超えて行きましょう
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12294886132.html 【あの世とこの世】
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何故人は生まれて来たのか?
二十代の頃 僕の頭の中は この問いかけで いっぱいでした^ ^
では今はどうかというと「何故」という感覚が消えてしまいました
つまり 問いかけ自体が 無くなってしま ったのです
面白いことに そうして問いかけが 消えた瞬間 同時に 答えを得る必要も 消えてしまいました
当たり前ですが^ ^ それをもう少し 正確に言えば 僕の中にいた 答えを問う人が
消えた、と言っても いいかもしれません
その問う人は 田中宏明という 名前を持った 一人の独立した 「自分」が生きている
と思っていました
だから、自分がどういう 存在なのか知りたくて たまらなかったんです^ ^
「自分」は 何故生まれて どこから来て どこへ行くのか?
その答えを得なければ 自分の存在の無意味さに 押しつぶされると 本当に怖れていたわけです^ ^
だから必死で あらゆる本を読み漁って これは、と思う人に 話しを聞いたりして 答えを得ようと 頑張っていたんですね
そうです とっても健気なんです(笑)
そんな彼を 思いながら 瞑想の中で 彼に語りかける ことがあります「大丈夫、絶対に なんとかなるよ」 いつのまにか そんな語りかけが 習慣になっていました
ある時 不思議なことに気づきました 実は僕は この声を若い頃からずっと 聞いていた事を思い出したのです^ ^
当時は その声がどこから 来ているかは わかりませんでしたが その声のおかげで
何の根拠もなく いつも自分自身の中に 「絶対に大丈夫だ」という 深い感覚を持つことが
出来ました まさか それが自分の声だった とは驚きましたが(笑)
そして今も 自分の中に流れている 声があります それは 声なき声 愛そのものを 感じるのです^ ^
敢えて言葉にするなら「愛の無限の広がりを 楽しみなさい」そんな感覚がずっとあります
きっと遠い未来の自分が 今を通して語りかけてくれているのでしょう それは確信として 僕の中にあります
なぜなら 今ここに 立ち帰った時 全てが今に存在している事が 体感でわかったからです
全ての過去と未来が 今まで出会った人も これから出会う人も 何千と繰り返してきた命と
これから何千と繰り返していく命がその全てが 今ここに同時に 存在していると わかったのです そしてそれに 気づいた瞬間 「何故」という 問いかけは消えて しまいました
同時に自分は 命そのものである ということにも 気づいたのです
そしてその時 田中宏明という 個人もただの幻なのだと わかりました
それは便宜上 命につけた名前に 過ぎないからです それは命そのものを 現してはいません^ ^
我々は躍動する 命の表出そのものです もちろんあなたも🌈 だから絶対に 何があっても大丈夫^ ^
あなたがあなたを 超えていくために あらゆる事が 起こっているだけです
般若心経の最後の ぎゃてい、ぎゃてい はらそうぎゃていは 超えて、超えて、超えて行け
という意味だと聞いた事があります^ ^
超えて行きましょう^ ^ 今日は何だか 不思議な話しになりましたがたまにはこんな話しも
いいですな^ ^ そんなわけで 皆さまも良い一日を🌈💓😆 らぶ💓
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戦後70年:「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 俳人・金子兜太さんインタビュー2015年06月23日毎日新聞
◇トラック島で「捨て石」体験
戦争における生と死の実態とはどのようなものなのか。そこに皇軍の誉れはあったのか。帝国海軍主計将校として、南洋のトラック島に“捨て石”とされた体験を持つ俳人、金子兜太(とうた)さん(95)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
敗戦を迎えたトラック島での1年3カ月の捕虜生活を終え、日本への引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で、詠んだ一句です。最後の引き揚げ者200人とともに、島を後にしました。小生の所属部隊を含め、戦死者はらくに1万を超していた。その人たちを思い、復員後の生き方を決意した一句です。
海軍を志願したのは功利主義からでした。どうせ戦争にとられるなら、一兵卒は嫌だった。東京帝大経済学部在籍時に海軍経理学校の試験にパスし、1943年9月に入学します。その3カ月後が学徒動員でした。同輩、後輩が、随分と死んでしまいました。翌年2月に卒業し、配属されたのが、海軍の拠点が置かれたトラック島。第4海軍施設部の最年少の甲板士官(中尉)でした。
軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。ある日、工作部が手製の手りゅう弾を製作しました。実験をすることになったが、将校・下士官はもとより、兵卒にやらせるわけにもいかない。そこで、工員にやらせろと。ところが、工作部は機械製造などが仕事で、熟練工が多い。貴重だ。施設部は道路工事などの単純な仕事だ。役に立つかどうかでも、命の価値に差があった。「金子中尉、お前のところでやれ」と。1人の工員を選びましたよ。
ボーン。発火させた途端、手りゅう弾が爆発してしまった。その工員、田村の右腕は吹っ飛び、背中に白い穴がカアーッと開いた。隣にいた落下傘部隊の少尉も海に吹っ飛ばされて、即死でした。ところがね、それを見ていた工員仲間たちが田村を担ぎ上げ、「わっしょい、わっしょい」と病院に駆けだした。
人間への認識が変わりました。もともと、一旗揚げようと南の島に来た工員ばかりでした。聖戦とか、大東亜共栄圏とか、そうした意識は薄い。けれども、明らかに死んでいても、仲間は放っておかない。俺は人生を甘くみていたんじゃないだろうか。人間って、いいもんだ。「わっしょい、わっしょい」の声は今も耳に残っています。
サイパン島が陥落したとき、矢野兼武(海軍主計中佐。詩人で、筆名・西村皎三=こうぞう)という元上官が戦死したんです。この人が「金子、句会をやれ。(戦況悪化でトラック島は孤立し)今に食糧が逼迫(ひっぱく)する。皆が暗くなる」と言っていたことを思い出した。その遺言に従い、句会を開きました。
すると散文詩をやっていた西沢実(戦後、放送作家)という陸軍戦車隊の少尉が、同僚将校を4、5人ほど連れてきた。最上級は少佐です。こちらは工員10人ほどですから、驚いた。しかし、西沢は「関係ねえ。おんなじ人間だ」。たったの3カ月でしたが、すっかりと打ち解けた。無季(季語のない句)も気にしなかった。ただ、戦場は戦場。神経は張り詰めていた。
空襲よくとがった鉛筆が一本
その時に詠み、今でも覚えている一句です。
この句会が打ちきりとなったのは食糧不足が原因。周辺の島々に部隊を分散させ、食糧生産に従事させることになった。工員と事務職員が中心の200人を率い、日本名「秋島」に渡りました。年3回は収穫できる「沖縄100号」というサツマイモを持ち込み、自活するはずだった。ところが、これを食う虫がいることを誰も気付いていなかった。机上の空論でした。「南洋ホウレンソウ」と名付けた青草を海水で煮たりしました。ただし、これは食べ過ぎると腹を下し、体力を奪った。
官僚組織とはひどいもんです。「栄養失調による病死」にしてしまう。実態は「餓死」。しかし、皇軍に「餓死」は禁句だった。はったりをきかせていた工員たちがみるみると弱っていく。やせ細った餓死者の顔は仏様のようなんですよ。本当に可哀そうでね。他の島との連絡にポンポン船を出せば、見回りの米軍のグラマンが機銃掃射してくる。ズタズタにされる。
ところが、「あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」などと冷静に考えている自分がいた。人間なんて、浅ましいものです。幹部将校たちはサイパン島が陥落した時点で、この戦争はもう駄目だと思っていた。そうなると女房と子供の顔を見るために内地に帰ることしか、考えていなかった。
「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。レイテ沖海戦で海軍の象徴たる戦艦武蔵が沈没しても、沖縄が陥落しても、仕方がないとの気持ちだけです。
この島での11カ月間、俳句を一句も詠まなかった。無意識にです。なぜだろうか。それ以前も、その後も、そんなことはなかった。幼少時から、七五調の「秩父音頭」を聞いて育ちました。実家では父が水原秋桜子(俳人、俳句雑誌「馬酔木」=あしび=を主宰)と知人で、句会の支部を作ったりもしていた。俳句がアイデンティティーとして、私は存在している。それがまったく失われていたのに、島では気付きもしなかった。それが戦争なのでしょうか。
椰子の丘朝焼けしるき日々なりき
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
終戦の詔勅を聞いた後にやっと、俳句が自然と湧いてきた。米軍の収容所では食糧がきちんと与えられましたね。米軍に没収されないように句を書いた小さな紙を丸めて、配給されたせっけんに押し込んで内地に持ち帰りました。
◇ ◇
戦後は日本銀行(従軍前に3日間在籍)に復職しましたが、組合活動をやるなどして、にらまれた。課長にもなれずに退職しました。しかし、東大を頂点とする学閥を軸に作り上げられた人事体制は身分制そのものであり、半封建制だと思った。トラック島で共に過ごした工員たちの生々しさに比べ、この官僚たちは何なのかと。日本は戦争に負けたのに近代化されていなかった。
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
日本人は何を学んだのでしょうか。長崎支店時代の一句です。
戦後を共に生きた仲間たちも徐々に鬼籍に入っています。皆の名前を毎朝唱え、皆に向き合う「立禅」を続けています。振り返るに戦場での死のむなしさ、異常さを考えずにはいられません。それは「自然死」ではない「残虐死」です。
集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい。
トラック島に残した部下たちには実は墓碑などなかった。個々人が生き延びるだけで精いっぱいの中で、できるのは小高い丘の上の穴に埋めることだけでした。国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できません。無理に生きる必要のない、自由な社会を作っていく。それが俺の思いです。
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2017年8月15日 ·
選り抜き:今日の読みました(その1)『毎日新聞』2017/8/15
【余録】
「畑中の檸檬(レモン)の一樹輝かに」。俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんの句だが、戦争末期、海軍の根拠地トラック島での作である。この地には珍しいレモンの木を見つけた金子さんは誰にも告げず、その輝きを自分だけの秘密にした
▲当時、すでに米軍はサイパンへ侵攻、トラック島は戦線の背後に取り残されて補給は絶えていた。金子さんが指揮する200人の部隊は近くの秋島に移駐して自活を強いられ、栽培したイモは夜盗虫と呼んだ毛虫に食われて全滅する
▲「栄養失調者は眠ったまま死ぬ。朝、必ずといっていいほど2、3人が起きなかった」。部隊長の頭を占めたのは、畑の生産力と人数をにらみ、あと何人死ねば食っていけるかという推計だった。今も悔いる「破廉恥(はれんち)な計算」である
▲「椰子(やし)の丘朝焼しるき日日なりき」という句がわいたのは敗戦の報を聞いた朝だった。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」。トラックには多くの餓死者を含む日本人戦没者8000の墓標が残った(「悩むことはない」文芸春秋)
▲ある歴史学者の推計によると、先の戦争での日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち餓死・戦病死が6割にのぼる。「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」は軍人(ぐんじん)勅(ちょく)諭(ゆ)の一節だが、それを兵士らに用いて恥じない戦争指導の無能と非道であった
▲内外の戦没者に平和を誓う終戦の日だが、今年は東アジアに飛び交う好戦的な言葉が心を騒がせる中で迎える。人の生命を道具としか思わぬ軍事指導者と今も向き合わねばならない戦後72年の夏である。
Facebook白鳥 哲さん投稿記事
「私たちは兄弟であり、家族であり、世界そのもの。私たち一人一人は世界に光をもたらす存在。さぁ、今から、与え合おう!マイケル・ジャクソン」
マイケル・ジャクソンの声を担当させて頂いたときに、戦慄が走り、深い共鳴をしました。
今、地球のために出来ること…それは、全ての生命体が繋がっていることを思い出すこと。
動物も植物も微生物も…みんな。地球に生きる一員…。人間も例外ではなく、その一員。
なんの違いもないし、それぞれが尊く、それぞれが愛しい存在…。
この歌を聴くと、繋がっている何かを思い出します。
「WE ARE THE WORLD」 お聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=WbachP6QhGk