メモ 23/8/24
最近、これと言った命題がないことに焦っている。それを掴むために書いたことをまとめてみる。なにか見つけることができるだろうのだろうか。あわよくば、なにか握りたい。
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身近にある鉄の印象は凶器としての危ないイメージが強くあるかもしれない。もしそうなら、金属バット、ナイフ、鉄パイプ等ドラマや実際の事件で、危害を加える手段として頼れる硬くて強いものだからだろうか。
鉄素材を加工するには、その暴力的な強度を従わせる工業的な技術・技法が必要になるとおもわれる。そうした工業的な仕草から、日常的なツールやオブジェクトとして鉄素材は生活に多用されている。それは社会の中で鉄の強度、性質を頼りにしていると言えないだろうか。
頼りにならなくなった、用途性を失った鉄は人との関係性を失っていく。
素材側からの価値提供が無いのであれば、こちらから見つけてやるしかそれら、ものの居場所はなくなっていく。使う/使われるのような二分された関係性には暴力的な強引さが付きまとうが、素材と私の間にも実際、現実的にはそれしかないのだろうか。物語のような切なさにならないためには、どうしたらいいのだろうか。
規格品としての矩形の鉄の板を手で曲げていく。
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素材と作為の距離、デザインした形は硬度によって形が違うところに運ばれていくーー
折り紙が好きだった。
折り方を教えてもらったり、本で読んだりして複雑なものを折れるようになっていった。そうなってくると、折ることが楽しくて、自然に作れていたなんでもない形が許せなくなってくる。
意図して計算されたかたちを折っていくことで、一方では取り留めもなく自由に折れなくなっていった。意図した形は正しさを伴って出来上がってくる。この、強引な引力にひかれ、細かく丁寧に正しく折り目をつけていく。
自然に作れていたときにあったその自然はどこに行ったのだろうか。
予想のできない計算不可能なものを自然とするならば、自身の意図していない出来事と出会うことは、無責任で自然に擬態したような懐疑的な出来事なのかもしれない。自然を私の無責任な部分の身代わりにしている気がして仕方がない。
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ここ数年ほど、一連の方法に基づいて制作を行なっている。それは鉄素材の本来持つ色彩や質感をつくるために、火(焼入、溶接、溶断)を使わず、手を中心に身体で矩形の板を曲げてかたちを作っていく。
素手で作ることでかたちがゆるくできていく。
工業技術を使わないことは言い訳がましく下手さを演出する。素手で造形するとき、技術とも言えない慣れのような手つきは、いやらしく趣味的な雰囲気を纏っている。
下手な仕事は、自身の意図していない出来事と出会う。それは計算不可能なものとして自然に擬態した雰囲気が漂うようにおもう。
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意図した形は、素材の応力によってノイズが乗って現れる。
そこで大切な要素として「愛着」と「誤配」が現れてきた。
工芸の仕事から出発した私は、工芸的なものが出来ないことの中でさまよっていく。
表面の仕上がりの為に、火を使わずにかたちをつくる。冷たく硬い鉄は素手では細工ができない。できないことが工芸的なものを解体して、手仕事、素材感、品らしさが消極的な選択肢として残ってきた。
表面をきれいに保ちながら、手を中心に体で曲げて造作する中で、工芸的なものを「誤配」してきたのかもしれない。
出来なかったことによる「誤配」。偶然的な連続の中で、その根拠のない出来事をいとおしくおもう。例えば、街での偶然の出会いを運命のような強い引き合う力があったように感じるように、またはクレーンゲームでとれたぬいぐるみのように、偶然の出来事は、より強く出来事を意識させられる。それはまるで「愛着」のように根拠のないまま、偶然であればあるほど強くなる。
自身を身寄りにして立ち現れてくる偶然の連鎖、出来なかったことによる「誤配」には強い「愛着」が伴っている。それは制作の中で普遍的で取るに足らない表現以前の景色なのかもしれない。
そういった情けのないものをモチーフに、技術や技法で装飾して「みれるもの」に擬態しているだけかもしれない。
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!!!
もしかしたら"鉄"を使いたいわけではないのかもしれない。鉄の表面的な、いつでも正しく酸素を空気中から掴み取って錆びる、その正確な反応。鉄を塗膜塗装で窒息させないと止まらない錆のどうしようもない強力で物質的な反応、そう言うところから、何か見つけたい。何か言葉にできればと、おもう。
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工芸的な仕事から出発した私は、表面の仕上がりに関心から、火を使った造作は鉄の組織が変質してしまい、仕上がりに問題が出るため敬遠することになる。
また、造形も工芸的な超絶的な技法、技術には距離を強く感じていたため、それとは違うかたちで工芸的なものに関与できないかと考えていた。
手にこだわっているのは工芸的なものを空想しているためかもしれない。それら2つの問題から、手を中心に体で曲げて造作することになった。
工芸性を「誤配」した結果、出来ないことの中でさまよっていく。
さまよいながらの制作は、出来ないことの中で表現の方向付けをしてきた。
この意識は制作に強く通底していて、それを考えるたびに自身の制作が情けなく、まずしいなかにあるような感覚に満たされていく。それは自身の意志で選びとった感覚が希薄なまま「誤配」した先がどこなのかたずね歩くように制作を続けているからだろうか。
出来ないことの中で方向付けして、その偶然性の連続の中で、根拠のなさに自信をなくす。しかし、出来なかった事による誤配には強い愛着が伴う。
工芸系の文章で使われるいとおしさではない、つよく引き合う力は偶然性を引き受けるためのひとつの方法の様に思う。
自身を身寄りとして、「愛着」の中で立ち現れてくるそれは文脈に投げかける方法を見つけられていない私の制作を肯定してくれる。豊かなあたたかさの中で優しく弱く見つめている。