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絶対無の場所

2023.08.30 04:06

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【更新】私たちのいるこの世界は二項対立によってできています。光と闇、陸と海、上と下、右と左……。そうした関係の中で、他とはすこし異なる構造を持つのが「表と裏」です。互いに相手を必要とし合うのは他の関係と同じですが、「表裏」が成り立つにはもう一つ、絶対に必要なものがあります。さて、それは何でしょうか。中村昇先生のスラスラ読める哲学エッセイ第17回。西田幾多郎の鍵概念「絶対無の場所」が見えてきました。

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17. ハイデガーと西田(5)――「表裏」という関係

「左右」「上下」「前後」ということ

 今回は、「絶対無」という概念を説明するために、「表裏」という概念を手がかりにしたいと思います。「表裏」という関係は、とても面白く、ほかのさまざまなわかりやすい二項の関係とは異なっています。たとえば、右と左。この関係は、中心さえ決めれば、同時に同じ平面で存在します。右手と左手を見るときのように、自分の胴体を中心にすれば、同時に、右(手)と左(手)を見ることができます。上と下は、どうでしょう。これも、二階建ての家を見ながら、二階を上、一階を下と言えますし、一人の人間を見ながら、頭を上、脚の先端を下と言えます。同時に「上下」を見ることができます。

 前と後(うしろ)はどうでしょう。これは、すこし厄介ですね。たしかに、目の前にある自動車の前と後というように、ある対象を決めて、その対象の前面と後ろの面という言い方はできます。これだと、左右、上下と変わりません。ただ、その場合でも、本来の「前面」(前)や「後面」(後)は、自動車の運転席に乗っている人にとっての「前面」であり、「後面」なはずです。したがって、自動車を横から見ながら、「前後」と言っているときには、われわれは、自分が自動車に乗っていることを想定して「前後」と言っていることになるでしょう。「前後」という概念の起源をたどれば、それは、自分自身の「前面」であり「後面」(「背面」)だからです。つまり、「前後」という概念には、人間の視点が、原理的に関係していると言えるでしょう。

 しかし、それを言えば、左右も上下も同じかも知れません。自分を中心にした「左右」ですし、自分から見た「上下」だからです。視点は、いつも自分を中心にしています。ただ、視点そのものが、二項対立の片方だけに偏っているのは、「前後」だけの特徴だと思います。われわれの視点は、つねに「前」を向いているからです。

 とにかく前々から不思議なのは、われわれ(おそらくすべての存在)の構造が、前面だけに向かっているということです。理由は、わかりません。視覚が一番わかりやすいですし、おそらく「前後」という概念には、視覚が深くかかわっているので、視覚を例にとりましょう。なぜ、われわれは、前だけを見ているのでしょうか。同時に、後面(背面)も見ることができるような構造に、なぜなっていないのでしょうか。

 いやいや、この問自体がおかしいのかも知れません。「前しか見ることができない(後ろを見ることはできない)」から、「前」という概念ができたのかも知れないからです。視覚と前とは、同時発生の概念なのではないでしょうか。おそらくそうでしょう。そうすると、「眼の前」という言い方の「眼」と「前」とは、決して切りはなすことができないということになります。つまり、「眼は前」なのです。

 このように考えれば、われわれが前しか見ることができないのは、構造的にそうなっているからではなく、概念的に(概念の成り立ちからして)そうなっていたのだということになります。そうなると、おかしなことになります。われわれは、「後ろを見る」ことができなくなります。なぜなら、「見る」のは、「前」だけだからです。

 でも、よく考えると、「後ろを見る」というのが、おかしな言い方であることはすぐわかります。なぜなら、「後ろを見る」という言い方のなかの「後ろ」は、本当の「後ろ」ではないからです。それは、一瞬前の「後ろ」です。一瞬前に「前」を見ていた(これは、必然的かつ概念的な構造)ときに「後ろ」だった「背面」を、そのとき、振り返って(そこにタイムラグが生じる)見ている(前を見ている)からです。つまり、「後ろを見る」というのは、一瞬前の「後ろ」を、一瞬後に「見る」(そして、それは、かならず「前を見る」)という行為のことを言っていることになります。われわれは、どんなに頑張っても「前しか見ることはできない」のですから。

 このように考えると、「前後」を確認するためには、「左右」「上下」とは異なり、一定のタイムラグが必要だということになります。しかし、もし、この「タイムラグ」を認めないのであれば、「前後」という概念は、同時に同じ地平では、決して成立しない(両立しない)概念だということになります。理由は、われわれは、原理的に前しか見ることはできないから、ということになります。ようするに、「前」と「後ろ」は、意味としては、対立している(かつ、絶対に双方を必要としている)のですが、同時に確認することはできない概念だと言えるでしょう。「前」があれば、かならず「後ろ」があるのですから、ふたつの概念は、同時に成立しているはずなのですが、それを同時に確認できる地平はない。つまり、われわれには、つねに「前しかない」ということになるでしょう。

 これは、まあ「視覚偏重」による説明かも知れませんが、ただ、やっぱり、「視覚偏重」になるだけの構造をわれわれがもっているというのは、たしかなことだと思います。

「表」と「裏」

 さて、「表裏」について考えてみましょう。「表」と「裏」もまた、「前後」と同じように、絶対に分離することはできません。「表」があれば「裏」があり、「裏」があれば、かならず「表」があります。たしかに一枚の紙や、一箇のコインであれば、その「裏」と「表」を、われわれは、ひっくり返して見ることができます。でも、同時には、無理でしょう。表と裏を同時に見ることは絶対できないのです。これもまた、「前後」と同じように、タイムラグが必要です。

 でも、表裏に関しては、メビウスの帯があります、メビウスの帯は、表がいつの間にか裏になり、裏がそのままで表に反転します。これだと、「表裏」は存在しなくなるのではないでしょうか。「表=裏」なのですから。ただ、メビウスの帯であっても、特定の一部分の表裏は、決して同時に見ることはできません。ある部分の表に着目しているとき、その部分の裏は、表と同じ地平には、存在できません。したがって、メビウスの帯のように、表が裏になり、裏が表になるのも、ある意味で、タイムラグが必要だということになります。「表」と「裏」は、同時には成りたっていないのです。

 それでいて、この「表」と「裏」は、絶対的な近さのうちに共存しています。「表」から「裏」へ、「裏」から「表」へは、決して行くことはできないし、同じ地平には、同時に登場することは、まったくありえない。ところが、それなのに、最も近い「表裏」をなしている。絶対的に隔絶しながら、絶対的に近接している。最も近く、最も遠い。これが、「表裏」という不可思議な関係の本質的構造です。

「表」の場所と「裏」の場所

 さて、少し思考実験をしてみましょう、われわれは、「表」の世界に存在していると考えるのです。例えば、一枚の紙の上(表)に、すべての存在があると想定してみましょう。その紙は、無限に拡がっています。紙は、その世界の背景になっています。そして、その世界にはすべてのものがあります。全存在があり、その存在の関係も何もかも、あらゆるものがあります。右も左も、上も下も、前も後ろも、あらゆる二項対立が揃っています。存在しているものもあれば、その存在が無い時もあります。存在と存在しない(相対無)状態が、対立しているというわけです。あらゆる存在がある世界。つまり、これは、まさしくわれわれのこの世界そのものだということになります。これが、西田のいう存在の場所です。ビッグバン以来のこの宇宙があり、その宇宙を包摂する「相対無」という意識をも含めた存在の場所だと言えるでしょう。

 そして、仮定したように、われわれが存在しているこの世界を、「表」の場所だと考えてみましょう。この「表」の場所は、二項対立によってできあがっていて、矛盾は、成立しません。つまり、矛盾を禁止する矛盾律が成りたっている世界です。

 二項対立が、きちんと成りたち、矛盾は排除されている世界。それがわれわれがいる世界(「表」の場所)だということになります。だからこそ、存在と無という二項対立も成りたっていますし、「存在しているのに、同時に無い」という状態は、決して現れません。

「絶対無」の要請

 しかし、そのような世界(「表」の場所)が成立していると考えれば、ただちに、その世界と対立する世界(「裏」の場所)を、どうしてもわれわれは、想定してしまうのではないでしょうか。なにしろ、われわれの世界内部では、二項対立が、根本的な原理として支配しているのですから。あらゆるものが、二項対立している世界が、この「表」の場所だといっても過言ではないのです。ですから、西田自身も、物理的世界(存在の世界)と対立させて、意識を「相対無」として想定したのではないでしょうか。

 つまり、この「表」の世界全体に対立するX(「裏」の場所)を考えてしまうというわけです。しかし、そのような想定は、いくらでも続けていくことができてしまいます。「存在」と「無」(存在の欠如)の二項対立、その二項を包摂した「物理的世界」とその背景である「相対無の場所」(意識)との二項対立。さらに、それらすべてを包摂した「表」の場所と、それに対立するX(「裏」の場所)との二項対立。さらに、それら(「表」の場所と「裏」の場所(X))を包摂したYの場所とYに対立するZの場所との二項対立、……以下同様。

 そこで、西田は、「表」の場所と、それに対立するXの場所(「裏」の場所)との関係で、すべての世界を説明しつくそうとします。つまり、「以下同様」の無限を、「裏」の場所(X)で、シャットアウトしようというわけです。

 そのために要請したのが、「絶対無の場所」という概念だったと言えるでしょう。だから、「絶対無の場所」は、「表」の場所に対する「裏」の場所というわけではありません。もちろん、「表裏」という概念の最も本質的な構造をなしてはいるのですが、ただの二項対立ではないのです。この「裏」は、とんでもない「裏面」なのです。

 結論だけ先に言ってしまうと、この「裏面」は、「相対」と概念的に対立するわけではない「絶対」であり、「存在」と対立するわけではない「無」だということになります。ようするに、この「裏面」は、「表」に対立するわけではない「裏」なのです。

 いやいや謎は、深まるばかりです。次回こそ、「絶対無の場所」の正体を暴きたいと思います。


18. ハイデガーと西田(6)――「絶対無」はどこにあるか

「相対」と「絶対」

 西田幾多郎の「絶対無」という概念について、正面から考えてみましょう。「絶対」と「無」とにわけて、考えてみたいと思います。まずは、「絶対」から。

 「絶対」の反対語は、「相対」です。でも、そもそも、この「絶対」と「相対」という概念の対立自体が、おかしな関係なのです。だって、「相対」という言葉は、何かと何かが「相対立(あいたいりつ)している」というわけですから、「対立」や「対概念」といった意味を、その本質としています。「二項対立」や「反対」や「肯定・否定」といった関係が、この「相対」という概念のなかに入っているというわけです。

 それに対して、「絶対」は、「対を絶している」のですから、「対立」や「相対」というあり方とは、まったく異なるものです。そうなると、「相対」と「絶対」とが対概念だというのは、「対立し対をなすもの」と「対立や対をなさないもの」との対立というわけですから、おかしなことになります。「絶対」は、この「相対」的関係のなかには、決して入ってはいけないはずですから。「絶対」が対立しては、まずいでしょう。つまり、「相対」と「絶対」の対立自体が、「相対」的なあり方なのに、そのなかに「絶対」という決して「対をなさないもの」が入りこんでいるという変なことになっているわけです。

 ですので、「相対」と「絶対」というふたつの概念は、その概念自体の意味から考えれば、本来は、二項対立などできません。そもそも対立できない概念対なのです。いわば「対立」というあり方は決して構成できない概念同士だと言えるでしょう。

 そうすると、「相対」と「絶対」という概念は、意味の上では、たしかに反対の意味ということになっていますが、ただ、その関係は、通常の反対語とは異なり、決して対立できないという意味での「反対語」だと言うことになります。「女性」と「男性」や「動物」と「植物」、「右」と「左」といった通常の反対語とはまったく異なり、同じ平面に対立するふたつのものを並べて、このふたつは反対ですよね、とは言えないのです。同じ平面には、「絶対」と「相対」とを並べることはできない。そうです、「絶対」と「相対」というふたつの概念は、前回お話した「表裏」をなしているのです。

 たしかに意味としては対立しているのですが、しかし、全くちがう世界を構成しているから、決してであうことのないふたつの概念が、「絶対」と「相対」といえるでしょう。「相対」が「表」の世界だとすれば、「絶対」はその「裏」に貼りついている。しかし、「表」の世界に現れることは決してない。「絶対」は「相対」には、絶対になれないからです。表裏「一体」ではあるけれども、「地続きではない」対概念だということになるでしょう。

この世界に「絶対」はない

 われわれは、どんなものでも認識するときには、それを分節化して認識します。たとえば、「机」を認識する(例えば見る)ためには、机以外のものと対立させて、「机」を浮かび上がらせる(分節化する)必要があります。「机を机として」見るためには、「机以外」を背景にしなければなりません。

 もし、「机以外」が存在しなければ、「机」そのものも認識したり見たりすることはできないでしょう。そのような事態になってしまうと、「机」=「存在全体」になるということですから、「机」という対象や概念そのものを把握したり認識したりすることは決してできないからです。そして、この分節化は、もちろん二項対立をその本質にしています。特定の対象を浮かび上がらせるためには、他のものを否定して、「机」(肯定している対象)と「机以外」(否定している背景)とを二項対立させるからです。

 そうすると、認識し、その認識を基盤に生活しているわれわれは、「相対」の世界に存在していることになります。だからこそわれわれは、言語を使い、その言語による世界認識を共有することにより、生きているということになります。言語は、まさに「否定」という二項対立を成りたたせる根源から出発している働きであり、道具であり、存在だからです。

 このように考えると、われわれ人間は、「相対的世界」に生きている。つまり、「表」の世界に生きているということになるでしょう。そして、われわれの認識の及ばない「絶対」の世界は、そのわれわれの生きている世界の「裏面」をなしているということになります。もちろん、その「裏面」へは、われわれ相対的な人間たちは、決していくことができない。われわれの「表」の世界と「表裏一体」をなしているはずなのに、<絶対に>、そこ(「裏の世界」)へ反転することはできないということになるでしょう。

「存在」と「無」

 さて、つぎに「無」の概念を考えてみましょう。これは、前にも確認したと思いますが、この世界には、どこにも「無」は登場しません。われわれの生きている世界のなかで、全く何も無い状態を見つけることは、不可能だと思います。ベルクソンの「無」に対する批判にもありましたように、「無」は言葉だけの存在なのです。どこにも「無」はない。この世界は、存在に満ちみちています。この「存在充満」の反対を「考えてみた」結果でてきたのが、「無」という概念だと言えるでしょう。われわれに、その反対を考える習慣(?)があるからこそ、でてきた概念だと言えるでしょう。言語(否定の働き)をもっているからこそ、想定してしまう概念なのです。

 この世界には、「存在」しかない。その世界全体(この「全体」という概念も、かなり曲者ですが)に対立するのが、「無」ということになるでしょう。この「無」は、言葉だけのものなので、どこかに(空間のなかに)存在しているわけではない。以前のこの連載で引用しました「純粋存在と純粋無は同じものである」というヘーゲルの言葉も、このことを言っていると思います。

 私の解釈ですと、この言葉は、「存在全体」と「無」とが「表裏一体」をなしていることを表現しています。存在の領域には、無は一切登場しない。しかし、存在そのものの対立概念として「無」というのが、もしあるのだとすれば(あるいは、言葉としてだけの「無」の場所を想定できるのだとすれば)、それは、「存在全体」(純粋存在)の裏面にべたっと貼りついているのではないか。だから、ある意味で、「存在」と「無」は、表裏一体をなした同じものなのだ、といった意味ではないでしょうか。

絶対無の場所

 さて、われわれが、生きているのは、存在の世界です。われわれが日々暮らしているこの領域は、存在で満ちみちています。そうなると、われわれは、存在の世界にいながら、その「裏面」である「無」に支えられている(というよりも、「貼りつけられている」?)ということになるでしょう。われわれが、「相対」の世界にいながら、その裏に「絶対」が、貼りついているのとまったく同じ構造だと言えるでしょう。

 そして西田幾多郎の「絶対無」という概念は、いま説明したような「絶対」と「無」という概念が、くっついたものなので、われわれの世界(相対的で存在に満ちみちた世界)の「裏面」に貼りついている世界(場所)のことを表現しているということができるでしょう。これが、西田の「絶対無」だと思います。

 西田は、最晩年の著作で、大塔国師の「億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対」という言葉をよく引用していました。これは、「億劫(おくごう)相別(あいわか)れて須臾(しゅゆ)も離れず、尽日(じんじつ)相対(あいたい)して刹那(せつな)も対(つい)せず」(永遠もの長い時間わかれていても、一瞬も離れてはいない。一日ずっと向かい合っているのに、一刹那も向かい合ってはいない)という意味です。この言葉は、まさに、今回説明した「相対」と「絶対」、「存在」と「無」との「表裏一体」の関係を表したものだと言えるでしょう。