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血まみれのオイディプス王たち。…日本古代史と万葉集および人麻呂について 二帖:皇極帝、ある宿命の女(ファム・ファタル)

2018.08.13 23:51









血まみれのオイディプス王たち。

…日本古代史と万葉集および人麻呂について

二帖:皇極帝、ある宿命の女(ファム・ファタル)









Oἰδίπoυς τύραννoς









645年、7月10日。その日、土砂降りの雨が降った。


蘇我入鹿暗殺。暗殺翌日、蝦夷自害。

入鹿(息子)の血は雨が洗い流したが、蝦夷(父)の血をは、雨は洗い流しはしなかった。


いずれにせよ、このクーデター、あるいは蘇我氏本宗家粛清の首謀者は、中大兄皇子(天智天皇)。そしてここで唐突に歴史に現れる男、中臣鎌足。


いわゆる乙巳(いっし)の変、大化の改新の魁けである。









いわゆる大化の改新は、乙巳の変以後の、中大兄を中心とする新しい首脳陣による一連の政治改革のことをいう。もっとも、実はそれほど大した改革など行ってはいないという説もある。また、乙巳の変は、蝦夷-入鹿の蘇我氏本宗家の粛清であって、蘇我氏自体の粛清とは言えない。

事実、直後の新政権において、主要な要職には蘇我氏系の人材が大量に登用されている。つまりは、ひょっとしたら、蘇我氏端流による本宗家殺しの側面さえあったかもしれない。

仕組まれはしなかったかもしれないが、本宗家は、少なくとも、見殺しにはされたのだ。


時の天皇は皇極天皇。

この、皇極帝という女性が、非常に興味深い。


生年は594年、…らしい。没年は661年である。当時としては、かなり長生きした人だ。


この人の人生はまさに波乱であった。そもそも、二度も天皇になっているのである。

一度は皇極天皇として、もう一度は斉明天皇として、である。

こんなことは、史上初めての暴挙だった。王の終身制を否定し、かつ、別に何度なってもOKになったのである。…だったら、王様なんて、誰がなってもいいじゃないか。文字通り、ハリボテの王様に過ぎないじゃないか。


ところで、光源氏の本名を、ご存知か?

そんなもの、誰も知りはしない。一切書かれてはいないからである。なぜなら当時、名前とは神聖な力そのものであって、貴人になればなるほど、そんなもの口にしてはならないからだ。

例えば、いまでも、今在位している天皇を、例えば平成天皇と呼んだとしたら、それは外国人か左翼の特権である。普通、敬して伏せ、今上天皇、今上陛下と呼ぶのが作法である。

だから光る源氏というのは単なる敬してその名そのものを呼ばなくても済むようにするためのニックネームに過ぎない。


言霊というものが、まさに、客観的事実だった時代である。とは言え、これはオカルトではない。例えば僕たちは今、この宇宙をダーク・マターだのダーク・パワーだのというものが構成しているのだということを知っている。それは物理学的に証明された事実である。ところが、もちろん、実際にはそんなもの見た者はいない。検出されたことさえない。

それが存在しなければ論理が成立しえなくなる、理論的=客観的事実、なのである。だから、ある日、そんなものは存在しなかったという事実が証明されるかもしれない。そうなったら、その未来の人間にとっては、ダーク・マターなど単なるオカルトに過ぎなくなる。

当時の言霊だとか名の神聖な力だとかは、僕たちにとっての例えばダーク・マターのような、客観的事実なのである。だから、彼らは(僕らは)、それを信じてなどいない。単に、知っているのだ。


そんな時代の中に、二度も天皇として固有の名を獲得するというのは、最早一度死んで生まれ変わったくらいの事件だったはずである。なんという、無茶なことをしでかしたのか。

…なにが、彼女に無茶な復活をさせたのか?


まず、この人は、山背大兄王を蹴落として即位した、蝦夷の傀儡天皇、舒明帝(田村皇子)の皇后だった人である。が、《初婚》ではない。

その前に、高向王という人物と契っている。生まれた子は漢皇子。

この人たちの詳細はわかっていない。あるいは、当時の政権から、その事実を抹消されたのかも知れない。古事記も日本書紀も正史である。つまりは、執筆時の政権の御用学者がご機嫌を伺いながら書いたに過ぎない。


その後、630年で、舒明帝の皇后になる。当時、37歳である。舒明帝は593年生まれ、らしい、ので、今風に言えば、別に変なカップルではない。


しかし。


舒明帝との間に、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、間人皇女(はしひとのひめみこ)を生んでる。

中大兄皇子(天智天皇)の生年が626年。それで考えても32歳。高齢であることには変わりない。

普通に考えて、どうだろう?

医療技術、食料状態、社会環境。そんなものが当時に比べれば格段に改善されている現代においてさえ、例えば30歳の出産は、たとえ初産でなくとも高齢出産の部類に入る。


本当に、彼らは彼女の実子なのだろうか?


641年、11月17日、舒明帝崩御。ここで、後継者問題が起こる。山背大兄王の存在感を無視して、その2ヵ月後、彼女は皇極天皇として即位する。


642年、1月15日、即位。もっとも、これは、仮設天皇状態だったかも知れない。すぐに、入鹿は古人大兄皇子の新天皇即位に向けて動き始めているからである。そしてその翌年末に起こるのが、山背大兄王を自決させることになる、斑鳩宮襲撃事件である。

皇極帝は入鹿の傀儡天皇に過ぎない。馬子=推古帝の後、一代飛んで、もう一度蘇我氏傀儡女性天皇が、生まれたのである。


推古帝は初代女帝、だから、この人は二代目だということになる。


どうでもいいのだが、今の時代の女性天皇論争で、過去の女性天皇の前例、というのがときに言われるのだが、それはそれ、これはこれとして、あくまでも現代の価値観においてのみ論議されるべきだと想う。

なぜなら、過去の女性天皇とは、基本的に蘇我氏が無理やり仕立て上げた傀儡天皇から始まる《前例》であって、当たり前だが留保なき政治利用そのものにすぎない。そんな《前例》を《前例》として論議するのは本質的におかしい。

もっとも、《女性天皇》問題に関しては、私自身としては、そんなもの天皇陛下ご一家でお好きなように考えていただけよ、と想ってしまう。

別に国民が口を出す問題でもないんじゃないか。ましてや政治家が、である。政治家は天皇になど触れないでおけばいい。


いずれにしても、政治の実権は、あくまでも入鹿。皇極帝など単なるお飾りである。

だが、逆に言えば、皇極天皇自身がそれだけの権力譲渡を容認していた、とも言える。

それを共謀関係として捉えてしまえば、そこに一心同体の、いわば、つがいの権力者の姿が浮かび上がる。


皇極帝=入鹿というつがい関係が成立するなら、まず、入鹿殺し、蘇我氏粛清は、実質的な王殺しだ、といえる。

中大兄は、入鹿を討つことによって、文字通り王を討ったのである。事実、皇極帝は、退位に追い込まれている。


入鹿殺しが7月10日、翌日に蝦夷(入鹿の父)自決。そして、その翌日、7月12日、皇極帝退位、同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位。これは、史上初の譲位である。天皇の終身制の、初めての否定であって、その意味では、無血での、当時の終身天皇制自体の破壊でもあるのだ。

…つまり、いちいち殺さなくても良い、のである。

天皇の首などいくらでも挿げ替えてしまえ、と。


史上二番目の女帝は、史上初の譲位を行い、そして、やがては史上初の重祚(ちょうそ、もう一度即位すること)をすることになるのだ。

なんというむちゃくちゃな時代なのだろう?

そして、言うまでもなく、皇極帝は、中大兄皇子の実母である。

だから、中大兄にとっては、ある意味において母親殺し、でもある。

あるいは、蘇我入鹿という《不当な父》を殺して、母を奪還する、という意味にも。ジークムント・フロイトが泣いて喜びそうな、見事なエディプス的殺人だ、ということにもなる。


退位させること(=その名、いわば《不当な父=入鹿》に与えられた名を失うせること、つまり母親殺し)によって、中大兄皇子は、名もなき裸形の《母》の肉体あるいは存在そのものを獲得したことになる。

まさに、手の込んだエディプス構図。


そして、やがては自分の手で斉明という名を与え、もう一度即位させるのである。


もっとも、これは彼女が実母であったなら、の話だが。


ところで、そもそも、後釜に座った孝徳帝(軽皇子)こそが本当の首謀者だ、という説がある。

孝徳帝(軽皇子)は皇極帝の同母弟である。

つまり、血のつながった完全な姉と弟。父は同じ敏達天皇、馬子の傀儡天皇である。母は吉備姫王。

もしも、孝徳帝(軽皇子)が本当に首謀者であったとするならば、それは他でもない、兄弟殺しである。


あるいは、それらが全部、からみ合っていた、のかもしれない。


孝徳帝時代の実権は中大兄。そして、彼らを中心にして行われたのが大化の改新だ。


いずれにせよ、645年、7月10日。


雨が降っていた。


そのころ、三韓(新羅、百済、高句麗)から、進貢の使者たちが来日していた。プレゼントを抱えた外交使節団のようなものだ。どこかの島国の《ばら撒き外交》のようなものなのかも知れない。その、朝貢の儀式、三国の《調》の儀式が、その7月10日には、行われていた。


首謀者は中大兄皇子。彼をたきつけていたのは、今の吉田神道の大本の中臣一族の末端の人間を名乗る男、鎌子。


やがて鎌子(=鎌足)の直系の新進《中臣》と区別するために《大中臣》の名が与えられることになる、あの由緒ある《中臣》、…アマノコヤネノミコトの直系として、アマテラスの岩戸隠れのころからこの国にいたといわれるあの一族の、本当に子孫なのかどうかは、わからない。


そして、馬子の血を引く蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)もまた、彼ら、クーデター一派を支援していた。

つまり、これは同族討ちでもあったのだ。


場所は大極殿。


直接の暗殺者は佐伯 子麻呂(さえきのこまろ)、葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)。この二人を推薦したのは鎌子である。彼らに、神聖なる大極殿で刀を渡したのは海犬養勝麻呂(あまのいぬかいのかつまろ)。刀を渡しながら、彼らに耳打ちする。


…迷うなよ。合図と同時に、叩き切ってしまえ!


中大兄は槍を持って、鎌子は弓を持って身を潜める。入鹿は丸腰である。

その合図、…暗殺の合図は裏切り者、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げ始めた瞬間だった。もちろん、それは石川麻呂も知っている。

石川麻呂は読み上げ始める。が、いつまでたっても暗殺者は立ち上がらない。二人は極度の緊張のため、吐いてばかりいるくらいの有様だったのだ。蒼白の表情が、しかし、震えながら汗を流す。


石川麻呂は次第に冷静を失い始める。


…まだか?


焦燥と、もはや恐怖に近い感情が、声を震わさせ、汗に塗れさせ、黒目が、手が、そしてやがては体中をふるわせ始める。


…まだか?


「どうした?」訝った入鹿が石川麻呂に問う。石川麻呂はやっとの想いで答える。

「…いえ、帝の御前ですから、緊張しているのです」


…まさか?


単なる傀儡に過ぎない天皇などに、蘇我の者が畏れるはずがないのに。

入鹿の表情に不審が走った瞬間に、中大兄は自ら飛び掛る。佐伯 子麻呂と葛城稚犬養網田も、ようやくにして意を決した。彼らは入鹿に切りかかる。飛び散る鮮血。子麻呂が切りつけた刀が入鹿の足を切断する。吹き出す血。皇極帝の足元に倒れ臥した入鹿はつぶやく。


私に何の罪科があるというのか?お裁きください。


目の前には血に飢えた眼差しを曝す息子がいる。そして死にかけた血まみれの男も。


いったい、どうしたの?


息子は答えた。「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を得ようとした。だから叩き殺したのです。」

帝は言葉もない。死んでいく入鹿を、見つめるしかない。そのとき、ある人物が息をひそめながら逃げ出そうとしていた。古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。舒明帝の第一子。皇極帝のあとに即位するはずだった、蘇我氏の母親を持つ皇子である。


斑鳩宮襲撃の首謀者の一人でもある。

私宮に駆け込んだ彼は言った。


…韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ


言葉通りに読めば、彼は、朝鮮から来た男が、入鹿を殺してしまった、と、言っている。

これは、一般的には古人大兄皇子が、朝貢に来た三韓の死者たちが殺したのだと勘違いしたのだ、といわれるところだが、そんなわけはない。

古人大兄皇子は時期天皇として、その地位が(入鹿によって)決められている存在である。天皇に対して、そこまで離れて座っているわけがない。

かつ、ごくごく単純に言って、汗だくの石川麻呂が震える声で上表文を読み上げるのを、入鹿が制して問いただした直後なのである。

誰も彼もが、その眼差しに石川麻呂と入鹿を捉え続けていないはずがないのだ。古人大兄皇子は単純に、見たことの事実を語ったはずである。


では、韓人とは、だれか。せいぜい、消去法で鎌子が一番その可能性が高いと、言うしかない。

であるならば、中臣鎌足は渡来人だったということになると同時に、このクーデターは、古人大兄皇子にとっては、そもそもが鎌足によるクーデターだった、ということになる。

いずれにしても、降りしきる雨は、流れ出した血を流し去って行ったのである。


翌日、蝦夷は自殺する。









ここには、違和感がある。


どうして、蝦夷は自殺しなければならなかったのか。そこに、なんの必然性があるのか?

なぜ、逆襲しなかったのか?

他の豪族が寝返って、蝦夷に賛同するものなどだれもいなかったから?

それでは、なぜ、中大兄皇子は、そのまま、その日のうちに蝦夷私邸を襲撃しなかったのか。

他の豪族が寝返ったのなら、中大兄皇子のもとに大勢の兵士が集ってきたはずで、であるなら、そのまま蝦夷邸に攻めこむ無べきではないか。


なぜ、自決するのを待ったのか?


ついでに言っておけば、中大兄皇子はこのとき、たんなる犯罪者である。秩序を乱す反乱者であるに過ぎない。なぜなら、帝は中大兄皇子の蜂起を事前に肯定などしていないからである。

だから、入鹿は皇極帝に問うのである。

お前が裁け。つまり、だれが反乱者であり、だれが犯罪者であるのか、お前が規定しろ。

蝦夷も存命中である。そうそう簡単にすべての豪族が願えるわけがないのである。

蝦夷はなぜ、中大兄を討たなかったのか。

なぜ自決などしなけばならなかったのか。

そして、中大兄はなぜ、丸一日蝦夷が自分で自決すのを待っているかのように、何もしないで放置しておいたのか?


蝦夷がもは死ぬしかないことを、知っているかのように。


中大兄の出生には、母親の年齢から来る不信感が拭えない、と書いた。

本当に、彼は、彼が牙を向ければ、蝦夷が自分で身を曝すほかないことを知っていたのではないか。

山背大兄王を、入鹿が殺してしまったとき、蝦夷は入鹿に激怒したらしい。なぜだろう?蝦夷にとって、山背大兄王は邪魔な存在ではあっても、惜しむべき存在などではないはずだ。

山背大兄王は一族皆で自決している。大量の人間が一気に死んで仕舞ったのである。

つまり、山背大兄王ではなくて、彼と一緒に死んだ、ある他の人物を失ってしまったことが、彼を激怒させたのではないか?

つまり、例えば山背大兄王の妻のうちの誰か、であるとかでる。それが、蝦夷の女だったからではないか。

蝦夷が山背大兄王の妻の一人に生ませた男が、中大兄皇子だったとしたら?

そして、その引き取り先が、舒明帝と皇極帝のところだったのではないか?

故に、まるで山背大兄王一族の死が、中大兄王にきっかけを与えたかのように中大兄王は入鹿一派の粛清をしようとしたのではないか。

それが、中大兄にとって、母親を殺されたことを意味したから。

もしそうなら、それはもちろん、兄弟殺しには違いない。


そして、父、蝦夷としては、息子同士が直接殺しあう抗争に、ただ静かに自死を選ぶしかない。


なにも、こんな事がすべてそうだったに違いないなどと言うつもりはない。だが、乙巳(いっし)の変は、あまりにもせつめいしづらいことが多い、と想う。


1.なぜ、山背大兄王が自殺したとき、蝦夷は入鹿に激怒したのか。

山背大兄王の人望から、蘇我氏一族への憎悪が増大することを恐れたとはいえないはずだ。

入鹿に刃を向けられた山背大兄王に手を貸すものは殆どいなかったはずなのだから。


2.なぜ、蝦夷は反逆者=中大兄皇子一派を討たなかったのか。

どこからどう考えても、逆賊は中大兄皇子のほうなのである。


3.そればかりか、なぜ、その翌日になって自害したのか。

息子の敵を取るどころか、朝敵を討つどころか、である。

天皇に、絶対に逆らえない権威など、もはや存在しなかったはずなので、中大兄皇子が誰の息子だろうが関係なかったはずだ。


4.なぜ、中大兄皇子は蝦夷を討たなかったのか。

入鹿殺害だけで、事が終るわけがない。いずれにせよ、その父をまで討たなければならないのは当たり前で、中大兄皇子のクーデターが入鹿殺害だけで終ってしまうことに意味が、よくわからない。


乙巳(いっし)の変といえば、日本人なら誰もが知っている事件でありながら、何かがどこかで説明がつかなくなる、つじつまの合わない事件なのである。


6月12日、入鹿刺殺


6月13日、蝦夷自決


6月14日、軽皇子、孝徳天皇として即位


ここまで、たった3日。

そして、翌月2日、間人皇女(中大兄皇子の妹、皇極帝の娘)が孝徳帝の皇后となる。


6月14日、皇極帝は退位を申し出る。(あるいは、強制される。)最初の譲位候補は中大兄皇子だった。

中大兄皇子はこれを辞退する。

次は軽皇子。これも、三度も辞退される。このあたりは、脚本どおりなのだろう。

中大兄皇子としては、自分が天皇などになる気など最初からなかったに違いない。あくまでも彼は実験を握りたかったのだ。例えば、かつての馬子、蝦夷、入鹿がそうだったように、である。事実、彼は新しい時代の馬子、蝦夷、入鹿になりおおせる。

最初から、天皇になるのは軽皇子に決まっていた。なぜ、軽皇子は三度も断らなければならなかったのか。(三度も断ると言う儀式を実際に演じて見せたか、単にそう言う伝説を流布させたか、しなければならなかったのか)。

古人大兄皇子を始末するためだ。

古人大兄皇子は、皇極帝の後釜候補だった男であり、山背大兄王殺害の直接の契機にもなった男である。

古人大兄皇子を天皇にするために、山背大兄王は殺されたのだ。

そして、皇極帝の譲位の申し出を、古人大兄皇子は断る。(断らせられる)だけではなく、出家さえして仕舞う(させられて仕舞う)のである。


そして、同日、6月14日軽皇子の即位、中大兄皇子は皇太子になる。


古人大兄王子の物語はこれだけに終らない。


9月12日、古人大兄皇子が謀反をくわだてているという密告があった。その日のうちに、中大兄皇子は兵を送り、殺害している。入鹿暗殺からちょうど三ヵ月後。


蘇我倉山田石川麻呂が粛清されるのはその5年後だ。3月、これもまた密告によって判明する。中大兄皇子の差し向けた兵から逃れると、翌日、自決し仕舞う。


これは中大兄皇子および、鎌足の陰謀であるとされている。