製あん発祥の地を訪ねて
明治時代、興津(現在の静岡市清水区)出身の北川勇作氏が煮炊釜や豆の皮剥き機、豆皮分離器を発明。同郷人の内藤幾太郎氏とともに、現在に至る製餡機を使った製餡産業の原点を築きました。それが近代製餡の発祥とされ、二人の出身地、興津地区北部の承元寺町にある八幡神社には「製餡発祥の地」であることを記した石碑が建てられています。
建立から80余年、発祥の地を 株式会社 真田製あん代表 真田慎吾氏が訪れました。
日本製餡業界の大恩人である、両名が生涯にわたって信念とした「製餡業界の発展と同業者の共存共栄」の精神は現在も日餡連に受け継がれています。
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株式会社真田製あん 代表 真田慎吾
内藤幾太郎氏
(日本製餡業界の大恩人)
内藤幾太郎氏は内藤七右衛門の長子として明治2年10月20日、静岡県興津町承元寺に生る。農業に精励する傍ら承元寺区協議員、消防部長、承元寺区長等の公職に尽くす。
北川勇作氏が製餡業を起こすや絶えずこれを励まし援助する。
そして自らも明治40年11月、志を立てて製餡所を大阪市北区空心町に開業するや、北川勇作氏交情により相依り相助けて、同事業は成功し各其の志を成せり。
併せて自らは一都市に一店舗主義を信条とするため、北川勇作氏と協議し明治43年、北川勇作氏の京都丸太町支店と自らの大阪空心町店舗とを交換し理想を達成する。続いて大正12年、京都駅前に一大工場を建設するに至る。
また常に敬神愛郷の心深く、学校の建築、社、寺造営等、その他工場事業に寄付し、社会に貢献すること少なからず。また後進を指導援助し大正12年8月、大日本製餡組合を発起して之を組織し同業者の共存共と一致団結の基礎を構成、製餡業界の隆盛に尽力する。
大正13年5月16日病にて急逝。享年56歳なり。
昭和12年5月大日本製餡組合一同は製餡業界の先駆者で大恩人である、内藤幾太郎氏の業績を不朽に伝えんと欲し承元寺院の所有地を譲り受け承元寺区民の協力により、ここ生誕の地に頌徳碑を建設したものである。
昭和12年5月
北川勇作氏
(製餡業界の大恩人)
北川勇作氏は北川源左衛門翁の次子で明治11年4月21日、静岡県興津町承元寺に生る。
小学校卒業後、農業に従事するも生活の向上を決意し明治32年9月、21歳で東京中養堂製餡所に職工として勤務し刻苦して製餡の法を究める。
明治33年11月、意を決して自ら製餡所を大阪市南区日本橋筋三丁目に起こす。創業に際し、資金乏しく困難に遭遇するが、ついにそれを克服し、大正5年までに天満支店、京都支店、和歌山支店、岡山支店など順次開業し発展を続ける。大正7年、一大工場を天王寺区北日東町に開業し本店営業所とする。
その間、北川式製餡磨流機、北川式豆類煮炊釜、北川式製餡漂白機、北川式豆分離機を発明し特許を得る。而して同事業に成功し、日本製餡業界の覇者となったのである。
また常に後進を指導援助し今や後進の独立営業する者全国に百数十人の多きに至る。実に北川勇作氏の美徳とするところである。
又、敬神報徳の念篤く、学校の建築、奨学資金、神社仏閣の造営その他、公共事業等に寄付を行い、社会に貢献する。
しかしこれから益々発展の矢先、病魔に侵され大正12年6月6日、49歳にて病没する。
昭和12年5月、大日本製餡組合一同は製餡業界の先駆者で大恩人である北川勇作氏の遺徳を永遠に伝えんと欲し、承元寺院の所有地を譲り受け、承元寺区民の協力により、ここ生誕の地に頌徳碑を建設したものである
昭和12年5月