数の語り ②
http://www.izukky.com/kamisuu/kaminohoujin4.html「神の法陣」大精義講(4)●
さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ②
≪本来ならば、「数」は神の言葉であり、「神」の心を伝えてやまないものである。
しかし、人間の心が増長慢になるにつけ「神」をないがしろにし、それ故に、「神」は心を閉ざし、それと共に素晴らしい「数」の語りは完全に失われて、無言の存在となってしまったのである。 今では、「数」は単なる符丁、符号として用いられている単なる絵文字としての認識であり、誰も心を寄せて、慰めるような者は誰もいない……!!!!。 要するに、 ただただ、弄(もてあそ)ぶだけであり、用が済んだら消し去るだけである。
要するに、「言葉」は意味を持つが、「数」はまったく意味を持たないと考えている人々が殆なのであり、それ故に、言葉は大切にされるが、「数」はただただ掃き捨てられるだけである。本来の「数」には大きな意味があるのであるが、誰もそのことを知らないだけなのである。
本来の「数」とは、それは神々の素晴らしい言葉であり、神々は「数」を用いて、この素晴らしい大宇宙自然を作り上げたのである。ただ、「数」の持つ意味を解せないを我々は、「数」を単なる記号と捉えているので、そこには意味等はまったく無いと考えているだけである。
まさに、それは人類にとっては「大いなる叡知」の損失であり、永遠に無駄な時間を費やすことになるものである。
何と、惜しむべき人間サイドのミステイクなのであろうか…!!!。
2016年5月上載
遥かな古代に語られていた素晴らしい「数の語り」はどうして姿を消してしまったのであろうか…!!?。現代文明下では完全にその姿を見ることは一切叶わず、「数」は単なる大きさや量を示す道具として我々人間に仕える羽目になって、モノを言わぬ存在となってしまったのである。 一体全体そこには何があり、どのような経緯が生じてそのような羽目になったのであろうか…!!?。これは、まさに、悪貨は良貨を駆逐するの言い例えであり、心に期しておかなければならない大事なことなのである。
今の現代人は何も知らない、何も考えようとはしない、過去にあった事実などはまったく関心が無く、上滑りの状態にあるのである。何故なら、彼等の知が実り始めるころは、、既に「数」の真実は姿を消し、以来、そのままの状態が続いて来ているからである。
まあ、これは歴史上、いや、人類知史上の大いなる謎と言うものである。
有史以来、この「数の謎」に言及した者は誰もいない、いやいや、そうでもない、ただ一人だけはいた、彼は懸命に世の中に訴えたのであるが、誰も耳を貸そうとはしなかった。
それがあの有名なフランスの自然学者C・G・ユングである。
彼、ユングの主張は次の通りである。
① 「数」は発明されたものではなく、発見されたものである。
② 「数」は元型に類比出来るような相対的な自律性を持ち、元型と共通して意識に先行して存在する。
③ 自然数の系列は意外にも同一の単位の単なるより合せ以上のものであることが判明する。そこには数学の全体と、この分野ではまだ発見されていないすべてが含まれているのである。
④ 「数」はすでに存在しているがまだ知られていない整然とした配置、または規則性を把握するために予定された道具である。
⑤ 「数」が元型的な基盤を持っていると言うことは、その中誰かが見出すであろうと数学者達は推測している。
それ以来、世界の数学者達は「数の基盤」や「数の本質」を求めて100年近くうろうろしているのであるが、一向に見出すことが出来ないでもがいているのである。それはそうであろう、「数の基盤」や「数の本質」等は10進法の中ではなく、宇宙自然の用いている「九進法」の中に身を潜めているのであるから…!!!。
最近になって、これらの「数」の秘密が明らかになるにつけて、「神」の存在の真実が次々と明らかになり、それに従って「神々」の存在が問題になって来ている。ひょっとして、それを恐れた「神々」は遥かな過去に「10進法」を人間に与えて混乱させ、「神々」の秘密を守ろうとしたのではなかろうか…!!?。確か、旧約聖書に同じような件(くだり)がある、神は人間の成長を恐れるあまり、人々の言語を乱し、まったく通じない違う言葉にしたと言う話である。
そこにある「言葉」を「数」に置き換えれば、意味もハッキリ通じることになるのであるが…!!。
そして「神」、そんなものは無いと人間達に思い込ませる為に与えたもの、それが「現代数学」であり、「現代科学知」なのではなかろうか…!!?。
その理由としては、何時も人間は「神」を崇めて、何時までも「神」の下僕として仕えさせることにより、永久に「神」の身の安泰が保たれるはずと「神」は考えているのであろう…!!?。
するとその場合、この現存鎮座している「神々」とは一体何者なのであろうか、そして、何を考え、なにを図ろうとしているのであろうか…!!?。 いや、その前に人間を作り上げて今日まで面倒を見て来たのは一体何ものであり、何ゆえなのであろうか、まずは、そのあたりを懸命に考えて見る必要があるのではなかろうか…!!?。
学者達は言う、我々は偶然に自然界において発生した小さな生命体が何十億年の年月を経てここまで変化成長して来たのであり、その結果、徐々に人間としての形が出来上り、長い間の経験則により更には知を持つようになったと…!!。果たして、それは正しいものなのであろうか…!!。 私には単なる愚者の戯言年としか思えないのであるが…!!。
果たしてそうなのか、それにしては少々腑に落ちないことがあるが…!!。 それは遺伝子によりこれからの人間の成長過程が既に決められていることである。要するに、それは我々の未来はすでに決まっていると言う事実があることであり、誰かがそのように作り上げたと言うことである。恐らくは、設計者がいて、精巧なDNAを作り上げ、すべての生物に移転し、思うままに成長過程を楽しんでいるように見えることである。 何故なのであろうか……!!??。
例え、我々が自然から偶然に発生したものなら、そのままで留まっているはずであり、時間と共に発達するようなことは、決して無いはずである。誰かが作り上げたからこそ、DNAがあり、その後の発達の仔細も克明に記されているのである。そこには、恐らくは発達の究極点も記載されているはずであるが、我々は未だに発達途中にあるので、それを知ることが出来ないだけである。第一、我々の脳の働きさえも、未だ、10%未満の状態であるとさえ言われているではないか……!!!。まだ、90%はこれから人間が発達するにつけて、次々と開放されてゆくものである。 要するに、人間の未来は洋々たるものと最初から定められていると言うことなのである。
道理で、いくらそれを問いかけても、増長慢の人間共、、独りよがりの人類には、その問いはまったく聞こえることも無く、ただ無視されて、挙句の果てには、軽侮されて我々は力を落とすだけである。 それ故に、、今の所、己の得た知を発展させることに懸命にならざるを得ないのである。
考えて見るがいい、人間の細胞は60兆ヶあり、その一つ一つがその中にDNAを持ち、また、そのDNAのの中には30億ヶにも及ぶ情報が書き込まれているゲノム、すなわち、我々の人生の設計図と言うものが存在している事実を…!!。
そこには我々の一生、いや、人類の運命さえもシッカリと書き留められていると言われていることを知って欲しい。しかもその情報は世代を経る毎に次々と変化し、無事に生きるための対応状態を変遷に応じて次々と変えられている事実があるのである。 それは、まさに、神業であり、我々には逆立ちしても想像がつかないものなのである。
その奇妙なるDNAを持つ生命体の一種である我々人間はとても偶然に生まれ、自然自然に生き永らえて今日あるのではなく、緻密に計算されて、計算の通りに生かされている一つの「神」の飼育体として、最後の最後まで、すなわち、究極の果てまで生かされてる存在なのである。その緻密に計算され、その計算の通りに生かされているこのプログラムを称して我々は運命とか、宿命と呼びながら一生を終え、それが何代、何十代にもわたって続くのである。
すると、問題は我々人間を生みだしたのは自己調節システムを持つと考えられる地球と言う「ガイヤ体」なのか、それとも宇宙の深遠から舞い降りて来た宇宙人なのか、それとも本当の「神」、すなわち、大いなる宇宙意識により作られるべきして作られた「神」の影武者的な存在と言うものなのであろうか…!!?。
時々このようなあやしい妄想に包まれながら眠りに就くことがある。するとまだ、私も未だに成長過程にあって、これからいくばくかは脳の活動が見込まれるのであろうか…!!??。 はて…、 はて…、!!??。
考えて見るとまことに不思議な事であり、不可思議千万なことである。何故、遥か古い時代に生きた日本民族の祖達は、このような「数」のあやしい振舞いを知り、それを何故か、古神道の中に封じ込めてて未来に残そうとしたのあろうか。
一体、何故なのであろうか…!!。それさえも知ることさえ出来ない我々現代人の脳は果たして発展しているのであろうか、それとも、反対に退化の途にあるものなのであろうか、まさに、大いに、悩むところである。
その前に、是非とも、調べて明らかにしておかなければならないものがある。本当に「数」は「知の走り」、すなわち、「叡知の心」を持つ「神の言葉」なのであろうか、まずはそれを確かめることから始めなければならないのである。 しかし、今まではその「指針となるもの」、すなわち、手引きとなるようなものは何も無かったが、今は違う、何と、それが日本の古神道の中に一切が隠され眠っているのが発見されたからである。また、それをサジストするような古文書さえも見出されているのである。それが最近話題になっている「カミフミのコトトギぎ」であり、超古代文献である「先代旧事本紀大成経」の中から見出された。人類必見のものであり、未来に生かすべき古代の「叡智物語」でもあるのである。 それが、最近では、「神の学問」の大成集として、人々の関心を大いに集めて、大変、話題になっているのである。その「先代旧事本紀大成経」の読み方は次の通りである。
「先代旧事本紀大成経」の読み方 → 「サキツアメミヨのフルキコトのモトツフミ オオイナルオシエ」
まずは順として、古神道の持つ「現実的な存在」を調査し、その内容と言うものを明らかにして行かなければならない。本当に古神道には現代知を凌ぐような「希代の叡知」が内蔵されているのであろうか…!!?。果たして、それは何らかの影響を現代知に及ぼすものなのであろうか…!!?、果たしてそれは如何なる形で残されているのであろうか…、 疑問は尽きない…!!!。
それを調べるための最もいい教本(テキスト)となるものが古神道の持つ「カムナガラの道」、すなわち、日本人の大好きな、あの「ひふみ九九算表」なのである。
なぜなら、そこには現代科学知には無い素晴らしい「天与の叡知」が数多内蔵され、知らない形、見えない姿で天地の歌をひそかに歌っているからである。
ただ、数千年と言う長い間に、それは完全に忘れられ、人々の脳裏から姿を消し去られたものであり、その後、ようとして行方が判らなかったものである。
それが古神道の秘髄と言われているあの失われた「カムナガラの道」であり、最近になって発見されたものである。その正体が、すなわち、あなた方、幼い時からが口ずさんでいる、あの「ひふみ九九算表」なのであり、あなた方は馴染みのものである。。
たしかに、現代の「九九算表」は我々には馴染のものであるが、特別には面白味もさらさら無くただ声を張り上げて暗唱していただけであり、苦痛すら感じていたものである。そこに面白い形で話しかけている無上の叡知があるとは誰も知らなかったのであり、想像する者もいなかったのである。それだけ巧妙に真実が隠され、人々の心を欺いて来ていたものである。
それが我々の持つ「九九算表」であり、現代数学的にデフォルメされた、異形のものなのである。要するに、本来の「ひふみ九九算表」をつまらない姿に変えて(デフォルメ)して、人々欺いてきたものなのである。
一体、何故複雑な形に変え、内容を隠すことにしたのであろうか、…!!?。
やはり、そこにある「秘密」が明かされては困る、人に知られては困ると言うことなのか…!?。
我々はその答えはこれから尋ねて探し出さなければならないのである…!!。とにかく、これは日本民族に与えられた宿命であり、日本人以外には解くことが叶わないものであることは是非とも知って貰いたい。
今のところ、その一切は藪の中であり、これからその転末の秘密を一切を紐解かなければならないのである。恐らくは、「隠さなければならない事情」と言うものがそこにはあったのであろう。
先月は、紐解いた「ひふみ九九算表(10×10)」に組み込まれている「3×3」の次元表の内部解析を行い、それのすべては母体である「ひふみ九九算」とまったく同じ本質は0を持っていることを証明したのであるが、何せ、予定紙数がオ-バ-しそうになったの、それに続く調査の次第はやむを得ず順延して今回に持ってきたのである。今回も宜しく存分に御賞味下されたし…!!。
これも同じく世には未だ無い「珠玉の逸モノ」と自負している次第である。言葉等は何もいらない、ただただ「数」を読み、そこにあるべくしてある「数のリズム」、「数の旋律」を読み解きながら考えるだけでいいのである。
すべては淡々と語られ、同じような答が延々と続いているが、一体そこのには何が語られ、何事が囁かれているのであろうか…。それはすなわち、すべては真実であり、疑うべからずとの神勅なのであり、真理そのものであることを証明するための手法なのであろうか…!!。
要するに、それは何回も同じ答が繰り返されることにより、真実であることを感じ取るべしと言うことであり、夢、夢疑うべからずと言っているのであろう。それが、何時もの「神」の流儀、常套手段であり、最も効果的な魂の覚醒手法であるからである。覚えていて欲しい。
さあ今月も、先月と同様、「ひふみ九九算」に組み込まれている「3×3」の次元表の内部解析を行い、更なる「奇怪な(あやしい)数の振舞い」を見て見よう。その上で、何を語っているのかを検証しなければならない。すべては自然の手の中に握られているものであり、人間の手は一切触れていないものである。今回から、この「ひふみ九九算」を称して、「カムナガラの道」と言うことにしたい、これはある古神道を長年調査、発掘して来たある由緒ある神社神主からの進言によるものである。
下に掲げた「3×3」の次元表は先月と同じような結果を持つものであり、すべては「ひふみ九九算」の中から選び取ったものである。これらはすべて先月の続きのものであり、同類的な「数の物語」と言うものである。
また、その「3×3」の次元表はこの「ひふみ九九算表」の中には全部で横8×縦8ヶ、すなわち、64け存在するものである。 また64ヶの一つ一つが縦と横の∑の0を持っているので、ト-タルでは64×2、すなわち、128ヶの「0の相」を持っていることになるのである。
要するに、甚だ簡単、単純な計算であり、これらの表の縦と横の数列の足し算(∑)の答を出すだけである。 また、その計算を行いながら何故、このような計算答が現れて我々の頭を悩まし、心を苛(さいな)ますのかを考えて欲しい…!?。とにかく、これらの知は未だ誰も知らないものであり、初めて世の中に紹介する珠玉の「神の数学物語」の一片である。 なぜなら、すべてに369(0)が現れて0に帰してしまうと言う結果になるからである。
出来る限りの人知を尽くして、この「神の秘密」の答を見出して貰いたい、それにより我々人類の未来は大きく開かれ、歩むべき方向性も決まって来るからである。私はあなたの力にただただ期待するだけであり、望みを託すだけなのである。
まあ、これは先月の続き、すなわち,何らかの連続性と意味を持っているものと考えなければならないものである。
また、計算上、どのように0と9を用いるかについては(2006年3月の「神の法陣(3)」の「①0の置き方」を参照して貰いたい。
さて、このあたりで止めておく、何処まで行って同じ0、3、6が現れて何かを囁いていることはお判りであろう。まことに「数」は面白い内容、不可思議極まりない姿を持つものである。
ここには3、6、9(0)の不可思議な数が現れて、それらすべての加算(∑)は「0の世界」の存在を指し、すべては最後には初源に還って丸く納まるのであると囁きかけているのである。
すべての数が一様に口を揃えて「カムナガラの道」の持つ摩訶不思議な「369数の表れ」を歌い、そこにある極限の何事かをひそかに囁いているのである。
何故、すべては3、6、9(0)の数の現れなのであろうか、この3、6、9(0)の数の現れとは一体どのような意味を持ち、どのようなことを語っているのであろうか…!!。
それは昔からいろいろと噂されてはいるが、未だ誰も知らない…!!。考えてみるとまことに不思議な数である。
「ミロク」とは数で言えば、3、6、9(0)であり、まことに意味の深いものは3、6、9(0)の数「数言葉」であると昔から噂され語られているものである。
また、最近の西洋の有識者達からの報告でもこの3、6、9(0)のヘルツ音は高次元、宇宙意識とつながる「数」として有名であり、人々はソルフェジオ周波数と呼んで大きな話題になっているようである。これらの数が 宇宙意識と共鳴するとは、まさに奇奇怪怪な数である。 しかし、古神道にはまったく同様な「ソルフェジオ数列」が全般にわたって存在しているのであり、更にはこれを遥かに超越している「アマテラス」と言う驚くべき周波数が存在しているのであるが、それは誰も知らない…!!。それは私だけが知っているものである。別に、威張るわけではないが…!!。
この宇宙意識とつながる「数」、すなわち、3、6、9(0){ミロク}の出現、それは一体何を語るものであり、何を我々に示そうとしているものなのであろうか…!!?。
もっと、ハッキリ言えば、古神道の神髄である「カムナガラがの道」を「神の法陣」の手法を用いることにより、そこには素晴らしい「ミロクの世」が出現するのである……!!!!!。一体、これはどのようなことなのであろうか…!!!。私は夢を見ているのであろうかと一瞬、思ったくらいであり、気は確かであろうかとも思ったくらいである。もし、誰か、根気のある方が望むならば、その過程を伝授しよう、何も難しいことではない、ただ、2~3時間の息詰まるような時間に耐えきるような根気と洞察力がある方ならば、誰でも出来るはずである。要するに、比較的簡単な始末なのであるが、老人の私には甚だ面倒くさいことなのであり、結果を知ってしまった今では、興味さえも失われてしまったのである。先を急ぐ老人とは、えてしてそのようなものなのである。
果たして、これは宗教家達の待ち望んでいる「ミロク」の世の到来を予告するものであり、そのさきがけとなるものなのであろうか…!!?。ようするに、私は古神道の神髄であるこの「カムナガラの道」を「神の法陣」で処理すれば、そこには驚くべきミロクの世界が開けると言うことなのである。それはまさに想像を絶する「素晴らしい世界」である。折があれば、その中にでも、あなた方に紹介して、ジックリとご判断を仰ぎたいと思う。
予言書によると、古い価値観が崩壊して世の中が混乱する時が「ミロク」の世の始まりであり、「新しい世界」の誕生を意味するものであると言われている。
要するに、遥か古い時代の予言言葉の一つが、現実味を持ってそう囁いているのである。 さて、さて…!!!。
今、何となく、現在の世界の情勢を見ると、とても常識では考えられないおかしな具合になっている。特に、この1~2年の世界の情勢を見ても甚だ混沌とし、経済は荒れに荒れて人心は荒みきっているような状態が続いている。すべての国々は一触即発の危険を抱えながら隣の国々と睨み合っているような状態である。人によっては第三次世界大戦勃発の危惧もあると言っているようである。
まさに、それは予言で言う「ミロク」の世の始まりの世相であり、新しい秩序を持つ「精神世界」の誕生の予兆の始まりと考えてもいいなのかも知れない…!!!。
確か、釈迦の没後、五十六億七千万年経つと仏滅の世となり、次いで弥勒みろく菩薩が現れて「新しい弥勒の世」を造り給うと言われているのも気になる。
調べて見ると、五十六億七千万年とは「神の数学式」で計算すると5,6,7で一桁化すると18になり、0になることであることが判る。
要するに、お釈迦様は遥か後の世の年代が一桁化した計算が0になる時が「ミロク」の世の始まりと言っているのであり、今年は2016年で、一桁化すると9であり、0になる当たり年になる時である。要するに、369ミロクの持つ0と共鳴して何か由々しいことが始まると言っている、まさにその時がこの2016年なのであり、その初めの年なのである。 さて、これから始まる動乱の世の中、すなわち、「ミロクの世界」に至るまでに辿る「動乱の世界」とは…!!??。
まさに、お釈迦様の予言が本当なら、今年はその入り口となる年であり、荒れ果てた末に、世の中の価値観が180度変わり、最後には「ミロク」に納まり、精神世界と言う「ユ-トピア世界」が出現することになると思われるのである。
恐らく、それは最近言われているアセンションの到来、すなわち、「次元上昇の世界」を指しているのかも知れない。
それは2020年あたりから必ず始まると言われているものである。
確か、この前お亡くなりになった船井幸雄氏もそのことについて熱心に語っておられたようである。氏の言葉によるとやはり2020年までには到来すると言っていた覚えがある。残すところはあと4~5年くらいか…!!。
では、もう少し考えて見よう、確か「ミロク」の世の到来が近づいて来ているぞと「ひふみ神示」の中でも天明さんも言っていた言葉にもあったはずである。
それがすなわち、この「カムナガラの道」がこの世に復活して再び「ミロク」の歌を歌い出すと言っている言葉である。 また、それは同時に、「カムナガラの道」を持つ神道はいよいよ世界に旅立つ時が来たことを意味しているものである。 故、太田龍氏は言う「日本神道」は否応なしに「世界神道」に、「宇宙神道」に成長せざるを得ない、そうならなければ、日本神道は生き延びることは出来ないと…!!。 今、現にそうなりつつあるのであるが、誰も知らない、誰も信じようとはしない…!!。 特に神道関係者は頑固にしきたりを守るだけであり、新しく見出された事実などは完全に無視するだけである。彼等はただただ「殻」に閉じこもるだけであり、決して新しい声を聞くことはない。
恐らく、彼等は古いしきたりを持つ日本神道と共に滅び去る運命と覚悟を決めているのであろう。 而(かく)して、目覚めた古神道は「カムナガラの道」を抱いて、新しい形で世界に羽ばたくのであり、世界から歓呼の声で迎えられることになるのである。 しかし、果たして、誰がこの由緒ある古神道をめざめさせて世に飛び出させることが出来るのであろうか…!?、それは最早生気のないシャレコウベ同然の神道家では荷が重すぎる、かくして古神道を世界に出すのはあなた方日本民族の大いなる熱意であり、その希望と言うことである。そのためにも、是非、この「カムナガラの道」の真髄を読み取り、そこにある「自然普遍の叡知」を何回も咀嚼しながら学ぶことを心に置いてもらうことを願うだけである。
それが「ひふみ神示」で言う「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」の件(くだり)の言葉の意味でもある。
この本当の意味については今まで誰一人として知らなかったものであり、想像すらしなかったものである。それも当然であろう、今の今まで、世界の宗教家達から馬鹿にされ侮(あなど)られていたこの神さびた日本神道が世界の宗教を遥かに凌駕する素晴らしいものに変容して、改めて世界に君臨することになると言っているのであるから…。 恐らく、それを言い出している今の私も同様に侮蔑の目で見られていることでもあろう。 ハハハ-、それも当然なことと覚悟はしているが…。
確か、世界の宗教家は、「日本神道」には作り上げた主がいない、そのうえ、ハッキリした教義も無い、 それに比べるとわれわれの宗教は主が存在し、その主の教義のすべてはシッカリと伝えられているものであると言っている。要するに、日本神道は甚だあいまいであり、宗教の名を名乗るのはおこがましい限りであると、散々馬鹿にしていたのである。情けないことに、それに対して誰も反発は出来ず、涙を飲んで佇んでいただけである。
しかし、私は逆に言いたい、「あなた方の宗教は歴史の示すように人間の作り上げたものであり、その言葉はいわば、人間知の集体である。それ故に、100%正しいものとは言えない。しかし、日本神道は「カムナガラの道」が示すように、明らかに「神」の手になるものであり、しかも「神」の叡智の結晶と言うものである。その本質を知りたくば、是非、「カムナガラの道」を修めて欲しいと……。恐らくは、その結果結末のあまりの素晴らしさに吃驚仰天して、矛先を収めることになるであろう。
要するに、それもよく考えて見ると、当然のことでもある。何故なら、世界の諸々の宗教は人間がつくったものであるのに対して、日本の古神道は神の手によりつくられたものであることが解るからである。だから、神道には教祖がいない、教本が無いのは当然であり、煎じつめれば「神」がその教祖と言うことになり、その教え、すなわち、教本、教義と言うものが古神道にある「カムナガラの道」なのである。
今まで、そのことを自信を持って人前で断言する日本人は誰もいなかったのである。それ故に、神道は外国の宗教家達に教祖がいない、教本が無い、と散々馬鹿にされ、侮蔑されて来た経緯があったことを再三申し上げて来たのである。逆に考えると、教祖がいる、教本があると言うことはそれは人間が作り上げたものであり、日本神道のように教祖がいない、教本が無いのは「神」が作り上げたことの何よりの証拠となるものなのである。、
もっとも「神」が教祖であることは日本人の目には明らかであり、常識でもあったのである。それ故に「神」が教祖であるとは誰も言わなかったのであろう…。まあ、それも日本人としては無理からぬことであろう。
何故なら、神道では「言挙げせず」と言う不文律があり、神道に秘められていることがら、すなわち、神の「真理」や「秘められた叡知」は決して人々に明かしてはならないと言う厳しい掟があるからである。
しかし、これも奇妙な話である、何故なら、「神」を祀る神道が、なぜ「神」を隠そうとしているのであろうか、そこにも論じなければならない大きな疑問が残っているのである。
恐らくは、自己保身、すなわち、「神」の真実を他人に奪われないため、あるいは一子相伝の秘事として大切にした挙句の行為であり、世にはばかるための一つの儚い小細工であったのであろう。
この際である、よく考えて見よう、仏教は仏陀が開祖であり、キリスト教はイエス・キリスト、イスラム教はマホメットが開祖であることは衆知のことである。
すべての宗教はごく最近(2000年~3000年)以前あたりに派生したものであって、開祖は皆、人であり、我々とまったく同じ人間なのである。それが世界の常識であり、誰でも知っている当たり前のことでもある。
ところがである、神道だけが開祖が無い、それは遥かな太古から営々と伝承されて来ている「神の道」であり、自然神と共に歩む古神道と呼ばれているものだからである。 その神と共に歩む道、それが「カムナガラの道」であり、「神の数学」の発端となった大変由緒のある言葉である。
また、それは古来から日本人の心の柱となって自然とつながっている大切なものでもある。要するに、そのアイデンティは自然と共生する形、いや、そうではない、自然優位を第一に置いて、その下で生活しようとしているものである。
それに対して、人の作り上げた西洋の宗教はすべて人間優位の自然観を持つものであり、最初から、聖書にある「地を従わせよ…!!、生きもののすべてを支配せよ…!!」の言葉をモット-に自然を見下し、手当たり次第に自然を簒奪して来たのである。
要するに、日本と西洋の宗教形態は最初から完全に正反対、両極的、相対的な存在なので、決してこの両者は結び付くことは永遠に出来ないのである。
その日本神道を捉えて、外国の宗教家達は開祖が無いから明らかに不合理なものであり、不審なものである、教本が無いから宗教にあらずと散々、世迷言を並べ立てて責め立てて来ているのであるが、それに対して、神道家達は一言も反論は出来ず、ただ茫然として俯(うつむく)くだけであったのである。 要するに、余りにも勉強不足で、あるべき知にもまったく疎く、その上新しい知の獲得、発展させることも無く、ただ無為に過ごして来たことが災いしたのである。
それもやむを得ない当然の帰着である。何故なら、彼等は神道のあるべき真実には背を向けて、仏教や儒教と一緒になって神道を改ざんして変形させ、あるいは意に沿わなければ己の意のままに変容させて来ていたと言う歴史経歴があるからである。 それが、奈良時代の神仏習合であり、本地垂迹説の類である。また、それは明治時代になって廃仏棄却の言葉でもある。要するに、利害が一致すれば協力し合い、不一致の場合にはお互いが叩きあって相手を攻撃して来た歴史があるのであり、それらは教科書にも載っている通りである。
まさに、廃仏棄却や神仏習合等の言動は悲しい事実であり、仏教の渡来以来度々行われて来た驚くべき歴史の一コマなのである。要するに、日本神道は古来から神道の真実を守らず、世相によっては外来思想と結び合ったり、争ったりして本来のあるべき日本の真実を失い、今では単なる神社の守り人としての存在に堕してしまっているのである。それが今日における日本神道の姿であり、まさに消えんとするばかりの空蝉のような儚い姿なのである。
だから真実を知るには古来の神道、すなわち古神道に戻らなければならないと言っているのであり、現在の日本神道に天地自然の知、すなわち、「神の叡知」を求めようとしても無駄であると言っているのである。 さてさて、神道を大分貶(おとし)めて来たが、これらは日本人としての日本神道の再生を願っての応援言葉であり、励ましの意味として受け取って貰いたい。 特に、これから神官の位を継郷とする若い神官たちに申し上げたいことである。それは「治に居て乱を忘れず」という言葉であり、常に十年先、二十年のことを考えていかない限り、これからは生き残ることは出来ないと言うことである。
さて、気分一新のために少々面白くて、おかしい、そして不思議極まりない話、それでいて十分に真実味のある予言の存在を紹介しておこう。 呵々大笑あれ、そして一考あれ…!!。
要はこれからの日本人は世界を飲み込む位の気宇壮大な心を持たなければならないのであり、西洋世界何モノぞとばかりの大心をもってこれからの世の中を律していく気持ちを持ってことに当たるべしと言うことである。
さて、ここで予言について一つ加えて置きたいことがある。まあ、あまり怒らず我をはらず気楽に読んで、笑ってもらいたい。以前にここに掲げたことのあるものであるが、今でも、どうにも不可解なものである。
これらの内容はすべてノストラダムスの予言書である「黄金の世紀」からの引用であり、その解読者のは歴史言語学者であり、言語復元史学会を束ねている加冶木義博氏である。まあ、一つ、お茶飲み話として気楽に読んでもらえるとまことに有難いと思う次第である。 それにしても、500年前の西洋人が日本の国を名指しして事を構えたというのは不思議極まりないことであり、。それだけでも十分に歴史に残ることでもある。