“只見中線”乗車(只見線全線開業52周年) 2023年 夏
1971年8月29日の国鉄只見線全線開業から52年を迎えた今日、最難関工事区間「六十里越トンネル」を含めた“只見中線”と呼ばれた只見~大白川間(20.8km)を、JR只見線の列車に乗って往復した。
現在のJR只見線(旧国鉄只見線)は、会津若松~会津坂下間が1926(大正15)年に開業した後、“第二次世界大戦”、“国鉄の巨額赤字”、“只見川電源開発”など経緯をたどり、1971(昭和46)年8月29日の全線開業(135.2km)に至り、今日52年目を迎えた。
国鉄只見線とは、もともと小出~只見間(46.8km)の事を指していたが、第二次世界大戦(太平洋戦争)の影響で大白川~只見間(20.8km)が工事中断を余儀なくされた。この大白川~只見間が“只見中線”として、戦後20年に工事が再開され、竣工と同時に先に会津若松から只見まで延びていた国鉄会津線(只見方)と併合し国鉄只見線として営業されることになった。
この経緯について、“只見中線”の建設を請け負った当時の日本鉄道建設公団の後継組織である鉄道・運輸機構の広報誌に以下のように記されている。*以下出処:JRTT 鉄道・運輸機構 広報誌「鉄道・運輸機構だより」2023 Winter号 p30より一部抜粋
Railway Story ー鉄路を拓いた熱き想いー
只見中線の建設と只見線の全通
小野田 滋(鉄道総合技術研究所)
福島県の会津若松を起点として新潟県の小出までを結ぶ延長135.2kmの只見線の建設は、福島県側と新潟県側の両側から進められ、福島県側は1923年に会津線(または柳津線)として会津若松・会津柳津間(33.3km)の建設に着手し、1928年に全通した。・・・(中略)・・・1941年に会津宮下まで開業させたまま戦争の影響で工事は中止された。
一方、 新潟県側は、1935年に只見線として小出・只見間(46.8km)の建設に着手したが1942年に小出・大白川間を開業させた時点で、やはり戦争の影響により工事は中止された。
戦後になると、田子倉発電所の建設工事のために会津川口・只見間(27.6km)を電源開発専用線として建設することとなり、・・・(中略)・・・専用線は発電所の完成後に国鉄へ継承され、1963年に旅客営業を開始した。残る只見・大白川間(27.6km)の建設は設立されたばかりの日本鉄道建設公団 (現在の鉄道・運輸機構)によって只見中線という建設線名称で行われることとなり、・・・(中略)・・・1965年に着工した。
只見中線で最も難工事と目されたのが、 県境を跨ぐ只見・大白川間の延長6,359mの六十里越トンネルの建設だ。・・・(中略)・・・只見中線は 1971年8月29日に全通し、日本有数の豪雪地帯として知られる福島・新潟県境の新たな交通路として住民の生活を支えた。
・・・(以下、省略)
“只見中線”の開通(=只見線の全線開業)について、1971(昭和46)年7月30日の地元紙・福島民報は一面で『観光開発へ“発車”』と見出しをつけ、次のように報じていた。
(上掲記事引用)
福島民報 昭和46年(1971年) 7月30日(金曜日)
国鉄只見中線 来月29日に開通 観光開発へ“発車”
奥会津 五十年来の夢実る
奥会津開発のキメ手とみられていた国鉄只見線(只見中線、只見ー新潟県大白川)の工事が完了、来月二十九日開通式をあげ、営業運転にはいる。国鉄はきのう二十九日只見線の新ダイヤを発表、これによると上野ー只見間が急行で結ばれ首都圏との時間的距離は四時間もスピード・アップされるのをはじめ、臨時もあわせれば十二本のダイヤが組まれる。この路線は国鉄合理化策として廃止勧告を受けており、開通前から赤字路線となることが問題視されているため県は只見線の開通を機に尾瀬ー只見を中心とした“観光圏”を再編成、夏山とスキー場開発を軸として年間三百万人の誘客を図る新しい観光路線に育てることを検討している。地元にとっては文字通りの朗報だが、県内では只見線と同じ“盲腸線”として赤字を理由に川俣線、日中線、会津線(滝ノ原方面)が廃止勧告を受けたまま。特に滝ノ原から伸びるはずの野岩線は工事がストップするなど政治問題化しており、本県の国鉄網は明暗二様をみせている。
また、上掲記事では、“只見中線”について次のように記されている。
(同上記事引用)
只見中線は南会津郡只見町から越後山脈を貫き新潟県魚沼郡入広瀬村大白川までの二〇・八キロ。工事は昭和十年日本鉄道建設公団の手で着工、日華事変で一時中断するなどの空白もあったが、四十年に工事を再開、六年の歳月をかけて完成した。大正九年只見線鉄道期成同盟結成町民大会から数えて実に五十一年ぶり。工事にかけられた費用は一キロ当たり二百四十五万円で総工費五十一億円、工事に従事した作業員は年間二万人を数える。工事は堅い岩盤と山合いをぬう難工事で再開から六年もかかった。
総延長二〇・八のうち本県側は六・六キロだが、六十里越えトンネルは六・三四キロで同線最長。只見・大白川間のトンネル数は十三ヶ所(一一・八一七キロ)橋の数三十一ヶ所(一・四五七キロ)と全線の六〇%を橋とトンネルで占めているのが特徴である。・・・(以下、省略)
私は、只見線の全線乗車を通して何度も“只見中線”を乗り通している。また、“只見中線”が敷設された「六十里越」の険峻さを体感しようと大白川~只見間を自転車で乗り越えたこともある。*参考:拙著「会越国界「六十里越」 2020年 紅葉」(2020年11月14日)
今日は、柳津町の「湯の岳」登山を終え、滝谷駅から列車に乗って只見駅から“只見中線”を経て大白川駅で下車し、1分後に発車する行き違い待機中の会津若松行きの列車に飛び乗って再び“只見中線”を往復する計画を立てた。
*参考:
・福島県:只見線ポータルサイト
・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)
・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年
月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー全線乗車ー
「湯の岳」登山を終えて、最寄りの滝谷駅に向かい待合室で待った。
列車の到着時刻に合わせて、ホームに移動すると、まもなく列車が入線した。天気予報通り短い時間に雷鳴がと轟いたが、雨は弱く、この頃には止み始めていた。
14:18、小出行きのキハE120形2両編成が、滝谷を出発。
直後、列車は滝谷川橋梁を渡り、柳津町から三島町に入った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス「歴史的鋼橋検索」
乗客は、平日にも関わらず多かった。ツアー客は見当たらず、全てのBOX席に1人以上の客が座ってる状態だった。
会津桧原を出た列車は、桧の原トンネルを抜け「第一只見川橋梁」を渡った。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖
平日であるためか、橋梁上で行われる“観光徐行”は行われなかったが、若干スピードを落としたようだった。この“微減速”は、この後「第八只見川橋梁」までの各橋梁上で行われた。JR東日本も、“観光鉄道「山の只見線」”の実現のため、できる限りのサービスを行っていると感じた。
会津西方を出ると、直後に「第二只見川橋梁」を渡った。*只見川は柳津ダム湖
会津宮下を出発後、「湯の岳」登頂祝いの乾杯をした。保冷剤を使ってキンキンに冷えた缶ビールを、一気に喉に流し込んだ。旨かった。
東北電力㈱宮下発電所の背後、宮下ダムの脇を駆けた列車は、「第三只見川橋梁」を渡った。*只見川は宮下ダム湖
この後、列車は滝原・早戸と二つの長いトンネルを抜け、早戸を出て細越拱橋手前で金山町に入った。
会津水沼を出発した後、「第四只見川橋梁」を渡った。*只見川は宮下ダム湖
この後、国道252号線の第四沼田跨線橋を潜り、しばらく国道252号線と並行して列車は進んだ。国道のこの区間は、道路改良工事(水沼工区)に合わせて電柱・電線の地中化が行われ、車窓からの眺望が良くなった箇所だ。
列車は会津中川に停車。駅前にある農協の倉庫には、金山町のゆるキャラ「かぼまる」が描かれた“JR只見線全線運転再開”の横断が掲示され続けていた。“JR只見線にみんなで手をふろう”条例に(2015(平成27)年3月12日施行) 係る幟もあり、金山町が只見線による観光需要創出に力を入れていることが察せられた。
会津中川を出発した列車は、大志集落の背後を駆け只見川の右岸に出て右に大きくカーブした。車窓から振り返ると、只見川に突き出た大志集落が見えた。*只見川は上田ダム湖
14:58、会津川口に到着。列車を降りてホームの端に行くと、駅舎へむかう構内踏切に遮断機の昇降機が設置されていた。列車のワンマン運転など業務効率化に関連した安全対策のようだが、JR東日本の徹底ぶりに感心した。
停車から約30分、小出発・会津若松行の上り列車が入線。キハE120形+キハ110東北支社色の2両編成だった。
上り列車とのすれ違いを終えた列車は、会津川口を出発。「第五只見川橋梁」、本名を経て、復旧工事で上路式から下路式トラス橋に架け替えられた「第六只見川橋梁」を渡った。上流直下にある東北電力㈱本名発電所・ダムは、ダムゲートが閉まり発電所側の水面が泡立っていたので、落水は全て発電に使われているのが分かった。
本名トンネルを抜け橋立地区に入ると、列車は「民宿 橋立」の駐車場北端に立てられた看板の前を通過。この看板は、只見線135.2kmの中間点を示すのもで、小出方には“ここが只見線の真ん中だ!”と記されている。
列車は会津越川、会津横田を経て、こちらも、上路式から下路式トラス橋に架け替えられた「第七只見川橋梁」を渡った。
会津大塩を出て滝トンネルに入った列車は、トンネルのほぼ中間点で金山町から只見町に入った。トンネルと抜けると只見川(滝ダム湖)を囲む、塩沢地区の雄大な景色が広がった。*滝ダム湖は電源開発㈱滝発電所・ダムによるもの
会津塩沢を出ると左前方(北)に「柴倉山」(871.1m)を眺めながら「第八只見川橋梁」を渡った。*只見川は滝ダム湖
16:11、列車は会津蒲生に停車。ホームに付属した待合室の入口には“立入禁止”の貼り紙が掲示されていた。
この待合室は、今年6月に天井壁材が落下して以来、立入禁止になっている。これを契機に、上下分離方式で只見線の旧運休区間(会津川口~只見間)を保有し管理する福島県は、当該区間の設備の点検を行い、この会津蒲生駅待合室を含め、レールなどの交換・修繕を行うという。このコストを、我々県民は“Myレール”として負担することになるが、負担ではなく投資となるようにしなければならないと思った。
会津蒲生を出発して、列車が蒲生川(真名川)橋梁を渡る際に振り返って「蒲生岳」(828m、会津百名山83座)を眺めた。
列車は八木沢集落の背後を駆け、只見線内最長の「叶津川橋梁」(372m)を渡った。
叶津川の上流側には、「浅草岳」(1,585.4m、同29座)の山頂稜線がうっすらと見えた。
「叶津川橋梁」を渡りきると、北東に“会津のマッターホルン”と名に相応しい「蒲生岳」の稜線が見えた。
16:21、列車は只見に到着。客の乗降はほとんど無かった。
10分ほど只見に停車して列車は出発し、52年目を迎えた“只見中線”に入った。
只見スキー場に通じる道を跨ぎ越えると、左に分岐する盛土が見られた。
この盛土が電源開発㈱田子倉発電所専用鉄道の跡で、約4km先の現在の田子倉発電所付近まで延びていた。開業した国鉄只見線はこの路線は使用せず、新潟県に抜けるために新たなルートを設定し敷設された。
*下図出処:日本国有鉄道 新橋工事局「田子倉発電所専用鉄道工事誌」
「上町トンネル」(225m*)を抜け、「第二赤沢トンネル」(103m*)に入る前の明り区間から、前方に電源開発㈱只見ダム(発電所)の洪水吐と、その奥に電源開発㈱田子倉ダム(発電所)の堤が見え、眼下には田子倉発電所専用鉄道線の跡が確認できた。*延長の数値は「レールは語る 只見線全通運動誌」(小出只見線全通期成同盟会)p334から引用、以下同様
路盤の傾斜がどんどんと増し、列車はディーゼルエンジンの出力を上げながら「第一赤沢トンネル」(662.5m)を抜け、「田子倉トンネル」(3,712.4m)に突入した。
4分ほどで「田子倉トンネル」を抜け、列車が「余韻沢橋梁」(88.53m)を渡ると、左側(南)が大きく開け、“只見沢入江”と田子倉(ダム)湖の中心部が見えた。ダム湖の貯水量は少ないようで湖岸が20mほど露出していた。
列車は田子倉駅跡を通過。
国道252号線と交差すると右側も開け、田子倉登山口の向こうに「浅草岳」が見えた。*参考:拙著「只見町「浅草岳」山開き登山」2017年 初夏」(2017年6月25日)
この後、列車は「只見沢橋梁」(50.72m)を渡り、“只見中線”工事の大部分を占めた「六十里越トンネル」(6,359m)に突入した。*右下画像出処:小出只見線全通期成同盟会「レールは語る 只見線全通運動誌」p199とp245
只見口から2.7km付近で福島県から新潟県に入り、列車は下り勾配をディーゼルエンジンの出力を落としながらも快調に駆けた。
7分ほどで「六十里越トンネル」を抜け、直後に「第十六末沢川橋梁」(21.56m)を渡った。
「第四毛猛トンネル」(72m)を抜けると、「第十五末沢川橋梁」(18.46m)を渡った。
「第十四末沢川橋梁」(65.24m)を渡ると、上流側に電源開発㈱末沢第2取水ダムが見えた。
この辺りから車窓の外側が曇り出した。六十里越トンネル内で湿気を含んだ空気が車窓全体にまとわり、外気温の上昇と列車内の冷房で結露したようだった。これにより「第十三」~「第一」までの末沢川橋梁上からの写真を撮れなくなった。
「向平トンネル」(190m)を抜けると、列車は減速しながら左に大きくカーブし、末沢川が合流する破間川に架かる「第五平石川橋梁」(61.06m)を渡った。
17:00、列車は大白川に到着。私は急ぎ降りて、向かい側に停車中の会津若松行きに飛び乗った。
会津若松行きはキハ110の単行(1両編成)で、車内にはインバウンドを含め10名ほどの客が居た。
17:01、列車は大白川を出発。折り返しの“只見中線”乗車が始まった。
この区間では、車両の前面窓からの風景を中心に見る事にした。
乗っていたインバウンドは白人の3世代の家族で、話している言葉はスペイン語かポルトガル語のようだった。二人の息子さんの父親らしき方は、スマホにマイクを取り付け、車内を歩き回り写真を撮り続けていた。
列車は国道252号線の仲宿橋を潜り、「第三末沢川橋梁」(42.45m)を渡った。
“只見中線”の新潟県側はトンネルが5本しかないが、豪雪地帯ということでスノーシェッド(雪おおい、雪崩おおい)が13箇所設置された。*他、雪崩(止)柵が4箇所
列車は「金ヶ沢橋梁」(18.46m)から「第十末沢川橋梁」(71.49m)を渡る。末沢川には16基の橋が架かるが、その他の沢に5基ある。
列車は、“只見中線”の新潟県側の上り坂をディーゼルエンジンを豪快に蒸かしながら順調に駆け、「第十五末沢川橋梁」に差し掛かった。前方には「第四毛猛トンネル」、「第十六末沢川橋梁」そして「六十里越トンネル」大白川口が連続して見えた。
この「六十里越トンネル」大白川口の出入口には、国鉄只見線全通に強大な政治力は発揮した衆議院議員・田中角栄氏による揮毫(六十里越隧道)の扁額が掲げられている。ちなみに、只見口の揮毫は当時の日本鉄道建設公団総裁・篠原武司氏によるもの。*下画像出処:JRTT鉄道・運輸機構 公式X(旧 Twitter)「今日は何の日」(2022年8月29日)
新潟県側の上り勾配区間が少し長いため、列車は8分ほどかけて六十里越トンネルを抜けた。
国道252号線と交差し、右側に田子倉ダム湖の“只見沢入江”を見ながら、田子倉駅跡を覆うスノーシェッドに突入した。
田子倉駅跡を通過。スノーシェッド内にあるため、廃止(2013年3月16日)から10年を経ても当時と変わらぬ状態を保っているように見えた。
「レールは語る 只見線全通運動誌」には、この田子倉駅建設当時の写真が掲載されていた。*下画像出処:小出只見線全通期成同盟会「レールは語る 只見線全通運動誌」p243
湛水した田子倉ダム湖の湖岸で、山の斜面を切り崩しながら進められた工事は過酷だったろうと思うとともに、利用者の有無というより、田子倉ダム湖に沈んだ田子倉集落の名を残すために設けられた駅だったのではと考えた。
私はこの田子倉駅を、リノベーションの前提に、復活させて欲しいと思っている。特に降雪期は国道252号線が通行止めとなることから、只見線以外に交通手段の無い陸の孤島ということで国内無二の観光地となる可能性を秘めている。
田子倉駅跡は、春夏秋冬のそれぞれの自然美や、「浅草岳」を中心とする山々や田子倉ダム湖でのアクティビティーの拠点となり得るので、「只見線利活用計画」を中心となってすすめる福島県には検討して欲しいと改めて思った。*参考:拙著「只見町「田子倉駅」跡 2017年 秋」(2017年10月14日)
列車は、「田子倉トンネル」、「第一赤沢トンネル」、「第二赤沢トンネル」、そして「上町トンネル」を抜けて、減速してホームに入っていった。駅員一人が、列車の到着を待っていた。
17:30、只見に到着。“只見中線”の往復乗車を終えた。
“只見中線”(20.8km)は、只見線を一本につなぐ重要な役割を果たしている。
この“只見中線”は、新潟県側の地域(現魚沼市)を選挙地盤に持っていた田中角栄氏の権力形成期に重なっていたという“幸運”に恵まれた。1968年9月に国鉄諮問委員会で会津線と只見線が廃止勧告(赤字83路線)を受けながら、両線を繋ぐ“只見中線”の建設を始め、只見線をつなげたという力業を田中氏はやってのけた。その後“只見中線”は、並行する国道252号線が冬の降雪期間は通行止めになるため、“代替輸送道路が積雪のため不通になる”という条件で廃止を免れてきた。
現在では、「平成23年7月新潟・福島豪雨」被害から11年2カ月ぶりに復旧(2022年10月1日)した会津川口~只見間(27.6km)が“只見線を一本につな”いでいるという認識が大きいが、福島県会津地方と新潟県中越地方を結んだ全通の歴史を鑑みると、地元住民と政治家が一体となって建設を強力に推し進めた“只見中線”が、只見線135.2kmたらしめていると私は思っている。
“只見中線”は非居住地帯に通っているが故に、自然の景観美や険しさを車窓から眺められる高い“観光力”を持っていて、只見線135.2kmの価値を大いに高める可能性を秘めている。しかしながら、現在はそれが活かしきれていない。福島県と新潟県にまたがっていることもあるが、同じJR東日本の路線でも、六十里越トンネルで東北本部と新潟支社に管轄が分かれていることも大いに影響していると、個人的に思っている。
“観光鉄道「山の只見線」”として乗客や沿線を観光・滞在する客を増やし、沿線に確かな観光需要をもたらすためには、“只見中線”を活かす取り組みが欠かせない。例えば、前述した田子倉駅跡の復活もあるが、新潟県側の末沢川に架かる橋梁上を中心とする徐行運転などの策が考えられる。「只見瀬利活用計画」を進める福島県が音頭をとって、是非“只見中線”の観光力を発揮する取り組みをして欲しい。
只見駅では、停車時間が30分あるため途中下車し、地酒と夕食の調達に国道252号線沿いの松屋に向かった。
駅頭の壁面には、“只見駅開業60周年”を祝う大きなフォトモザイクアートのポスターが掲げられていた。
只見駅は、電源開発㈱田子倉発電所建設用専用鉄道が国鉄に譲渡され、会津川口駅~只見間(27.6㎞)が国鉄会津線(只見方)として延伸開業した1963(昭和38)年8月20日に営業を開始した。先日(8月20日)には、ロカール線のファンとして知られる俳優の六角精児さんを招き「60周年記念イベント」が町内で行われたという。*下掲載記事:福島民報 2023年8月21日付け紙面
「レールは語る 只見線全通運動誌」には、当時の只見駅での祝賀ムードを伝える写真が掲載されていた。ちなみに、“只見中線”が開通し国鉄只見線が全通するのは、それから8年後となる。*下画像出処:小出只見線全通期成同盟会「レールは語る 只見線全通運動誌」p195とp192
また、駅頭には昨年10月1日の只見線全線運転再開からのカウントボードが置かれ、332(日)と表示されていた。
只見駅を後にし、ひっそりと佇む「只見線広場」を横目に、買い物に向かった。
買い物を済ませ、列車に戻った。西の空が、茜色に色付き始めていた。
席に着くと、松屋で手に入れた地酒と食材で夕食にした。今回選んだ地酒は、南会津町の「開当 男山」の生酒。活性酒と大きく表示された、濁り酒だ。
18:00、会津若松行きの最終列車が、只見を出発。「男山」をチビチビと呑みながら、徐々に暮れてゆく山間の景色を眺めた。
会津蒲生を出た列車は、徐々に只見川(滝ダム湖)に近づくが、川面を覆う川霧が見えてきた。そして「第八只見川橋梁」に差し掛かると、只見川一面を覆う均整の取れた見事な川霧が現れた。
これには、乗車していた客も驚いたようで、車窓に近づき、見入り写真を撮っていた。
川霧はしばらく続いた。夏場の早朝を中心に見られる只見川の川霧だが、空が徐々に色付く夕刻に見られて幸運だった。
18:52、只見町から金山町に入った列車はすっかりと暮れた会津川口に到着。小出行きの最終列車とすれ違いを行った。
会津川口を出た列車は、漆黒の闇の中を快調に駆けた。そして、三島町に入り中心駅である会津宮下に停車すると、インバウンドの一家が降りた。明日「第一只見川橋梁ビューポイント」に行くために、当地に泊まるのだろうかと思った。
20:55、三島町から柳津町、会津坂下町、会津美里町を経た列車は会津若松市に入り、定刻に会津若松に到着。「湯の岳」登山後に“只見中線”を往復乗車する只見線の旅が、無事に終わった。
(了)
・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 *2008年放送
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金
・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、宜しくお願い申し上げます。