8月11日 宮古市田老地区
昨晩からの雨は昼前には止んだ。
今日は移動せず、周辺の震災関連の場所を見学する。
ここ田老地区を含む三陸地方は、世界一の津波地域と言われる。
東側にプレートの断層地帯が南北に伸び、大、地震が頻発する地域であることに加え、リアス式海岸という入り組んだ地形が、津波の影響を大きくするためだ。
そして、「津波太郎(田老)」と呼ばれるように、ここ田老地区の被害はその中でも突出している。
過去には、
1611年(慶長三陸地震)村がほぼ全滅
1896年(明治三陸地震)死者1859人
1933年(昭和三陸地震)死者911人
1934年 防潮堤工事開始
(戦争により、一時中断)
1958年 防潮堤完成(その後、増築)
1960年(チリ地震)被害なし
津波は防潮堤まで達せず
そして、
2011年(東日本大震災)
高さ10mのX字型防潮堤を津波が乗り越え、死者行方不明者は約200人。防潮堤の海側部分は崩壊した。
田老地区では現在、前回の震災で崩壊した部分に新たに防潮堤を建設中であり、その規模は既存のものをはるかに上回る。
また、前回ほぼ無傷だった側の防潮堤は道の駅のすぐ海側にあり、その上を歩いて周囲を俯瞰することができる。
実際に歩いて見ると、震災後にコンクリートで上部にカサ増ししているが、わざと継ぎ目をつくって伸縮性のある素材を充填していることがわかる。
振動を吸収するための一種の免震装置なのだろうか。
さらに海側には10mを超える防潮堤がすでにせり上がっているが、計画ではその南北に翼を広げる形で、より大規模な防潮堤が建設予定である。
のり面を含めると幅は50mを超え、「万里の長城」と呼ばれた既存のものを大きく上回る厚さになる。
そのさらに前方には、田老湾の瓶の口のような狭い視界から太平洋が望め、ここから高さ10mを超える津波が襲いかかれば、想像を絶する物理的圧力で水の壁が襲ってくるであろうことは容易に見て取れた。
歩いてきた防潮堤の屈曲部から海側に降り、工事現場の脇を通ってしばらく行くと、有名な津波遺構である「たろう観光ホテル」がある。
下は、被災前のホテル。
6階建てで、2階までが津波に完全に流され鉄骨が剥き出しになっているが、主要な構造体である鉄骨自体は損傷しておらず、「倒壊させず居住者の生命を守る」という耐震設計の最低限の目的は達していることがわかる。
膨大な経費を投じて建設されるこうした防潮堤が、時に我々の想像を遥かに超える自然災害の脅威に対して万全であり、防災対策として正しい選択なのかについては、防潮堤でなく地区のかさ上げを自ら選択した宮城県女川町のような例もあるので、異論があるだろう。(Y)
東日本大震災では、地殻変動で地面が移動したと言われていたが、
こんなに動いていたとは‼︎
私の生まれ故郷千葉県でも、九十九里浜の形も変わり、深くえぐれてしまったようだし。
つくづく自然災害は恐ろしさを思い知らされた。この辺りでは、震度3でも大津波が襲ったという記録がある。
東京で真夜中に震度3の地震があったとしても、間違いなく大した事はないと思い、すぐに寝入ってしまうだろう。
一方、こちらの地区では、震度4になると津波を警戒して避難準備を始めなければならない。
今回、被災地域の住民の方々が居住地の高台移転を決断したことは苦渋の選択であったに違いないが、これまで繰り返されてきた津波被害の残状を考えると正しい判断であるように感じた。(K)