ちょっとむかしのことを書いてみた。
私がフランス菓子を本格的に習った場所は、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌという、東京・代官山のお菓子屋さんです。
お菓子屋さんでありながら、同時に、フランス菓子の教室も開いていて、お菓子のプロも含め、全国から多くの生徒が集まってくる、そんな場所でした。
イル・プルーに入学する前、33歳の時、手に職をつけたくて、製菓学校の夜間部に入って、
昼間は老舗のお菓子屋さんで働かせてもらったりしながら、 学校でも職場でも自分より年下の先輩たちに、気を使われたり、叱られたりしながら、 2年間。
それが、製菓学校卒業間際に、次女がお腹にいることが判明、 でも、まあ、そこが自分のいいところだとも思うんですが、まったく挫折感はなくて。 計画はすべて中止になって、めでたく産休?に入りました。
たぶん、自分であのままお世話になっていた老舗のお菓子屋さんの職人になったとしても 体力的にも精神的にも、そう長くは続かなかったと思います。
製菓学校でも職場でも、たくさんのお菓子を作ること、安価な原材料で、それなりの味に仕上げること、それがプロのパティシエなんだ!と、なんとなくそんな感じを受けていて、
私がパリで3年間過ごした間に食べたフランス菓子の、 すべてが凝縮されたようなコテコテ感、多様性はまるでない、 当たり障りのないお菓子たちに見えました。
飛び切りおいしいお菓子は、どこにいったら食べられるんだろう? どこにいったら作れるようになるんだろう?
もやもやした永遠の謎みたいなものに、取り囲まれていました。
そして次女が生まれて、ちょっとすると、やっぱりまたお菓子を作りたいなあ、となり、ぼやいていたら…。
そこに登場するのが、某タイヤ会社のガイドブックで星を獲得している、今をときめく関西フレンチの「ラ・カシェット」の吉岡シェフ。
彼が、「おまえ、もうここまできたら、イル・プルー行くしかないやろ」とイル・プルー行きをすすめてくれたのです。
吉岡シェフは、夫の留学に帯同していた時、パリで最初に友達になった日本人でした。
そのころ、パリで出会う日本人は、キュイジニエ&パティシエ、モード関係、アーティスト、この3種類のどれかに属している人たちが多かったのです。 吉岡シェフたち、キュイジニエ&パティシエ軍団のみなさんには、ずいぶんいろいろおいしいものを食べさせてもらいました。
今の自分からは信じられない話ですが、パリへ渡った頃の私は、今より十数キロ痩せていて、料理もお菓子も、それほど興味もなく、自分で何かを作りだそうなんて、 夢にも思っていませんでした。
そんな時、吉岡くんや、今考えたらものすごいシェフになっちゃった人たちと遊ぶようになってから、イル・プルーの存在を知ったのです。
彼らがみんな、ある人の本を持っていたのです。大きな本だったり、水色の厚い本だったり、その本の著者の名前は、弓田亨。当時は、代々木上原にあったフランス菓子店「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」のオーナーシェフ。 本を開くと、ものすごく細かい数字や、方程式みたいなものがびっしりと書かれていて、意味が全然わからない。
「この本は何?お菓子の本なの?」と吉岡シェフに聞くと、
「この本書いた人はな、すごい人なんやで!俺たちが目指してるもんの、もっともっと上の方にいてはる人なんやで!」
今ではおじさんになってしまった吉岡シェフも、キラキラした瞳で、そんなこと言ってました。 あの頃、みんな若かった(爆)
そして、それから10年後、私に、そんな憧れのイル・プルーに習いに行けと・・・。
その瞬間、これから、どうしたらいいのか迷っていた私は、雲の上だった学校、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの「フランス菓子本科」コースに通うことになったのです。まさかの展開でした。