ハルク・ホーガンがWWF王者となった1984年…日米マットの激動はここから始まった
1984年1月、ハルク・ホーガンがアイアン・シークを破りWWFヘビー級王者となった。このときは日本で活躍したホーガンも頂点にまで昇りつめたのかと喜んでいたが、王者交代の経緯も前々王者だったボブ・バックランドがアイアン・シークの腕固めを極められた際にセコンドがタオルを投入して敗れ王座から転落するという謀略めいたもので、すぐシークがホーガンの挑戦を受けて王座を明け渡すというものだった。
1984年2月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」には王者として参戦、前年度まで日本人側の助っ人として参戦していたが、「第4回MSGタッグリーグ戦」の優勝を契機にアントニオ猪木とのタッグも解消し外国人側として参戦したが、前年度のIWGPではアックスボンバーで猪木をKOしたのを契機に下り坂だった猪木と昇り調子のホーガンの関係は逆転しつつあった。
ホーガンがシリーズを終えて帰国すると、すぐさまWWFによる全米侵攻が開始され、NWAの総本山だったセントルイスに侵攻した。この頃のNWAは体力のあるテリトリーとないテリトリーとの格差が広がりつつあったことでテリトリー制が崩壊しつつあった。総本山だったセントルイスも大物プロモーターだったサム・マソニックが引退してからはハーリー・レイス、ボブ・ガイゲル、AWAのバーン・ガニアの合議制で運営されていたが足並みが揃わず客足が落ち始めたところでWWFに狙い撃ちにされた。
WWFの全米侵攻は新日本プロレスへも大きく影響を与えた、WWFはこの頃にはビンス・マクマホン・シニアからジュニア=現在のビンス・マクマホンに代替わりしていたが、ビンスは格安で選手をブッキングしていた新日本の関係も見直し始め、新日本側もWWFとの窓口だった新間寿氏が前年度のクーデター事件で失脚し、新間氏がシニアを動かし、ブッキング契約が切れる新日本から新団体UWFへ提携先を変えさせようとして暗躍していた。
新日本はWWFと新たな契約を結んで提携関係を維持したが、今思えばビンスがUWFというカードをチラつかせて新日本に不利な契約を結ばせたという見方も出来る。
しかし激動の1984年は新日本がUWFの旗揚げ、長州力ら維新軍団の離脱=ジャパンプロレスの設立という形で続き、WWFはNWA&AWAをますます弱体化させてアメリカプロレスシーンを一新させ、ホーガンもアメリカを代表する大スターへと伸し上がっていった。