舞
https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12452874329.html 【㊱「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著 を読んで 】
https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12454954181.html 【スーフィー;イスラム神秘主義】
https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12454952843.html 【「イスラーム神秘主義(スーフィズム)の思想と実践」】
Facebook清水 友邦さん投稿記事
「舞の心構えとは、物に拘泥せず、人の目を気にせず、心のうちにいっさいの思いが浮かんでこない無心無想の状態にあって謡と舞、体と心とがひとつに集中されたまま、楽の音にのせて舞うのである」金春禅竹 (室町時代の猿楽師、能作者)
無心に舞をしていると大地から螺旋状にエネルギーが上昇して身体を流れます。
そのエネルギーは自我の境界を溶かすので不安や恐怖を伴うことがありますが、恐れずにあるがままにしておくことでエネルギーは自我の境界を超えて流れて浄化します。
日本には昔から、「ハレ(晴れ)」と「ケガレ(穢れ)」という考え方がありました。
ケとキ(気)は異語同義語で、キ(気)は目に見えない潜象エネルギーをあらわしています。
ケの生命エネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」です。
「ケガレ」は、ミソギ(禊)やハライ(祓い)を通じてエネルギーを充電させて回復します。
ツミ(罪)のツは包むのツで、ミは自己の本質のことです。ツミとは本質の上に覆っている余計な知識や観念、思い込みのことです。
本当の自分を自我意識で包み隠すことが〈ツミ〉なのです。
ですから本来の自己が思い込み(ツミ)で覆われてしまうと、エネルギーが流れなくなり、気が枯れて、「ケガレ」てしまいます。
そこで、エネルギーを回復するために、「ミソギ」でツミ(罪)を削ぎはらいます。
〈ツミ〉を削ぎ落として本来の〈ミ〉に帰ることが〈ツミソギ〉即ちミソギなのです。
自我という思い込みが祓われると、神であるミタマ(本来の自己)が姿を現し(ヨミガエリ)、ミタマ(本当の自己)はハレ(晴れ)となるのです。
日常的な意識を超えた力に自我を明け渡したときに、「舞」が起こります。
日常的な意識は 失敗しないように 間違わないように こうしなくては ああしなくては
あの人は舞が上手、 わたしは舞が下手と絶え間なく考えています。
私という自我意識は物事に優劣のランクをつけているので境界線という障害を作ってエネルギーの流れを阻害しています。
欲望、悲しみ、苦痛など人間の苦悩の根本原因が自我なので、自分と他者を切り離している自我は分離があるので葛藤や苦しみがやむことがありません。
自我意識は絶え間なく未来や過去を行き来していて、いまここにいられません。
今この瞬間の身体感覚に気づきをもって舞っていると思考作用は低下します。
ノーマインドという無心の状態に入ると自他の境界が溶け出して世界との融合が起こります
時間と空間を超えた無限の沈黙と真実の愛に気がつきます。
過去も未来もなく、生も死もなく、永遠の今だけがあります。
自分と世界の境界線が消えると神以外のものは何もなく、全てが神となります。
禊祓いという古代の呪術的行為はタマとむすんで全体と一つになることでした。
(引用文献 清水友邦著『よみがえる女神』ナチュラル・スピリット刊より)
先日、天麻那舞(主宰 村上舞那 )のご奉納が遠野市の六神石(ろっこうし)神社であり撮影してきました。夜の撮影でもフラッシュも三脚も使わなかったので写真が少しぶれています。
六神石(ろっこうし)神社の神体山の六神石山(六角牛山)は遠野物語で、三人の女神のうち長女「おろく」が得た山といわれています。
末娘のおないは瀬織津姫命として早池峯神社に祀られています。
この日は蒸気機関車のSL銀河が運行された日だったのでにわか撮り鉄になって撮影してきました。
https://www.tooka-ebisu.or.jp/2021/05/05/%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E3%82%88%E3%82%8A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%83%BC/【巫女よりー神楽についてー】より
こんにちは、十日恵比須神社 巫女です。この「神職と巫女のお便り」では神社に関する話題から、私たちが日々奉仕をする中で感じることなど、様々な記事を掲載致します。
今回は、私たちが神前にて奉仕致しております巫女舞「神楽」の起源についてのお話でございます。
まず神楽は「神座かむくら(=神様が宿るところ)」が語源とされており、神様をまつるために神前に奏する舞楽のことをいいます。そして神楽には、皇室の祭祀として宮中で奏される「御神楽みかぐら」と、宮中以外の場で奏される「里神楽さとかぐら」の二つがあり、神社の祭典または祈願で舞われている巫女舞は里神楽にあたります。
古事記に記されている日本神話の中には、初めて神様の前で舞を舞ったとされる『天あまの岩戸いわと』のお話がございます。
天照大御神の弟、須佐之男命は力自慢でいたずら好きな神様であり、いつも他の神様を困らせていました。あまりにも酷いいたずらが続いたため、日頃優しい天照大御神もこれにはお怒りになり、「天の岩戸」という岩屋に隠れてしまわれました。そして世界は真っ暗な闇に包まれます。これは大変なことだと、八百万の神々は世界に日の出を促すため、天岩戸の前に集まりました。そこで天宇受売あめのうずめの命みことという神様が拍子をとりながら踊りだし、周りの神々はそれを見て笑い、歌い始めたのです。これが神楽の原型といわれております。
その後、外が何やら賑やかだと、天照大御神は岩屋から少し出て様子を見ようとされます。その瞬間に力の強い神様が岩屋の扉を全て開き、世界はまた日の光を取り戻した…というお話がございます。
日本神話からは、私たち祖先がどのような世界観、人生観をいだいていたかを読み取ることができます。神楽の起源は、どうすればこのピンチを切り開くことができるのか、また神様に喜んでもらえるかといった、神々の創意工夫から誕生したものであったのです。
私たち巫女も、これから神前にてご奉仕をするにあたり、神楽は神様の”神賑わい”のためであるということを忘れず、伝統文化の継承とともに、これからも精進してまいります。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
https://www.the-noh.com/jp/sekai/dance.html 【能の世界 舞】より
舞は、謡や囃子といった音楽的要素とともに、総合的な楽劇である能の、大本になるものです。舞という言葉は、能の、個々に現れるからだの動きを表現するだけではなく、懐の深い意味をもっています。能一曲を演じることを「能を舞う」と言います。広い観点からの「舞」は、音楽や動作をすべて含み込んだ、能の総合的な表現活動を総称しているのです。
一方で、能の一曲のなかの特定部分を、“舞”として、他の要素と分けて呼んでいます。中之舞、序之舞などがこれにあたり、小鼓や大鼓、太鼓といったリズム楽器と笛の音が織り成す囃子の音楽に乗って演じられるものです。
“舞”の種類
囃子に乗って演じられる“舞”では、男か女か、神か人かなどの役柄や、祝言物か修羅物か、あるいは鬘物かといった曲の違いに応じて、さまざまな種類があります。“舞”では、笛の旋律が主体的な役割を果たし、旋律の微妙な違いやリズムの違いによって、多彩な舞曲を構成します。以下に主な“舞”をご紹介します。
序之舞 — 野宮
序之舞 ── 野宮(津村礼次郎) ©TOSHIRO MORITA
中之舞(ちゅうのまい)
素早くなく、ゆったりしすぎてもいない舞。普通・通常の基準になるような舞。大小物(笛と小鼓、大鼓で演奏)、太鼓入り(笛と小鼓、大鼓、太鼓のフル構成で演奏)の2種類があります。主に現在物の女性等が舞います。熊野、松風、胡蝶など。
序之舞(じょのまい)
非常にゆったりしたテンポの、品格のある舞。大小物、太鼓入りの2種類があります。白拍子、遊女、高貴な女性の霊、女体の神霊・精霊等の舞と位置づけられます。羽衣、井筒、江口など。
男舞(おとこまい)
現在物の直面・男性が祝言の心持で舞う舞。速いテンポの勇壮、剛毅な舞です。安宅、小督、小袖曽我など。
神舞(かみまい)
脇能で男性の神体が舞う舞。非常に速いテンポで、颯爽と品格を伴って舞われます。太鼓入り。高砂、養老、弓八幡など。
楽(がく)
宮廷舞楽の旋律を模し、神仙ほか中国に題材をもつ能や、楽人に関する能のシテが舞います。ゆったりと始まり、次第に速いテンポになる荘重な舞です。太鼓入り。天鼓、邯鄲、富士太鼓など。
神楽(かぐら)
女体の神や巫女が舞う舞。元は神事のお神楽に由来し、笛は独特の旋律を中心に神舞の旋律を入れるなど、さまざまに奏されます。流派によっては、シテが幣帛を持って舞います。太鼓入り。三輪、巻絹、龍田。
このほか、“舞”として盤渉早舞ばんしきはやまい、 鞨鼓かっこ、 急之舞きゅうのまい、 破之舞はのまいなどがあります。また龍神や天狗などが威勢を示す舞働まいばたらきや修羅道に落ちた武士の苦しみの様子などを表すカケリは、厳密には“舞”としては扱われず、それに準ずるものと位置づけられています。
これら“舞”の数々は、その曲の軽さや重さの位くらいに応じても演じ分けられ、様式美のなかに多彩かつ自在な表現を含ませているのです。
舞いと踊りの違い
一般的によく誤用されますが、能の世界では「能を踊る」、「能の踊り」といった言い方はしません。能はあくまでも舞うものです。舞踊として一くくりにされていますが、「舞う」と「踊る」にはどういう違いがあるのでしょうか。辞書をひもとくと、「踊る」「踊り」の場合は、リズムに乗って飛んだり跳ねたり、手足を躍動させる動作が主体で、「舞う」「舞い」の場合は、摺り足で舞台上を移動する動作が主体になると紹介されています。
昔から、そのように区別され呼びならわされてきましたが、その境界はいつの時代も曖昧ではあったようです。能にも、拍子を踏んだり、飛び返ったりするような型もあります。しかしそれらを含めて、能の世界では古来「舞う」を使用しているのです。
また神楽、今様、朗詠、延年之舞、曲舞といった日本古来の歌舞音曲は、ここで言う舞の要素をふんだんにもっていました。能はこれらの芸能を、さまざまなかたちで取り入れており、その観点からも、舞と能との切り離せない関係が見えてきます。