所が昭和54年(1979年)頃から「ミュージック サ ンコー」へ。おおよそ平成29年(2017年)頃まで約40年の長きにわたり営業されました。ここはとりわけ演歌系のレコードやカセットを扱うお店として有名だったと思います。昭和から平成に移る頃、世の中はレコードからCDへと変化していきますがそれにも対応され、店内では若者向きのCD棚と高齢者向けのカセット棚という住み分けが一時期ありました。また児 玉 楽器店の閉店などで子供向けソフトの取り扱い店が減った平成ひとケタ時期は、地域の需要に応えるべくアニメ主題歌CDやサントラ盤の入荷を意欲的に行っておられました。日向市の土地区画整理事業の一環で道路の拡張工事が開始されたことに伴い、惜しまれつつ閉店しました。
●「ユニードアピロス」店内のレコード店:アピロスの店内(2階or3階)に、レコードを扱う小さな一角がありました。四方が仕切られており、入り口から入ると右手に店員さんのいるレジ、左側にはレコードが入った段ボールが整然と並べられていました。レコードのジャンルに「アイドル」などと共に「ひょうきん」というコーナーが作られていたのが印象的でした。昭和57~58年頃、ひょうきん族という番組が人気で、そこから生まれた企画物レコードの他、出演者が歌った別レーベルの音盤もそこにまとめられていました。また、店員さんが待機するブースの背後には、昭和50年代後半当時珍しかったVHSの販売用ビデオが10本ほど並んでいました。当時のビデオは高価な品で、子供たちは鍵のかけられたガラスケースに大切に収められた1本1万円近くする「ウルトラ怪獣大百科」などのVHSテープの背表紙部分だけを眺めてはため息をつくばかりなのでした。このアピロス内のレコードショップは、詳細不明ながら昭和50年代後半から60年代初頭までの短期間だった可能性があります。(※アピロスそばの楽器店さんが依頼を受けて一時期出張していたとの話があります。)
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●「文展堂楽器店」:延岡に本店のあった「文展堂」が日向市にもありました。レコード販売の有無はわかりませんが、ピアノの教室を開いており、それがメインであったのではないかと思われます。昭和40年代後半頃(昭和47年~49年までの地図では「文展堂 音楽教室」の名称)は国道10号線沿いで松 木 タバコ店の数軒北隣にありましたが、昭和50年から(地図では「文展堂楽器店」の名称)少し東側の「宮崎相互銀行」(現在の宮崎太陽銀行)東隣に移転。十年弱そこで営業したのち昭和50年代末~平成ひとケタ(97年前後?)まで恵比須神社そば(アヅマヤ日向店の裏通り)の店舗にて営業されました。
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<1990年代以降>
国道沿いにあった「明屋書店」「銀河書店」といった大型書店の中に、CDやビデオ(後年はDVD)の販売コーナーが設けられていました。また、こうした地元店舗にない場合は、人によっては門川(門川書店横の「セレナード」)や南延岡まで足を延ばしていたと聞きます。
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<レンタルレコード店>
●「ジョイフル」:貸しレコード店が昭和50年代~60年代にかけてありました。夕刊「新都タイムズ」によると昭和57年頃は2軒あったようですが、そのうちの一軒・ジョイフルは当初上町の小松テナントビルの一角にあり、のちに宮銀向かいのテナントビル1階部分に移って営業しました。営業期間はおよそ十年程度かと思われます。EP盤(33回転または45回転のドーナツ盤※シングルレコード)やLP盤(33回転の大型レコード)を取り扱っていました。昭和62年頃の閉業直前になると、戻ってきたレコードがそのまま中古販売されていました。おそらくCD時代には迎合せず、レコード店として終えた印象でした。
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<レンタルCD店>
ビデオレンタル店の中で、CDのレンタルも同時に行う店が幾つかありました。昭和62年10月に出来たアスティ日向寿屋内の「AV CLUB」(エーブイクラブ)日向店や、平成3年に十号線沿いに出来た「V-station」(ヴィステーション;のちのツタヤ日向店)です。
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<補足:富高エリアにおける「楽器」の存在について>
専門店としての楽器店は無かったかもしれません。しかし、楽器を所有している人や団体はありました。文献をひもとき、幾つかの手がかりをみていきます。
<明治時代>
●富高小の百周年記念誌「とみたか」に、のちに日向市長を務められる三尾某氏による寄稿文が載っています。明治20年代生まれの三尾氏が小学生の頃、つまりおおよそ明治30年代の思い出として「特別教室というものはなく、唱歌の時間にはオルガン運びが生徒の大仕事であった」との事です。富高小学校は明治24年に中原地区から本町地区へとキャンパスを移転しており、これは本町に出来た新しい校舎におけるエピソードと思われます。明治半ば、音楽の授業で使用するオルガンが富小に備えてあったことが伺えますが、一体どのようなかたちで富高に運び込まれたのか、その記載はありません。蛇足ですが昭和期(昭和10年代~20年代)に富小で過ごした方の話でも、やはり「音楽の授業の際は他の部屋から自分たちの教室へオルガンを運んでいた」といいます。明治期に比べ生徒数も増えた昭和20年代はオルガンの数も複数あったようですが、このような習慣は続いていたようです。またオルガンは「講堂」(体育館や大集会室といった役割を併せ持つ大きな建物)に置いてあったとの証言もありました。富小の講堂は鉄骨造りで、昭和20年に3度襲来した大型台風にも動じなかった頑丈な建物でした。この講堂は明治~大正時代にはまだ無く、昭和5年に富高小学校が2階建ての立派な建物(×3棟)に増改築された際に、併せて建築された物のようです(「日向市の年表」p.104)。なお、昭和30年5月~6月頃に富小が現在の草場キャンパスに移転した際、本町の旧校舎はすぐに取り壊されたのですが、この講堂だけは解体されずしばらく残り、郵便局の一時的な仮局舎になったり、公民館としても活用されたとのことです。
●明治44年撮影とみられる、十五夜祭り「南部壮年会」の仮装隊の写真があります。南部壮年会とは南町と中町に住む16歳~24歳頃までの若者が属していた青年団のことですが、ここに三味線をもつ着物姿の女性が2人ほど写っています。この方々は当時塩見橋の北詰付近にいくつかあった芸者屋に居た方ではないかとみられています。明治~大正~昭和前期(S30年代頃まで)の「十五夜祭り」においては、このような三味線の名手が花屋台に乗り込んで演奏を披露していたようです。富高の芸者屋さんは数軒程度でしたが、細島や美々津にはもっとたくさんあり(十数軒ほど?)、最盛期だった大正時代半ばには芸者屋が軒を連ねた歓楽街が形成されていたといわれています。それらの店には、三味線をはじめ太鼓など和楽器が複数存在していたはずです。そこに居た芸者さんが三味線などをどこで入手していたのか不明です。
<大正時代>
●郷土史家・河野某氏が会報誌「まほろば」(平成元年号)に寄せた文によると、大正末期、お盆の時期には「あちこちの民家で祖先供養の浄瑠璃会」が開かれ、富高町に在住する本職・素人問わず多くの演奏家が三味線などの音色を聞かせていたとのことです。これらの楽器を素封家(いわゆるお金持ち)の方々がどこで手に入れることができたのかは不明です。また蓄音機など近代的な装置については言及がなく、生演奏が主流のこの時代ではそのような音響機器は まだそれほどの存在感は無かった(持っている人がいなかった?)とも考えられます。
●この大正期には、宮崎や都城や延岡といった大都市で楽器を扱う店が幾つかあったようで、例えば延岡でいうと旅館「喜せつ 園」の経営で有名な谷氏の書店が大正5年(及び大8年)に楽器を扱っている記録があったり(「日本全国商工人名録」)、他には富高氏の文華堂(大正11年頃/「宮崎県名鑑」)の名前もみられます。これらの店は書籍や文具の店でありつつも楽器商としての側面もあったようです。日向にお店が無い時代は、延岡のこうしたお店へ楽器の購入や修理をお願いしていたのかもしれません。
<昭和初期(戦前・戦時中)>
●大正~昭和前期の頃に横町の呉服店のご主人だった橋 口 某氏は音楽への造詣が深く、殊にバイオリンの名手で、自宅での演奏のほか、祭り等イベントでも腕前を披露されていたとの話です。
●「日向写真帖」に、山 崎 某氏がアコーディオンを持つ昭和15年の写真が掲載されています。山 崎 氏は青年団として精力的に活動されていた方で、ライオンカフェーや福興館などでも演奏の腕前を披露されていたとのことです。
●「まほろば」(平成14年第12号)に伊藤某氏が寄稿された文によりますと、戦時中の昭和18年頃、細島小学校・高等科の方々による「ブラスバンド隊」が存在した模様です。勇ましく奏でるブラスバンドの皆さんを先頭に、細島小から細島駅まで、出征する兵隊さんを見送りに行く人々の長い行列ができていたとの事です。(※富高地域ではありませんが特記しておきます。なお富高小においてはこの当時、このような楽隊や、楽器自体なかったとの証言があります。)
●「まほろば」(平成3年第3号)収載の河野氏の寄稿文によりますと、「戦時中、富高実業学校(註:現在の富島高校の前身)には上手なラッパ手がいて、毎日始業から終業まで軍隊ラッパの旋律が流れていた。」との事です。
<昭和期(終戦直後)>
●「日向写真帖」に、寺 原 某氏が関わった昭和23年の町民演奏会の写真が掲載されています。青年団による「十字星楽団」と銘打った楽隊が、映画館「福興館」で演奏している画像です。バイオリン、アコーディオン、ギター、クラリネット、マンドリンと多くの楽器が写っています。
●昭和30年代~50年代にかけて上町の歓楽街にあったバー「銀巴里(ぎんぱり)」は店内で生演奏が披露されていたといいます。また昭和40年代に日向市駅前の店舗でおよそ十年ほど営業していた「ファンキー」はジャズの生演奏を聴かせてくれるオシャレな店(ジャズ喫茶)としてスタイリッシュな若者を中心に人気があったとのことです。
―おわりー
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