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ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 郷土報恩の志~ (その1)「旧相馬邸(函館市)文化庁重要伝統的建造物群保存地区認定」

2018.08.14 14:55

このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。  


旧相馬邸は、和風をベースにした本館のほかに、正面右側には窓額縁などに細かな細工をした洋館(内部は応接間)が併設されています。
正面にはむくり屋根の大きな玄関。写真では隠れていますが左側には大きな土蔵があります。


はじめに

ご挨拶

旧相馬邸は今年度公開8年目を迎えます。皆様のご厚情に厚く感謝申し上げます。
昨年3月、念願の新幹線が「新函館北斗駅」まで開通して利用観光客は826万人を超え,今年度は31隻の外国の観光客を乗せた大型クルーズの寄港が予定され、函館のレトロな魅力がますます国の内外に拡まりつつあります。


昨年6月、旧相馬邸の玄関横に屋根瓦寄贈者のご氏名と瓦の位置を示す看板を設置しました。ご来館の折りには是非ご確認いただきとう存じます。


昨年「歴史的資産研究機構」(理事長 角幸博北海道大学名誉教授)に依頼した「旧相馬邸調査報告書」(3部)が完成いたしました。今後は報告書を増刷し、函館市をはじめ道教委へ国の重要文化財指定に向けて申請を開始いたします。一日も早く嬉しいニュースを皆様にお届けできればと存じております。


初代相馬哲平の人となりにつきましては、「相馬哲平伝」(昭和36年・神山茂著 相馬報恩会)、「非魚放談」(昭和32年・齋藤与一郎 函館郷土文化会)、「蝦夷、北海道の謎」(平成9年・中江克己 河出書房新社)等があります。そのいずれもが明治2年の箱館戦争時に、戦火に怯える市民を横目に命がけで商売を守り抜き、若干40歳で北海道を代表する財閥を築き上げた初代哲平の事績を記しています。


つまり、現在の函館市発展の礎を築いた初代哲平は箱館戦争を商機としてとらえた卓越した経済人であったことがわかります。旧相馬邸は明治40年(1908)、哲平74歳の時に大火で類焼した後構築し、大正10年(1921)6月、89歳で死去するまで住んだ住宅です。


しかし、この年4月の大火では屋根に飛び火を受けた函館大火の生き証人としても貴重な建造物でもあります。幸いにして、110年以上経過して保存されて来た事は、当市にとってもあまり例がありません。適切な対策が講じられるとあと100年以上の保存も可能です。


◎今後の保存計画について

初代哲平が心を込めたこの建物を残したい!
函館商人の意地を伝えるためにも残したい!
7年前私が抱いた思いは今も変わりません。
無我夢中で7年間過ぎてしまいました。一個人の力の限界も知らされました。後継者の問題も大きくのしかかります。一つずつ地道に取り組んで参ります。


多くの方々の協力があってこそ保存が可能になります。 どうか力をお貸しください。


旧相馬邸 家宰 東出伸司



相馬哲平とは

初代・相馬哲平・・・ 文久元年(1861)、越後の国から28歳の青年は、大志を抱いて開港間もない函館に渡る。箱館戦争の混乱の中、米の騰貴を見越し、一世一代の大勝負に出て巨利を得た後、ニシン漁の投資と海陸産物の商いを行い、一代で北海道屈指の豪商に上り詰めます。


晩年、「郷土報恩」の志を持って、函館区公会堂を始め数々の公共事業に私財を投げ打ち、函館発展の基礎を築きました。


旧相馬邸は、明治41年(1908)に建てられた和洋折衷の歴史的建造物で、函館湾を一望できる地に、今もなお威風堂々たる佇まいを残しています。


1833年(天保4) 0歳  現新潟県で誕生
1861年(文久1) 28歳 函館に渡り、商人の家に住み込みで働く
1864年(文久4) 30歳  貯蓄をもとに、米穀商を開業
1872年(明治5) 39歳  金融業に転身し、後に北海道一の豪商になる
1908年(明治41)75歳  大火で焼失した公会堂の建築費の大半を寄付
1912年(明治45)79歳  地元銀行の頭取に就任
1918年(大正7)  85歳  貴族院議員に当選
1921年(大正10) 88歳  永眠、高龍寺に埋葬

高龍寺山門及び袖塀

境内正面に北面して建つ入母屋造桟瓦葺の木造8脚門で、軸部は禅宗様を基調とし、門の左右に桟瓦葺の袖塀を延ばしています。本堂を手がけた篠田宗吉の次代となる5代宗吉が棟梁を務めました。
蟇股や欄間等に、雲龍や獅子、花鳥等の彫刻を施し、装飾豊かな門であります。

高龍寺山門の蟇股や欄間等に、雲龍や獅子、花鳥等の彫刻を施してあり、当時の匠の技を感じることができます。


旧相馬邸と歴史的建造物
大英帝国の領事館を見下ろす位地にある豪商の旧宅

函館の基坂、幕末の開港当時はこの周辺に役所や銀行などが集まっていたことから「役所の坂」とも呼ばれ、函館の中心といえる場所でありました。坂の名は坂下に里程元標があったことが由来とされています。


 坂の上の元町公園の旧函館区公会堂、北海道庁函館支庁舎、少し下って旧イギリス領事館などが並び立つ中で、民間人の住宅としては一際目立つ豪壮な邸宅が元町公園のすぐ隣に建つ旧相馬邸。黒の板塀に重厚な和風の外観が印象的な建物は、明治40(1907)年の大火後に相馬哲平(1833~1921)の邸宅として建てられたものです。哲平は幕末に新潟から函館へ渡り、商売に成功、函館一の豪商として知られ、数々の公共建築に多額の寄付を行うなど篤志家としても有名です。


旧函館区公会堂
100年以上前に建てられた西洋風木造建築。国指定重要文化財。黄色(ウイーンの街並みを彩る「マリア・テレジア・イエロー」のようにも見える)とブルーグレーの色鮮やかな外観は、記念写真の背景として人気です。


函館区(現函館市)の公会堂として明治42年5月に着工、明治43年9月に竣工したもので、本館と附属棟から構成されています。設計者は函館区技師小西朝次郎、棟梁は村木甚三郎です。

本館は木造2階建、桟瓦葺寄棟屋根で、1階は中廊下に面して食堂、球戯室、寝室、会議室などの小部屋が配され、2階は大部分を講堂とし、正面にバルコニーを設けています。
附属棟は管理人の住居として建設された木造平屋建、桟瓦葺寄棟屋根で、本館と渡廊下で繋がっています。明治時代に建てられた公会堂建築の数少ない遺構であり、我が国を代表する明治洋風建築の1つです。


旧北海道庁函館支庁庁舎


この建物のある場所は、河野の館跡で、享和2年(1802)以来幕府はここに箱館奉行所を置き、明治に入って開拓使函館支庁・函館県庁・北海道庁函館支庁となり、その庁舎は明治40年(1907)の大火で焼失しました。

明治42年に北海道庁技師家田於菟之助の設計により建設され、明治43年に完成しました。函館区が函館市となった大正11年(1922)から昭和25年(1950)まで渡島支庁庁舎として、その後は北海道関係施設として昭和32年まで使用されていました。
以後は、函館市の所有となり、准看護婦養成所や失業対策事業の作業所を経て、現在は函館市写真歴史館・函館市元町観光案内所として活用されています。

平成3年(1991)12月の火災後、函館市では2か年にわたって北海道の補助と市の援助を得て、復元工事を実施し、往時の美しい姿を再現することができ、平成6年度から再び使用されるようになりました。

玄関ポーチのペディメントを支えるクラシックな玄関回りは、明治の木造建築の中でもひときわ美しいもので、公会堂や教会群の点在する元町界隈に一つの彩りを添えています。


哲平の寄付で建設された旧公会堂が坂上に、坂下の電車通りの角、相馬邸からも一望できる場所には(株)相馬の事務所があり、基坂はさながら相馬の坂ともいえそう。なお相馬邸が竣工した時期には、当時相馬と並ぶ豪商、渡辺熊四郎(金森商船・合名会社)などの寄付により建てられた区立函館病院、さらに日本銀行や税関など国の主要施設も一望できました。

驚くべきことは相馬邸の真下に旧イギリス領事館が建っていることだ。国内では横浜・下関・長崎に旧イギリス領事館の建物が現存していますが、地元の民間人住宅に見下ろされた場所に建っているのは、ここ函館だけです。

函館市旧イギリスの領事館
約100年前に建てられたイギリスの領事館。現在は「開港記念館(展示室)」と、ティールームとして活用され、夏には庭のバラが満開になります。
バラの花びらの香りには幸福作用のある成分が含まれています(さくらも同様です)。女性にとって美容効果抜群です。
かのクレオパトラは寝室のベッドにバラの花びらを敷き詰めお眠みになったとか・・・
当時は、まだ精油(エッセンシャルオイル)の抽出方法が考案されておりませんでした。
因みに精油の抽出方法が考案されたのは17世紀、チグリスユーフラテス川流域のイラン、イラク、アフガニスタンという地域です。ただし、古代エジプトにおいては香油(今で言うと植物油(キャリアオイル))はあり、使用されていました。


七つの海を制覇していた大英帝国の函館駐在領事が相馬邸を見上げてどう思ったのか興味深いものがある。


相馬邸の地所は、傾斜のある地形を利用して高い石垣を築き、その上に広い敷地を造成しています。通りに面しては長く塀を巡らして内部に庭を築き、明治末建築の木造平屋建て和風の住宅を中心として、洋風の応接間、蔵などを配置した大邸宅です。


建物も豪華そのもので、和風をベースにした本館のほかに、正面右側には窓額縁などに細かな細工をした洋館(内部は応接間)が併設されています。
正面にはむくり屋根の大きな玄関。左側には大きな土蔵が建っています。


明治40年の大火から、数年近い年月をかけて建てられたという相馬邸。しかし哲平は竣工から13年、大正10(1921)年6月病のため88年の生涯を閉じた。同じ年には市街地で大火が発生し、その復旧にあたって、従来の煉瓦や土蔵に代わり鉄筋コンクリートによる耐火建築物が多く建てられるようになり、函館の街並みが一新された時期でもありました。




旧相馬哲平邸(相馬家住宅)

◎設計・施工:筒井与三郎
◎竣工:明治41(1908)年
◎構造:木造平屋、一部2階建て
◎所在地:函館市元町33-2
◎指定等:文科省指定「伝統的建造物群」歴史的建造物 1993年函館市歴史的景観賞受賞


株式会社相馬社屋
函館西部地区のランドマーク的存在の木造洋館


函館基坂の下に大正初期に竣工した木造洋館。モスグリーンに塗られた外観は美しく、貫禄十分。外観の意匠はルネサンス様式とされるが、屋根に付けられているぺディメント(破風)や屋根の造りは和風に近く、明治期から大正初期にかけての日本の洋館の特徴をよく示しています。


当時、この建物の主は、函館の豪商・初代相馬哲平。幕末、郷里新潟から開港直後の箱館(函館)にやって来た哲平は海産業などで財を成し、当時函館随一の地主でもあったのです。


株式会社相馬社屋は、明治40年の大火で函館市内の大半が焼失、函館の商人の多くがコンクリートや煉瓦などの不燃素材で建物を作り始めた時期に哲平は頑固に木造建築にこだわりました。大正12年に八幡坂下付近より基坂下にかけて火災発生、当時函館一の豪華ホテルと謳われた万世ホテル、㈱相馬の向かいにあった辰野金吾設計の本銀行函館支店などが焼失しましたが、この建物は火災の被害なく生き残った強運な建物なのですね。


相馬株式会社〔相馬合名会社〕

◎設計・施工:筒井長左衛門
◎竣工:大正3(1914)年
◎構造:木造2階建て
◎所在地:函館市大町9-1 


函館市立図書館旧書庫
再生が待ち遠しい函館の文化的遺産


青柳町の函館公園内に建つ函館市立図書館の旧本館とその書庫。


函館市立図書館の本館は昭和2年に竣工。国内の図書館建築でも旧い方に属する。2005年に図書館本館が五稜郭に移転し、それ以来青柳町の旧本館と書庫は空き家の状態となりました。


函館市立図書館旧書庫本館の裏手に建つ書庫は大正5年に竣工。この書庫の建設資金も相馬哲平が力を貸している。明治40年の大火を教訓に図書館の館長・岡田健蔵の発案により、当時最新の耐火素材として注目されていた鉄筋コンクリートで建設されました。元町の東本願寺別院(大正4年築)と末広町の金森34番倉庫(大正5年築)と並び、函館に現存する最古参のコンクリート建築となります。


この書庫で注目すべきはその設計者です。
東京駅や日本銀行本店の設計で知られる、明治建築界の大家・辰野金吾(1854~1919)が担当していました。


そして施工は地元函館の棟梁・村木甚三郎。函館区公会堂と同じ人物です。


本日の締め切り時間を過ぎてしまいました。今号は第一話として、この続きは明日の23時55分までに投稿したいと思います。(また、日を跨ぐことになりそうで少し心配ですが何とか・・・)

明日は、今回ご紹介できまなかった、旧相馬邸のディティールについてご案内いたします。


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


協力(敬称略・順不同)

旧相馬邸 函館市元町33-2 電話番号 0138-26-1560

函館市役所 〒040-8666 北海道函館市東雲町4番13号 TEL:0138-21-3111(代)

文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111


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