日本初のイリミネーションマッチが行われたのは全日本プロレスだった
自分が今朝ツイッターでのやりとりで新日本プロレスが日本初のイリミネーションマッチを行ったと発信したら、高崎計三氏から返信があり(ありがとうございます)、日本で初めてイリミネーションマッチを行ったのは昭和59年の全日本プロレスだということが明らかになった。
試合結果はこうなっている(サイトはこちら)
◎1986(昭和59)年6月14日・全日本プロレス後楽園ホール
イリミネーション8人タッグマッチ(時間無制限?)
○G馬場、J鶴田、天龍源一郎、P.トンガ(一人残り)T.J.シン、上田馬之助、B.タイラー、鶴見五郎●
1.○鶴田(体固め、9:21)タイラー●
2.●トンガ(体固め、2:37)シン○
3.○天龍(片エビ固め、0:34)鶴見●
4.●天龍(片エビ固め、0:09)上田○
5.○馬場(片エビ固め、0:31)上田●
6.▲鶴田(両者リングアウト、2:17)シン▲
*シン組全滅、馬場の一人残りで全日側の勝利。
当時の資料を調べてみると全日本プロレスは「グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ」を開催、このときのチャンカンはシングルでの総当たり戦は封印、通常のシリーズとして行われ、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと三シリーズに分けて開催されていた。
シリーズのメイン外国人はタイガージェット・シンと上田馬之助だったが、シリーズの前半戦にはNWA世界ヘビー級王座になったばかりのケリー・フォン・エリック、そして前王者のリック・フレアー、元王者のハーリー・レイス、後半戦にはピークが過ぎつつあったがビル・ロビンソンが特別参戦したが、当時のNWAのトップ3を揃えたのは同時期に新日本で開催されていた「第2回IWGP」への対抗意識の現れだったのかもしれない。また当時全日本所属でプエルトリコやカナダマットで活躍していたキング・ハクもプリンス・トンガのリングネームで凱旋した。
前半戦には鶴田がケリーのNWA王座に挑戦し1-1の引き分け(試合は3本勝負)、三日後にフレアーが挑戦して2-1で王座を奪還、その後レイスがフレアーに挑戦して1-1の引き分けとなったが、実質上のシリーズの主役はケリー、フレアー、レイスの3人であり、本来の主役であるシンも王座奪還したばかりのフレアーに挑戦を迫るなど自身のアピールに苦心していた、後半に参戦したロビンソンも2度鶴田の保持するインターナショナルヘビー級王座に二度挑戦したが、第一戦は両者リングアウト、第二戦は鶴田が勝利で王座を防衛した。
フル参戦しながらも主役になりえなかったシンは上田と組んで、馬場&鶴田組が返上し空位となっていたインタータッグ王座を巡って鶴田&天龍の鶴龍コンビと王座決定戦をシリーズの開幕戦で行ったが結果は無効試合、シリーズ後半には再戦を行ったが両者反則の引き分けに終わってしまい、決着もインタータッグ王座も持ち越しとなったが、鶴龍コンビが王者になったのは三ヶ月後で相手はシン&上田ではなかった(決定戦の相手はブルーザー・ブロディ&クラッシャー・ブラックウェル)
その中でシリーズ最終戦を迎え、全日本軍vsシン軍団のイリミネーション戦が行われたが、結果は馬場が一人残って全日本軍が勝利となるも、シンと上田が仲間割れとなり、上田はこのシリーズを最後に全日本をフェードアウト、トンガも大物揃いのシリーズでは目立った活躍もなく、日本には定着することはなかった。
全日本が行われたイリミネーションマッチが注目されなかったのは同日に行われた「第2回IWGP」のアントニオ猪木vsハルク・ホーガン戦での事件のせいもあったのかもしれないが、もう一つの理由があったとすればシンと上田がシリーズの主役ではなかったのもあったのかもしれない。
全日本と決別した上田は昭和60年。当時選手大量離脱で揺れる新日本プロレスに参戦、翌年に行われた新日本vsUWFのイリミネーションマッチでは、前田日明のキックを受け止めた上田がそのまま場外へと引きずり込み、両者オーバー・ザ・トップロープの場外心中という大活躍をした。
上田と切り離されたシンは上田以上のパートナーが見つからず、また長州力らジャパンプロレス勢の参戦もあってシリーズの主役に返り咲くことはなかった、それを考えると日本初のイリミネーションマッチは、ピークの過ぎたシンに引導渡した試合だったのかも知れない・・・